「21世紀の政治経済学」用語集

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この記事では本サイトの提唱する「21世紀の政治経済学」で使われる独自の用語を一覧で紹介します。

目次

デフレ・レジーム論

現代の先進国、とりわけ日本のマクロ経済状況を説明する理論で、「21世紀の政治経済学」のマクロ経済認識の基礎。

内容としては、日本の「失われた30年」の経験から生まれた二つの理論、企業による投資の不足を説明するリチャード・クーのバランスシート不況論・「追われる国」論と、消費の不足を説明する小野善康の小野理論を組み合わせ、「需要不足の経済学」として再構築したものです。

「21世紀の政治経済学」では、貨幣・財政観についてはMMTの国定信用貨幣論と機能的財政論を採用しているため、小野氏やクー氏が主流派経済学から引き継いでいる貨幣・財政観、具体的にいえば金融政策や財政政策についての考え方については、これを踏襲しません。

取り入れるのはあくまで彼らのマクロ経済認識であり、それと、制度的現実の説明が強力なものの、マクロ経済認識が相対的に弱いと思われるMMTと結合するところに、「21世紀の政治経済学」の眼目があります。

「貯蓄=投機」社会

小野理論が語る経済状況を、包括的な社会論へと翻訳したもので、21世紀の政治経済学の現代社会論の基礎。

小野理論によれば、消費への欲求は消費を増やすことでほぼ直線的に減退していきますが、お金(=貯蓄・資産)への欲求は、確かにお金が増えれば増えるほど減っていくものの、その減少には下限があります。お金はいわば満点のないテストであり、点数が増えれば増えるだけ嬉しいものなのです。

そのため、社会が消費の面で豊かになればなるほど、人々は所得を消費よりも貯蓄に回します。この点を捉えて、私は「消費社会」は流産し、「貯蓄社会」が生まれたと捉えます。

貯蓄は、企業が生産能力を増やすために行う投資のための生産能力の余剰を生み出すものであり、逆に貯蓄の分の投資が生まれなければ、総需要が総供給を下回ることになります。

先述の理屈により、所得に占める貯蓄の割合はかつてよりも増える傾向にあり、かつ、その貯蓄は、将来の消費のためというより、貯蓄自身のために、つまり、お金を増やすために行われる度合いが増しています。

すると、貯蓄が多い分だけ投資の必要性は増しているにもかかわらず、将来の消費を見込めない企業としては投資をする理由がなく、結果として総需要が総供給を下回ることになります。そのため、供給能力の余剰、つまりは失業や低賃金労働が蔓延することになります。

これが貯蓄社会が生み出す「豊かさゆえの貧困」です。

この貯蓄社会の進化系が「貯蓄=投機」社会です。それは世界的には世界金融危機後の量的緩和と共に始まり、日本ではアベノミクスから始まったと考えられます。

これはすなわち、今日、貯蓄というとき、その主な行き先は銀行預金ではなく、株やゴールドやビットコイン(や不動産)などの金融市場になっており、貯蓄はいまや金融的な投資になっているということを意味します。

そして、私はこの金融的な投資を、企業が生産設備のために行う実物的な投資と区別するために、「投機」と呼ぶことにしています。

この「貯蓄=投機」社会の問題は、貯蓄社会の論理にしたがって、貯蓄が積み上がっていって、それがますます投機として金融市場に流れ込んで金融市場で行ったり来たりを繰り返していく中で、上述の株やゴールドやビットコインといった金融資産がどんどん値上がりしていくことです。

これは銀行預金の金利が非常に高いことと機能的に等価であり、それによって投機としての貯蓄はますます有利になります。

それは「利上げは預金金利の上昇を通じて貯蓄を有利にすることで消費を抑制する」という、金融引締の効果の一つの経路と同じ論理で、消費を抑制してしまうのです。

この過程を通じて、富裕層は金融資産価格の上昇でますます豊かになり、将来不安を抱える中間層もこの上昇に釣られて、ますます「貯蓄=投機」に走る。それが消費を抑制し、実体経済の需要はますます冷え込んで、中間層の足元に失業や低賃金労働への落とし穴がいや増しに増えていくわけです。

