55年体制・二大政党制・ネオ55年体制—日本戦後政治史まとめ

55年体制・二大政党制・ネオ55年体制—日本戦後政治史まとめ

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今回の記事は2020年までの日本の戦後政治史を「55年体制・二大政党制・ネオ55年体制」の三つの言葉でざっくりと振り返ります。こちらに3分要約版の記事もあります。

2025年の参院選までの日本政治史を本サイトの「21世紀の政治経済学」の立場からまとめるシリーズの最初の記事となります。

目次

2020年までの戦後政治―55年体制・保守二大政党制・ネオ55年体制

55年体制―戦後の日本国民のリアリスティックな選択として

55年体制とは、1955年に成立し、1990年前後まで、つまり、冷戦が終わり、バブルが弾け、平成へと時代が転換した頃まで続いた政治体制で、「保守」と呼ばれた自民党が2/3程度の議席を握り、「革新」と呼ばれた社会党が1/3程度の議席を握った体制です。

これはどういう体制だったのでしょうか。自民党の「保守」とは、要するに冷戦においてアメリカ側に付いて、資本主義陣営、すなわち、西側陣営に留まるという意味です。社会党の革新とは、資本主義より進んだ段階とされていた社会主義を目指そうという意味で、その点でソ連や中華人民共和国のような東側の社会主義陣営に対応します。この意味では55年体制は冷戦の国内政治への反映でした。

しかし、戦後の農地改革で小農民層が土地を手に入れ根本的に保守化していた日本にあって、社会主義への移行はほとんど現実的ではありませんでした。一般に社会主義への移行には土地を持たない農民の不満が必要なのです。だから、保守と革新との対立は、その実、資本主義とその先としての社会主義との対立に対応しているばかりではなく、他の側面もあったのです。

すなわち、55年体制は戦前と戦後との対立にも対応していたのです。自主憲法制定・再軍備を旗印に結党された自民党は革新側によって戦前の軍国主義への回帰を目指す政党と位置付けられ、革新の存在意義は、そのような回帰、具体的には憲法改正を阻止すること見出されていきました。

戦後の日本国民は、一方では資本主義下における成長の果実を享受しつつ、戦前的なものへの回帰、あるいは軍事的な負担や戦争への加担を回避するために、政権は自民党に委ねつつも、憲法が改正できないよう社会党に1/3の議席を与えるという、ある種のリアリスティックな選択として、55年体制を選び続けたのだと位置付けることができるでしょう。

保守二大政党制―平成の政治改革の夢と挫折

冷戦が終わったことは、この55年体制の正当性を根本的に揺るがすことになりました。

もはや資本主義と社会主義の対立は完全に現実的でなくなりました。戦争についても、もはや冷戦から発展する世界大戦ではなく、唯一の超大国となったアメリカが主導しつつ、国連を通じて地域紛争を警察のように解決していくというイメージで捉えられるようになって、大国日本もそれに貢献していくべきだと認識が強まったのです。そのため、もはや護憲一辺倒は通用しにくくなりました。

それに加えて、自民党の長期政権は強固な利権構造を生み、それがいわゆるリクルート事件などの「政治と金」の問題として噴出したのです。そこには55年体制を固定した中選挙区制度が必然的に生み出す派閥政治も大きく寄与しているとされました。

このような状況に対して、平成の初期の政治改革が出した答えが、保守二大政党制でした。社会主義を標榜し、護憲をこそ大義とするような革新政党はもはや役割を終えたとされました。アメリカのように政権交代可能な保守の二大政党を作り出すことで、政治に切磋琢磨の緊張感を与えること、それが民意に応える合理的で正当性のある政治体制を生み出すと考えられたのです。そのために小選挙区制が導入されることになりました。

その帰結は周知のとおりです。小泉政権という自民党内政権交代のような紆余曲折を経つつ、この保守二大政党制による政権交代に向けて日本の政治は動いていき、ついに2009年、自民党から民主党への政権交代が実現します。

だが、民主党は経験不足ゆえに統治能力がなく、行政改革を通じて得られるはずの埋蔵金的な財源が不発で公約を実現できなったのみならず、外交でも普天間移設問題で迷走、マクロ経済政策も無策で円高を放置し、さらには財務省に主導権を奪われて消費税増税にまで突き進もうとするなど、リーマン・ショック後の不況の局面を突破することができませんでした。

