この記事は約10分で読めます。
この記事では、「アイデンティティ・ポリティクス」「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」という、近年の左翼政治を彩った一連の政治戦略・政治手法についての用語を解説します。
第1節では、この記事を要約します。
第2節で「アイデンティティ・ポリティクス」、第3節で「ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャー」を扱います。
第4節ではこれらに見て取れる「左翼政治の弱点」を論じ、第5節は全体のまとめとします。
この記事の要約
(第2節)アイデンティティ・ポリティクスは、分厚い中間層が形成され、男性労働者の弱者性が一般的に消失した戦後の高度経済成長以後(ポストモダン)の先進国の状況に適合した左翼政治であって、いまだ強く弱者性を帯びていた女性・外国人・障害者・LGBTQその他の諸属性(アイデンティティ)の権利を擁護しようとする運動です。
(第3節)他方で、その後の現実の展開は、アイデンティティ・ポリティクスが扱う諸属性の状況が属性によって程度に違いはあれどある程度まで改善していったこと、またその諸属性から漏れている「強者」属性(戯画的に言えば「自国民異性愛健常男性」)の状況が相対的に劣化していったこと、こういったことを通じてアイデンティティ・ポリティクスの妥当性を徐々に失わせていきました。
(第3節)この過程の最終段階で生じたように思われる、アイデンティティ・ポリティクスのポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーへの発展は、権利や制度に主に関わっていた政治問題を、言語表現の問題や日常道徳の問題へと拡張するものでした。
(第4節)この拡張は、一面では、その実、「際限のない先鋭化」と「弱者性を盾にする権力」という左翼政治の一般的な弱点を露呈するものであって、アイデンティティ・ポリティクスが行き止まりにぶち当たっていることを象徴しています。
(第5節)これら全ては、これらにも見られる左翼政治の一般的な弱点に留意しつつ、左翼政治を刷新することが必要とされていることを強く示唆しています。
アイデンティティ・ポリティクス―ポストモダン左翼政治の本流として
「アイデンティティ・ポリティクス」とは、女性・外国人・障害者・LGBTQなど、社会的に抑圧されているとされる一定の「属性(アイデンティティ)」に焦点を当て、そのアイデンティティの権利擁護をはかる政治運動です。
私は、これは戦後の高度成長期以後の時代状況(ポストモダンとも呼ばれる)に一定程度以上に適合した、左翼政治の戦略だったと思っています。
製造業を中心とした戦後の高度経済成長は、日本の「一億総中流」に典型的に現れているように、労働者階級を豊かな中間層へと押し上げました。
このことは、搾取され窮乏化した労働者階級を組織することによって資本主義社会を転覆するという、それまでの左翼の主流を占めていたマルクス主義の左翼の戦略を非現実的なものとしました。
いささか戯画的に言えば、自国民の健常者で異性愛者の男性は、労働者として働いて十分な賃金を得て、結婚して専業主婦の妻に支えられながら、しっかりと家族形成をして幸せな暮らしをしていたのです。一般の男性労働者には弱者性がもはやなく、それこそ「歴史の終わり」ではないですが、世界史の一つの到達点だったのです。
これだけでは左翼としては商売上がったりです。左翼政治とは、社会を上下ないし強弱を通じて認識し、弱者の側に立って強者を撃つことを基本とする政治なのだから。
ここで左翼がとった戦略が、先の戯画から漏れている、あるいは戯画のなかで抑圧されている諸属性を取り上げることです。それはたとえば労働市場で差別されていたり排除されていたりする外国人や女性や障害者であって、結婚のような性愛制度から排除されていたLGBTQです。もちろん、このような各種の差別や排除には、広範な社会的な差別や偏見もつきものでした。
また、この動きと関連するものとして、発展途上国への視線というものもあるでしょう。先進国は豊かで幸せになった。その陰で負担を強いられている発展途上国が新たな弱者として発見されることになったわけです。
さて、この戦略は総じていえば左翼政治として妥当でしょう。人間の歴史は王と奴隷がいる時代から始まって、全ての人間が人権を持つものとして平等であるというところまで進んできました。この平等化は進歩であると思うし、平等をさらに実質化していくことに左翼政治の眼目があります。
強きを挫き弱きを助ける左翼政治として、先の戯画がある程度まで達成された時代状況においては、「アイデンティティ・ポリティクス」へ移行することは、相当程度正しい選択だったと私は思うのです。
問題は、こういった運動の成果もあって各種のアイデンティティに対する諸々の差別は(各属性ごとに程度の差はあれ)徐々に緩和されつつあったなかで、先の戯画で描いた幸せな自国民男性中間層が解体されていったこと、そのことに対応する左翼政治の戦略転換が行われなかったことです。
1970年代以降のサービス産業化や、1990年代以降のグローバル化の中で、先進国の製造業が空洞化し、製造業労働者を中心に形成された分厚い中間層が、ITや金融、そして製造業で研究・管理業務等に関わる一部の仕事という高収入層と、サービスの現場に従事する低収入層とに分化したのです。
このように、かつてのマルクス主義が取り組んでいた経済的な格差の問題が前景化してくるなかで、左翼がアイデンティティ・ポリティクスに没頭していること、これを「文化左翼」と呼んで批判的に取り扱うことは、すでに90年代からアメリカの哲学者のローティによって行われていました。