本来であれば、「本当に重要なのは私たちの生活に必要なモノやサービスの供給能力だけであり、みんなの働きでそれが維持されている限りで財政危機も年金問題も存在しない」ことを政府が宣言して、人々が安心して消費できるようにすべきです。

なのに現実の日本政府は財政危機や年金問題を進んで喧伝して、老後の安心も自助努力だというノリでNISAを拡張し、この「貯蓄=投機」社会を煽っています。

豊かさゆえの貧困

現代の先進国では供給能力が非常に高まっており、モノやサービスの豊かさが達成されています。

そして、だからこそ、その供給能力を全て使い尽くすほどの需要がなく、結果として、供給能力の余剰が生まれます。

供給能力の重要な部分が人間の労働力ですから、供給能力の余剰とは人間が余ることであり、その結果が失業や低賃金労働です。

これは供給能力が非常に高まり、モノやサービスがたくさん生み出せるという豊かさ「ゆえに」生じる貧困ですから、「豊かさゆえの貧困」と呼ばれるべきなのです。

より詳しくは「貯蓄=投機」社会の項目をご覧ください。

経済成長のマッチポンプ

現代において「経済成長が必要だ」という議論には一種のマッチポンプ構造があることを指摘する議論です。

なぜ「経済成長」が必要だとされているのでしょうか?それは十分に豊かでない人がいるからでしょう。

なぜ、彼らは豊かではないのでしょうか?彼らが必要とするモノやサービスを作る力が足りないのでしょうか?日本は、食べ物や家や自動車が不足しているのでしょうか?おそらくそうではないでしょう。本当にモノがないなんて話はコロナのころのマスクくらいしか聞いたことがありませんし、いつも店には商品が山積みに積まれているのです。最近のコメにしろ、本当にないわけではありませんでした。

確かに日本でも十分に豊かでない人がいますが、それは供給能力が足りないからではなく、十分に供給されているモノを買うためのカネをそういった人々が持っていないというだけの話にすぎません。そして、彼らがカネを持っていない理由といえば、まさに供給能力が需要に対して超過することによって、人間の労働力自体が余って、低賃金労働や失業が生まれているからに他ならないわけです。(→「豊かさゆえの貧困」

にもかかわらず、十分に豊かでない人がいるからという理由で経済成長の必要性が主張されるとき、主に考えられているのは供給面の成長です。成長戦略の名の下に企業がさまざまな投資を展開しやすいような税制が取られたり、あるいは規制が緩和された特区が設定されたり、政府がさまざまな公共投資を行ったり、あるいはとにかくもっと懸命に働くことが奨励されたりします。

もちろん、投資はそのときには需要ですから、これは供給能力の過剰を和らげ、人々に所得をもたらすでしょう。しかし、投資は供給能力を向上させますから、投資が投資だけで終わり、そこで生まれた所得が「貯蓄=投機」に回るのであれば、結局は供給能力の過剰が深刻になるだけであり、「豊かさゆえの貧困」をより広範なものへと押し広げていくだけなのです。そして、それをみて「まだ十分に豊かでない人がいるから、経済成長が必要だ!」と主張されるわけです。

ここには、貧しさを解消すべく経済成長を目指す供給強化の投資中心の施策が、その実、その貧しさを拡大させ、だから再び経済成長の必要性が強調されるという構造があり、それはまさにマッチポンプと呼ぶにふさわしいものです。この種の経済成長志向の政策自体が「豊かさゆえの貧困」という火事を起こし、その火事を消火するとの触れ込みで、再びその政策が売り込まれるからです。もちろん、それもより大きな火事を起こす結果に終わるわけですが。

これは、市場の均衡を前提とし、だから完全雇用を前提とすることで、経済成長の制約を常に供給側に見出す主流派経済学的な思考の帰結に他なりません。私が「完全雇用の神話」あるいは「(市場の均衡を主張する)神の見えざる手の神話」の解体が絶対に必要だと確信する所以です。

