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最近、ポピュリズムという切り口で政治を語ることが盛んです。たとえば近年躍進している参政党はしばしばポピュリズムとされます。
現代日本におけるポピュリズムとは何なのでしょうか?なぜ人気があり支持されるのでしょうか?
私は、どちらかといえばポピュリズムの側に立つ者、もっと具体的に言えば、参政党にかなりの共感を寄せる者として、現代日本のポピュリズムについて、その人気と支持の構造を共感的に分析したいと思います。
ポピュリズムとは何か、人々をポピュリズムに向かわせた近年のいくつかの分岐点、陰謀論的思考法と権威主義的思考法の対比、そして参政党の掲げる「反グローバリズム」の意義と危うさを論じます。
それはなぜ参政党が人気で支持されるのかについて、他ではあまり見られない分析となるでしょう。
ポピュリズムの二つの意味:大衆迎合主義と反「既存エリート」主義
いまの日本では普通ポピュリズムは悪い意味で使われます。つまり、大衆迎合主義という意味です。
それによれば、ポピュリズムとは、耳障りのいい政策で大衆を惹きつけているものの、その実、広い視野あるいは長期的な視野に欠けており、結果的に状況を悪化させるような政治運動だとされます。
これに対して、私はポピュリズムという語を、その原義に立ち返って、反「既存エリート」主義という語義で用いたいと思います。
既存エリートというと狭すぎるかもしれません。もう少し広く、反主流、反体制、反システムといっても良いでしょう。
とにかく、現にある体制やシステム、それを支えている考え方、あるいはそれを中心的に動かしている人々(既存エリート)への不信と反感であって、そのような社会の「中心」に対する「周縁」からの異議申し立てがポピュリズムなのです。
ポピュリズムは、その周縁性において、必然的にエリート的ではなく庶民的・大衆的であって、だからpeople-ismとしてポピュリズムと呼ばれるわけなのです。
ポピュリズムの正当性:既存の体制の出鱈目さを示すいくつかの分岐点
そうだとして、なぜ私はポピュリズムの側に立つのでしょうか。言い換えれば、どうしていまポピュリズムに正当性があると考えるのでしょうか。
反体制・反エリートというポピュリズムの定義からして、それが正当性を持つのは、既存の体制・エリートが問題を抱えているとき、それが出鱈目なときでしょう。
このように考えると、体制の出鱈目さが露呈し(たと少なくともある種の人々には思われ)、人々を体制からポピュリズムの側に移らせる分岐点が、近頃、いくつも存在してきたことに気づきます。人々は何らかのポイントにおいて既存の体制が出鱈目なのではないかと不信を抱き、その不信を契機として既存の体制から反体制の側に、ポピュリズムの側に移っていくわけですが、そのような分岐点がいくつもあったのです。
分岐点①:財政破綻論—主流派経済学からMMTへの移行
私の場合は、このサイトにある記事全体が表現しているように、経済問題(財政破綻論・緊縮財政論)の問題が決定的な分岐点でした。
2019年の参院選を前にして、当時、れいわ新選組から出馬していた大西つねきの動画を見て、現代の「債務貨幣システム」、すなわち、借金を通じてのみお金が生み出されるという現代経済の現実を知ったことで、それまでの認識が一変するように感じたものです。
借金がなければお金がない以上、民間が借金をしないなら、政府が「借金」をするしかありません。そもそも政府の借金は実質的には借金ではないことは脇に置くとしても、政府の借金が何か悪いことであるかのように言い募ることは不毛です。それはお金の存在そのものを批判しているのと同じだからです。
翻って、主流のマスメディア、経済学者、官僚、政治家が「日本の財政は厳しい」「国の借金が大変だ」といった、どれほど出鱈目な認識しかもっておらず、それに基づいて「政府の歳出を切り詰め、増税で歳入を伸ばして借金を減らさなければならない」など、どれほど的外れなことばかり目標としてきたのか、それには驚愕したものです。
