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カント哲学は近代哲学の金字塔ですが、実は根本的なところで「無理」をしています。 カントは「経験の可能性の条件(経験以前の仕組み)」を問おうとしましたが、私はこう断言します。「そんなこと、出来っこない」と。
この記事では、カント哲学の論理的な矛盾を突き、それを乗り越えるための新しい哲学の視点を提示します。
「経験以前」なんて分からない
カントは「経験は、外界からの刺激を人間が加工して作られる」と考えました。 しかし、私たちは常に「すでに加工された経験」の中にいます。「加工される前の純粋な外界」なんて、誰も見たことがないし、確認しようがありません。
確認できないものを「ある」と決めつけ、そこから論理を組み立てるのは、カント自身が批判したはずの「独断」そのものです。 「物自体(本当の世界)」と「現象(見えている世界)」を分けるカントのやり方は、実はフィクションに過ぎないのです。
出発点は「純粋経験」しかない
では、どう考えればいいのでしょうか? 私たちは「経験以前」には戻れません。だから、今ここにある「経験そのもの」を出発点にするしかないのです。
最初は、「私」も「対象」も分かれていない、ただの「経験(純粋経験)」があるだけです。 しかし、私たちが「あ、今これを見ているな」と「認識していることを認識」した瞬間、世界は「見る私」と「見られる対象」に分かれます。
ここで初めて、「私だけの主観」と「みんなに共通する客観」の区別が生まれるのです。カントのように最初から「物自体」があるわけではありません。
「理性」は二つの狂気の狭間にある
この「認識の認識」は必然的かつ重要なプロセスですが、暴走すると危険です。 「全部、私が見ているだけかも?」と疑いすぎると、「世界には私しかいない(独我論)」という孤独な狂気に陥ります。逆に、「認識の認識」がないと、結果的に「自分の見たものが全て(独善)」という狂気に陥ります。
「他者」や「客観性」という理性的な世界は、この「二つの独我論的な狂気」の狭間で、私たちが必死にバランスを取ることで、かろうじて維持されている奇跡のようなものなのです。
カントのように「物自体」という安全地帯(神様の居場所)や、主観の側の条件にあらかじめ埋め込まれた客観性を用意するのではなく、この不安定なバランスの上で思考し続けることこそが、現代に必要な哲学の態度ではないでしょうか。
この記事はAIを活用して以下の記事を要約したものです。より詳しく知りたい方は以下の記事をご覧ください。



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