脱「成長強制」経済

「21世紀の政治経済学」では、一方では小野理論的な「消費への欲求は飽和しており、所得が貯蓄(=投機)に流れている」という認識から、「消費対象である財やサービスの生産量の拡大」を意味する経済成長はもはや重要ではないと考えます。

他方では、この純粋小野理論的な記述はまだかなりの富裕層にのみ妥当するだけであって、中間層は将来不安から消費を抑制して貯蓄(=投機)に励んでおり、中間層より下の層では、そもそも消費もままならないと考えます。このような人々が特に我慢せずに消費できるようにすることは重要であり、その側面での生産と消費の増加が生み出す経済成長は意義のあるものと考えます。

すなわち、日本が目指すべきは普通の人々のそこそこの暮らしが充実した社会、いわば、生活大国です。それが意味するのは、普通の人々の生活を支えるインフラや商品が安全安心な形で持続的に供給される体制であり、またそれを普通の人々が安全安心に購入できる購買力や将来の安心が保証される体制なのです。

とすると、この「普通の人々のそこそこの暮らし」が達成されたなら、経済成長はもはや完全に重要性を失います。とすれば、そこでは「脱成長」ということになるのでしょうか。

しかし、「脱成長」は厳密に実行しようとすると、かならず中央管理経済、あるいは中央でなくとも強制管理経済に行き着きます。というのも、本当に脱成長をするためには企業の新規投資や起業による新規開業を完全にコントロールしなければならないからです。

たとえば、ラーメン屋が開業できるのはラーメン屋が廃業した時だけといった形で、厳密な意味での脱成長経済とは、席の数が厳密に決まっていて、席の数を増やせないシステムなのです。というのも、勝手にラーメン屋が増えてしまったら、それが当たると経済が成長してしまうからです。(厳密にはラーメンの価格と数量も統制すべきですが)

そう考えると、厳密に追求された「脱成長」が非常に息苦しいことは明らかです。既存の企業その他の組織のなかでうまくやっていける人もいれば、そこではうまくやれない人、行き詰まりを感じる人もいるでしょう。そういった人が、自らの思いでもって独自に何か新しいことを始め、それを社会にさまざまな事業という形で問い、金銭的な成功や失敗の形でそのフィードバックを受け取りうるということは、生産手段の私有と営業の自由を基礎とする資本主義の最良の部分であり、それは放棄するべきではありません。脱成長は、そういった人々に既存の組織のなかで一生腐っていることを強いるものとなりかねないのです。

この観点から、「21世紀の政治経済学」では脱成長という表現は「脱成長強制」という表現を採用します。そこで意図されているのは、確かに経済成長は重要ではないので、社会全体としては成長を目標とはしないし、「信用創造」のようなマクロ的かつミクロ的に成長を促進・強制するようなシステムは取り払われるものの、各人が創意工夫をもって新たに取り組もうとすることを否定することのない、そういう社会です。

そういう何か新しいことに自由に挑戦でいるという社会風土のもとでこそ、人類の過去の蓄積も適切かつ持続的に継承されることが可能になるでしょう。単に過去の蓄積を学べ!というのではなく、何か新しいことをするために過去の知見を踏まえるという方が、人間は学ぶ気というのが起きやすいものでしょう。逆にいえば、脱成長は人間の学習意欲を阻害し、過去の知恵の十全な継承を不可能にし、衰退経済へと転落していく危険性が高いのです。

消費社会アノミー

消費社会アノミーとは、消費社会における「規律の不在(アノミー)」状態のこと。1970年ごろの消費社会への転換において、生産社会を支えた「もっと頑張って働け」という勤労道徳が崩壊し、その結果、社会が規律不在の状態になると考えられたのです。

21世紀の政治経済学では、このアノミー状態への不安や困惑を捉えることで、「完全雇用の神話」を用いて、経済成長の制約は供給側にあるとみなし、それによって「もっと頑張って働け!」と勤労道徳を再肯定する新古典派経済学が主流派経済学の地位を取り戻すことになったと考えます(主流派経済学のマッチポンプ)。