この驚愕は、その後、年月が経って、上記の「債務貨幣システム」、あるいは「信用貨幣論」、またその現代的な展開を叙述したものとしてのMMTなどが一般の人々には広がりつつあるものの、先にマスメディアや学者や官僚や政治家など、「エリート」であるはずの社会の主流には、この新しい考えがなかなか浸透していかないのを見て、徐々に怒りや呆れに近いものへ成長していきました。
この変化の遅さは、エリートたちの知的怠慢か、自己保身か、あるいはその両方の混合物を意味しているとしか思えないからです。
もちろん、個別に見ればまともな人もいるでしょうし、彼ら自身、これまでの教育の犠牲者という側面もあるでしょう。教科書通りにやっていたことが間違っていて、でもこれまでやってきたことがあまりに大き過ぎて、今更反省できない。自分に置き換えて考えれば、「どうしてこんなことになってしまったんだ?」という気持ちになることは理解できます。
それでも、やはり改めるべきは改めなければならないでしょう。それを含めてエリートの責務であり、エリートであることは単に教科書通りにやっていればいいというほど簡単なことではそもそもないはずです。
分岐点②:コロナ禍—半強制的な生活変容とワクチン問題
他にどんな分岐点があったでしょう。すぐに思いつくのはコロナ禍でしょう。
結果的に若者や現役世代にとっては過剰な対策を押し付け、その活動を制限することになったコロナ禍。ワクチンについても死亡認定数の多さはやはり注意を惹きますし、コロナ死とワクチン死の質的な違いを考慮すると、特に若者では今回のワクチンは割りに合わなかったと考える人がいてもそう不思議ではないでしょう。
このように与えた損害や被害が大きいにもかかわらず、主流のマスメディアは自粛一辺倒、ワクチン推奨一辺倒だったし、それを変えていないわけです。これで反体制側に移った人も多かったでしょう。
私は当時の職業柄、自粛によってほとんど被害も制約も受けませんでしたし、ワクチンは後から考えれば割りに合わなかったかなとは思うものの、特に副反応に苦しんでいるといったこともないので、コロナ問題では、それほど反主流の立場を取っているわけではありません。
分岐点③:ウクライナ戦争—戦時プロパガンダへの違和
あるいは、ウクライナ戦争も分岐点になったでしょう。
日本のマスメディアや、そこで重用される学者などの論調は、基本的に西側の戦時プロパガンダの様相を呈していたように思われます。
ウクライナに有利でロシアに不利な情報は真実であり、ウクライナに不利でロシアに有利な情報はロシアのプロパガンダだとでも言いたげな論調であって、これ自体、純然たる戦時プロパガンダに他なりません。これにアレルギー反応を起こして反主流派になった人々もいくらかいるのだろうと思うのです。
私はというと、ウクライナ戦争に関しては詳しく調べているわけでもありませんから、実際のところはよく分からないし、これでもって特に反主流派になったということもありません。
ただ、戦争の善悪など単純に割り切れないでしょうし、戦争に善悪を持ち込むと解決が困難になるというリアリズムの常識的な発想に基づいて、上記のような戦時プロパガンダの論調には距離を持って眺めているというくらいです。
参政党支持の分析:たった一つでも分岐点を反主流の方に曲がっていれば…
近年の政治・経済・社会の展開は、このようにさまざまな分岐点において、人々を既存の体制から離反させ、ポピュリズムの側へ移させていくものでした。
近年の参政党の躍進は、このような一つ一つの分岐点の通過の帰結が累積した結果であって、さまざまな分岐点で反主流に転じた人々を「反主流」という一点において緩く糾合した結果でしょう。
私自身、今回、参政党にかなり共感もし、2025年の参院選では一票を投じましたが、それは長らく反緊縮財政の論陣を張ってきた安藤裕と三橋貴明の参画があったからです。
私は、コロナ禍、ウクライナ戦争に関しては(非主流ではあっても)反主流ではなく、参政党のオーガニック的な科学・医学懐疑の志向や、外国人問題の過度な争点化にはむしろ反対です。もちろん、個別に対処すべき問題があることは認めますが。