2012年に自民党が第二次安倍政権として政権復帰すると、民主党は分裂し、また日本維新の会他の第三極も台頭し、いわゆる自民・安倍一強時代が幕をあけることになります。政権交代可能な二大政党が切磋琢磨することで、民意を反映する正当性のある政治を目指すという平成の政治改革の夢は、こうした民主党政権の瓦解と分裂によって、挫折することになったのです。

ネオ55年体制―野党第一党の左派リベラルへの純化

右派的なイデオロギーを全面に出して失敗した第一次政権の反省を踏まえ、第二次安倍政権は「アベノミクス」と呼ばれる経済政策を打ち出します。これは標準的なマクロ経済政策に過ぎないのですが、1970年代以降の新自由主義の時代には世界的に右派が市場原理主義に走っていたことを踏まえると、ある意味で新鮮で、左派的な政策と言えるものでした。安倍政権は経済政策で左派的な姿勢をとって民意の支持を調達しながら、自身の本来の右派的な政策を進めていくという戦略をとったのです。

さて、先に確認したように二大政党制は一度挫折したのですが、小選挙区制度のもとでは、二大政党による政権交代の可能性による相互監視以外の政治モデルは想定されていませんでした。平成では官僚に対して政治を、党に対して党執行部を強くする改革が行われてきており、そのように強化された政権への制約は政権交代だけだと考えられてきたのです。すると、第二次安倍政権における安倍一強・他党多弱のもとでは、政権への監視機能が働かず、政権が暴走していくことになるとされることになります。

そのため、しばらくすると野党を結集する動きが生じて来ざるを得ません。政権交代しか暴走を止める術はないからです。

安倍政権の危機は、危機を不支持率が支持率を上回ることとして定義するなら、55年体制時代の戦前・戦後の対立の再来のような形で、2015年の安保法制が国論を二分した時期と、2017年のいわゆる森友学園・加計学園の癒着疑惑がマスメディアによって騒がれた時期でした。前者は解釈改憲による集団的自衛権の容認などが多数を頼んだ強権的な手法として、後者は一強長期政権ゆえの緩み・驕りの結果として論じられることが多かったのです。。

実際の野党結集も、この安倍政権の危機に呼応する形で起きています。2015年の安保法制問題の危機後の2016年には、野党第一党の民主党と第二党の維新の党が合併して民進党を形成しました。それに続いて2017年の危機の際に起きたのが、この民進党が、前年に都知事選で旋風を巻き起こした小池百合子が立ち上げた希望の党と合流して2017年の衆院総選挙になだれ込もうとした事案です。

これが平成の政治改革が想定した保守二大政党制を目指した試みであったといえるのは、小池が安保法制を認め「適切に運用し、現実的な安全保障政策を支持する」としていたことに表れています。55年体制を引きずる形で、安保法制を戦前への回帰とみなす左派リベラル(=昭和の「革新」の平成的な呼び名)的な立場を取らなかったのです。この小池の立場について安倍も「彼女が本気で政権を取るつもりだったということでしょう」と評しています(『安倍晋三回顧録』p.240)。

しかし、安倍政権を脅かした希望の党のまさにこの強みから、希望の党の崩壊が生じることになりました。2024年の兵庫県の斎藤知事をめぐる騒動でネットでも(悪)名を上げたフリー記者の横田一が、小池知事から引き出した安保法制に反対の左派リベラル色が強い民進党議員を「排除いたします」という発言で、希望の党は一気に失速したのです。

こうして排除された左派リベラル色の強い議員は、その一人である枝野幸男が立ち上げた立憲民主党に集結、衆院465議席のうちわずか55議席であるものの、希望の党の50議席を上回り、野党第一党のポジションを確保しました。

この希望の党の失敗と立憲民主党の相対的勝利が、保守二大政党制の夢を最終的に終わらせ、55年体制をゾンビ的に甦らせたものへの道を開くことになります。野党第一党が、政権交代を現実的に展望しうる希望の党のような保守政党ではなく、かつての社会党のように日本のイデオロギー状況ではせいぜい1/3を確保できるに過ぎない左派リベラル政党に交代したからです。実際、2024年の総選挙を経ても立憲民主党は148議席で1/3程度を下回る議席にとどまっています。

立憲民主党という名前自身が、集団的自衛権を容認する安保法制は憲法9条に照らして違憲であるという旧社会党的な護憲の立場を表現しています。平成に保守二大政党制を夢見た日本政治は、一周回って55年体制に回帰してきてしまったようです。それは近年ネオ55年体制と呼ばれるようになっています。それが平成の終わりの政治状況です。

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