管理通貨制アノミー

管理通貨制アノミーとは、1971年のニクソン・ショックによる金本位制の最終的崩壊以後に生じた、財政「規律の不在(アノミー)」状態のこと。

21世紀の政治経済学では、この財政規律の不在によってハイパーインフレが生じるのではないかという不安が、「均衡財政の神話」を主張して不安を封じ込めてくれる新古典派経済学を主流派経済学の地位に押し上げたと考えます(主流派経済学のマッチポンプ)。

主流派経済学のマッチポンプ

主流派経済学は、消費社会アノミーと管理通貨制アノミーへの不安に対して、旧来型の規範を再肯定するという回答を与えたことで主流の地位を獲得しましたが、その実、その不安自体が主流派経済学の人間観に由来します。

この意味で主流派経済学は自分で火をつけて自分を消しているのであり、この構造を「21世紀の政治経済学」では主流派経済学のマッチポンプと呼んでいます。

未完のポストモダン

1970年ごろ、いわゆる生産社会から消費社会への転換が論じられるのと並行して、近代は終わった、近代の後の時代、「ポストモダン」が始まったということが盛んに議論されました。

このポストモダンのキーワードは「大きな物語」の終焉です。そして哲学の領域において、この点で槍玉に挙げられたもののうちで最たるものが、ヘーゲルやマルクスの弁証法でしょう。

というのも、この弁証法こそ「大きな物語」の製造装置の最たるものだからです。弁証法とは、あるものがあって、それがそのものを「否定」するものに直面するものの、その「否定を否定」して乗り越えることで、より高次のものへと高まっていくプロセスです。

マルクスであれば、「資本」とは、お金が自らを否定してモノとなり、その否定を否定して、より多くのお金として返ってくるプロセスであり、この資本の弁証法的運動によって、生産力が高まり経済が成長していくわけです。

ポストモダンはこうした「大きな物語」の終焉を宣言しました。弁証法的に進歩し、どこか歴史の終着点に到達するような歴史の目的論や、否定の否定のプロセスを通じてあらゆるものを包摂していくヘーゲル的・マルクス的な全体(主義?)的な体系の無効が宣言されたのです。

この哲学的な過程と並行していたのが、現実の経済社会における生産社会から消費社会への転換です。先に見た資本が累積的に巨大化していくプロセスである生産に対して、そのように蓄積されたものを一挙に使い尽くしてしまう消費(蕩尽?)が対置され、脇目も振らずに目標をめがけてガムシャラに働く生産主義的な生き方に、多種多様に生み出される消費社会の記号の間を軽やかに渡り歩く消費主義的な生き方が対置されたのです。

さて、しかし、現実はというといわゆる新自由主義の台頭で、この消費社会は流産したというのが私の診断です。消費社会は流産し、倒錯的な「貯蓄(=投機)」社会が生まれてしまいました。この意味でポストモダンは未完に終わったのです。

しかるに、ここでヘーゲルを援用するならば、歴史的に大きな変化が起きるためには反復が必要です。カエサルはブルータスに殺されますが、そのカエサルがオクタヴィアヌスによって反復されることで初めてローマは帝政に移行しました。人間社会は巨大な変化に抵抗するものであり、変化を示す出来事が再び反復されることで、初めてそれを必然として受け入れるのです。

さて、そういう観点でみれば、ポストモダンな消費社会(=カエサル)は新自由主義(=ブルータス)に殺されましたが、結局のところ、人類の文明の進歩による生産力の累積的増大という現実は消費社会への移行を必然的なものとしており、カエサルはオクタヴィアヌスとして反復されざるを得ません。そのオクタヴィアヌスのポジションにあるのが結局MMTでしょう。

「21世紀の政治経済学」は、MMTの立場を「信用貨幣の弁証法」などを通じてヘーゲル的に正当化することにより、(ポストモダンの敵役だった)ヘーゲルによってポストモダンを完成することを企図するものです。

以上の意味で、その企図の名は「未完のポストモダン」であり、あるいは「ポストモダン—未完のプロジェクト」なのです。

アンチ・エコロジー/プログレッシブ・エコロジー

アンチ・エコロジーとは、本サイトの環境問題に関する立場を根本的に規定している自然認識のことです。

それは通俗的エコロジーが、自然を何か調和的なものとみなし、人間を調和を乱すものとみなして、調和である自然に人間も調和すべきことを主張することに反対する認識です。

なぜ反対するのでしょうか?