ただ私の場合は、経済問題に関する主流派の言説に対する怒りや呆れとでもいうべきものが一定値を超えているため、やはり参政党のスタイルとしての反エリート主義、そのポピュリズムに共感せざるを得ません。
そして、これがポイントなのですが、現状を認めるという意味で主流を○、それを批判するという意味で反主流を×と表現すると、私のように「経済×、コロナ△、ウクライナ△、科学・医学○、外国人○よりの△」のような人間でも、経済×の一点で参政党を支持しうるのです。
その意味でまさに参政党の躍進は先に述べた通り、「さまざまな分岐点で反主流に転じた人々を「反主流」という一点において緩く糾合した結果」なのです。
先のマルバツ表のようなものをいろんな人について作ってみるのも面白いでしょう。たとえば元歴史学者にして評論家の與那覇潤は、私の知る限りでは、コロナ・ウクライナは×(反主流)ですが、経済は○(緊縮派)なようです。
あるいは経済×(反緊縮・MMT)をツートップで引っ張ってきた藤井聡と中野剛志が決裂したのは、藤井がコロナで×(反自粛)だったのに対して中野が○(自粛)だったことが直接の原因です。
それぞれの人が、どこで最初に分岐点を反主流に曲がったのか、その後それ以外のさまざまな分岐点をどのように通過するか、その違いがどのように生まれてくるのかというのも興味深い問題でしょう。
権威主義と陰謀論
ところで、ポピュリズムというのとほとんど同じようにレッテル貼りに使われている言葉に陰謀論という言葉があります。現体制・既存エリートに反対する人々はポピュリズムであって、彼らの思考は陰謀論であるというのが、既存の体制・エリート側の認識なのです。
もちろん、私はこのような全部○(主流)を前提とするような体制側の思考は肯定しませんが、他方で、陰謀論的な思考という問題もあると思っています。
陰謀論的な思考の問題とは、どれか一つで×(反主流)になると、世の中の主流への不信感が一気に高まり、他の論点でも×に転じやすくなるというか、むしろ、×を出発点としがちになるという問題です。
全部○の前提もおかしければ、全部×の前提もおかしい。それは全て個別的に判断されるべきです。何でもかんでも×というのは陰謀論的思考として警戒されてしかるべきでしょう。
その反対は、なんでもかんでも主流派言説が正しいとして○を選んでしまう思考ですから、権威主義的な思考と呼ばれて然るべきでしょう。
こういう意味で、私は権威主義と陰謀論を対義語として用い、そのどちらも問題であると言いたいと思います。
反グローバリズム、そしてパラダイムシフトの時代の難しさ
また、このような意味での陰謀論として、参政党に危うさを見ることには一定の合理性があるようにも思います。参政党のいう「反グローバリズム」とは、要するにすべての論点における×を横串で貫き繋げるためのキーワードです。
コロナとワクチンは、グローバル医薬品企業や国際機関WHOが裏で操っており、ウクライナ戦争はアメリカの世界支配を目指すネオコンや軍産複合体が元凶であり、新自由主義的構造改革(緊縮財政・規制緩和・民営化)はアメリカとグローバル企業の押し付けであり、モンサントのようなグローバルアグリビジネスのせいで日本の食べ物は農薬まみれであり、日本のグローバル大企業が儲けるために移民を大量流入させている、といった具合です。
それは、もちろん、現在の体制が冷戦終結後に本格化したグローバリゼーションの体制として特徴づけられることに対応し、それに対する健全なカウンターという面もあるものの、このような発想はあまりに×を前提とし過ぎているとは言いうるでしょう。
しかし、このようにいうとき、あまりに○を優先し過ぎているグローバリズム的な権威主義も同様に、あるいはその影響力の大きさを考えれば、陰謀論以上に危険でありうるということもまた同時に言わざるを得ないことも忘れてはならないでしょう。
私たちはパラダイムが根本的に問い直される転換期、常に何が正しいかを問い続けなければならない難しい時代をまさにを生きているのです。


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