まず、第一に自然が調和的であるということは一面的ではないでしょうか。それはいわば「切り取り」に他ならないように見えます。確かに、あるとき・ある場所では、さまざまな種がバランスのとれた食物連鎖の関係性を形成し、その生態系(エコロジー)が保たれているといったこともありうるでしょう。

しかし、まず個体のレベルでいえば、個体は食物連鎖において捕食し捕食される弱肉強食の世界を生きており、そこに調和などありません。そして、マクロな種同士の関係を見ても、別に人間の介入などなくとも、その関係はしばしば変化しており、そこには調和などありません。あるのは危うい均衡であり、それは自然自身の内的論理によって崩壊し変化していきます。

極端な例をあげれば、人間と関係なく地球では生物の大量絶滅が何度も起こっていますし、氷河期とそうでない時期が何度も交代しています。恐竜を絶滅させたのが隕石だというのもよく知られているでしょう。自然を調和とみなすことに対抗して、あえて挑発的にいうなら、自然とは隕石であり氷河期であり大噴火なのであり、最後には太陽が赤色巨星になって地球を飲み込み、すべての生物が絶滅する、それもまた自然なのです。

また、第二にエコロジーにおいて調和的な自然に対して不調和を持ち込むとされる人間自身が、どう考えても自然の一部であるという点です。自然が調和であれ、人間が不調和であれば、結局、自然は不調和でしょう。人間も自然の一部だからです。

そして、もしこのように自然が不調和であり、絶えざる変転であることを認めるなら、自然の特定の状態自身に価値があるとは考えられないでしょう。すなわち、自然の価値は人間の観点からしか決定されることはないのです。

そしてまた、自然が調和でないとすれば、自然との調和なる生き方は、その実、自然の恣意的暴力(隕石・氷河期・大噴火・太陽の赤色巨星化)への服従ともいいうることを認めなければなりません。

すると、私たちが取るべき道は、不調和たる自然を、その不調和の最たるものである人間の力でもって統御すること、いわば、毒を持って毒を制する以外にはありえません。

不調和たる自然に調子を合わせても、それはその恣意的暴力への服従であり、そもそもそこで調和すべきとされる自然の特定の状態には価値がないのです。とすれば、人間のなすべきは、人間にとって価値のある自然の状態を定義し、その状態を実現維持すべく、自然の恣意的暴力を抑制し、あるいはそれに対する防御を固めることしかあり得ないのです。

そして、この自然認識から導き出される政策指針がプログレッシブ・エコロジーです。これは自然を調和とみなす通俗的エコロジーが、しばしば人間が自然と調和するべく何か文明を抑制し後退させるべきであるかのように論じること、いわば、リグレッシブ・エコロジーであることに対抗するものです。

例えば、CO2の排出を減らすために何か人間活動を抑制すべきであるかのように言われるときに、それはリグレッシブ・エコロジーに陥っています。そもそも、CO2の排出を抑えて温暖化を止めれば万事解決というのは、自然を調和として見る誤った考え方に基づいています。

温暖化は止まるかもしれませんが、その後、ふいに氷河期がやってくるかもしれません。それが自然の気まぐれなのです。

だとすれば、環境問題への対策としては、いわゆる「適応策」と「ジオ・エンジニアリング」以外は根本的な解決策になり得ないのは明らかです。人間の活動を抑制し、文明を後退させる、あるいは少なくとも進歩させないとなると、人類はこの種の自然の気まぐれに翻弄されることになるのです。

21世紀の京都学派

21世紀の日本におけるゴリゴリの(=MMTを踏まえている)積極財政論者には京都に縁がある者が多いことに注目を促す言葉。

オリジナルの戦前の京都学派は創始者の西田幾多郎に二番手の田辺元、さらにその下に四人の助教授がいて京都学派四天王と呼ばれていました。

それとのアナロジーで21世紀の京都学派の創始者は西部邁、二番手は佐伯啓思、四天王は藤井聡・中野剛志・西田昌司・安藤裕だと考えます。

戦前の京都学派にも三木清や戸坂潤のように左派と呼ばれる人々がいましたが、21世紀の京都学派の左派としては松尾匡や朴勝俊を挙げることができます。

もともとは2015年の自民党内の「財政再建に関する特命委員会」の過程で、参議院議員の西田昌司に(西田幾多郎とたまたま苗字が同じこともあってか?)「京都学派」のあだ名が付けられたことが発祥(『アフター・アベノミクス』p.29)。財務省主計局も藤井聡と西田昌司のことを京都学派と呼んでいます(『インサイド財務省』p.37)。

信用貨幣の弁証法

信用貨幣の弁証法とは「21世紀の政治経済学」がMMT的な貨幣観(国定信用貨幣論)を歴史的-論理的に正当化するするために創り出した理論です。

私はいま「歴史的-論理的」と言いましたが、このように論理の観点と歴史の観点が一致するのが「弁証法」という方法の特徴的なところです。近代的な弁証法を完成させたヘーゲルは一般にこの世界そのものを世界精神なるものの展開として叙述したとされますが、その意味はヘーゲルが「あるものがそれを否定するものと直面し、しかし、その否定を否定し返し克服することを通じて、より高次のものへと展開する」という対話的な議論の展開の仕方、「精神の展開の仕方(=論理)」を、「世界そのものの展開の仕方(=歴史)」とみなしたということです。

だから、弁証法において論理的な展開と歴史的な発展は一致し、あるものが論理的-歴史的に正当化されるのです。この確信により、ヘーゲルはその社会哲学である「法哲学」の序文において、「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」と断言することができたのです。

私はさすがに自然を含めた世界全体の展開まで弁証法で語ろうとは今のところは思っていませんが、歴史という本質的に人間の精神が織り上げていくもの、そして今回語る貨幣や銀行のような人間が作り出した道具や制度については、本質的に精神の産物であるものとして、その運動を弁証法という枠組みで語ることが正当化されると考えます。

さて、「信用貨幣の弁証法」とは、さきの弁証法の定義に従い、「信用貨幣はそれ自身の存在が否定される弱点に直面するが、その否定を否定し乗り越えるために、より高次な形態へと展開する」、そのように信用貨幣のあり方を認識するものです。その形態発展のさしあたりの最終形が、MMT派のいわゆる国定信用貨幣論なのです。

現金のベース・ストック二重性

あらゆるお金のなかで現金(日銀券)だけが持つ、マネタリーベースとマネーストックに二重に所属するという性質のこと。

これが完璧にわかったら、MMTが語っている現代のお金の仕組みが完全に理解できていると思われます。

財政赤字の倫理学

「21世紀の政治経済学」では、財政赤字の倫理的位置付けの転換を主張しています。

すなわち、通俗的な言説では財政赤字は将来へのツケ回しであり、子供や孫の世代に負担を転嫁する不道徳とされますが、現代の貨幣制度の現実に即したMMT的な立場からすれば、このような議論は事実に反しており、意味をなしません。

国債は通貨発行以外の何物でもなく、政府の財源は本質的には余剰供給能力以外ではあり得ません。そして、私たちが余剰供給能力を抱えているとすれば、それは先行する世代の全蓄積の成果以外ではあり得ません。

とすると、政府が財政赤字を出して余剰供給能力を稼働させ、それで私たちが財やサービスを得られるという事態は、いわば先行世代から私たちへの贈与に他ならず、ここで政府ないし国家とは、この先行世代から現役世代に対して行われる贈与の媒体へと転嫁しています。

また逆に余剰供給能力があるにも関わらず、政府が財政赤字を出して、それを動員しないことは、先行世代から継承されてきた生産力を使わず、それを朽ち果てさせていくことに他ならず、むしろ親不孝な行為なのです。

先行世代から私たちへの贈与は私たちに負債感を抱かせますが、それは私たちをこの相続物をしっかりと活用し保全して、可能な範囲でより良いものにして後続の世代へ引き渡すこと、そういうことへと義務付けるものであるべきでしょう。

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