しかるに、左翼政治の戦略転換が左翼の主流において起こることはなく、2010年代、一方ではアイデンティティ・ポリティクスが扱うような各種の属性の人々の社会進出や社会での活躍が進み、他方では自国民男性中間層の階層分化が進んで、ますますアイデンティティ・ポリティクスの妥当性が失われていくなかでこそ、それは最後の花を咲かせることになります。
それがポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの隆盛です。
ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャー
ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーは、アイデンティティ・ポリティクスがテーマとする各種の属性への差別の問題を、制度や権利に関わる政治問題から、言語表現の問題へと広げ、さらに普段の言動のような日常道徳の問題へと拡張したものです。
具体的には、ポリティカル・コレクトネスは、アイデンティティ・ポリティクスが取り扱うような各種の属性に関する「差別的」とされる表現を、差別的でないとされる「政治的に正しい(politically correct)」な表現に置き換えていく運動であって、転じて、日常の生活において差別的とされる表現を使ったり、差別的とされることを言ったりする人に対する批判の運動です。
キャンセル・カルチャーは、この後者の批判運動が過激化した形態であって、差別的とされる表現を使ったり、差別的とされることを言ったりする人に対して徹底的なバッシングを行い、その人の持っている仕事や職業上の地位をキャンセルしようとする運動です。
犯罪を行った人が刑罰を受けるのは当然ですが、キャンセル・カルチャーは犯罪でなく刑罰が与えられないものに対して、その代わりに社会的な地位剥奪という制裁を加えんとする一種の私刑であるところに特徴があります。
これらはよく言えば、制度や権利に関わる問題を政治的に解決しても、いまだに社会に残存している差別(意識)を取り除こうとするためにアイデンティティ・ポリティクスの政治戦略を発展的に拡張するものです。
これらを悪く言えば、制度や権利という最も重要な部分の問題は解決され現実の状況も改善されつつあるのに、それでも残存する相対的に小さな問題で騒ぎ立てて必要以上に問題を大きく見せ、誰かの問題点を攻撃することで政治的・道徳的な優位を確保し続けようとすることであって、アイデンティティ・ポリティクスの政治戦略の無理な延命措置です。
私としては、前節の末尾において述べたように、このポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの運動が、アイデンティティ・ポリティクスが扱ってきた諸属性の人々の一般的な状況の改善と、そこから漏れる人々、典型的には強者とされる自国民男性の状況の劣化という情勢下で花開いたために、どちらかといえば後者の見方のように悪く捉える方が妥当なのではないかと思います。あるいは、そう捉えられても仕方ないという風に思うのです。
左翼政治の弱点について―際限ない先鋭化と弱者性を盾にする権力
このポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの展開には、左翼政治の二つの悪い面がよく現れています。
第一は、左翼政治が際限のない先鋭化に走りがちなことです。左翼は合理性を基本においているため、左翼政治を担う狭いサークル内においては、理性が展開する論理が人間の現実を無視する形で純粋に追求された結果、より原理主義的で過激な意見の方が何か真性なものとみなされやすく、正しいものとされがちです。
そのため、左翼政治は際限なく先鋭化し、一般庶民の意識から離れすぎて自滅することがしばしばあります。1970年前後の全共闘運動の末期に、武装闘争の準備のために山に籠った連合赤軍の面々が、一部のメンバーに対して、彼らが十分に共産主義的でないことを反省せよと「総括」を迫った挙句、リンチして殺害するという山岳ベース事件が生じました。その異様さによって新左翼運動は一気に大衆の支持を失ったのです。
第二は、弱者性を盾にする権力の問題です。これは左翼が権力を握ったときに生じる問題であり、前世紀の社会主義革命政権に典型的に見て取れます。こういった革命政権は労働者や小作農などの弱者を代表するものとして権力を握ったわけですが、この権力は従前の強者とされた人々を徹底的に弾圧しました。その極北がカンボジアのクメール・ルージュであり、資本家のみならず知識階層はほとんど根絶やしにされたとされます。
このような権力、権力を握る立場として極めつきの強者でありながら、弱者を代表しているとの自意識を持っている権力が一番暴力的であり危険なのです。それは日常的な場面において、被害者意識を持っているときにこそ、私たちが一番攻撃的になることを考えてみれば推測できることです。私たちは被害者というつもりで反撃するのですが、そのとき私たちの力が実はとても強かったらどうでしょうか。これほど危険なことはないでしょう。
ポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーの問題には、この二つの左翼政治一般の弱点がよく現れています。
それらはアメリカ民主党の支持者に代表される現代社会の強者たる一部の高学歴エリートらの内輪の知的・道徳的マウンティング競争として過激化・先鋭化していき、庶民の実感から遊離していきました。
それどころか、それはともすると強者たる高学歴エリートたちが、弱者の権利の美名の下に、「政治的に正しくない」庶民の言動を叩くための道具になることもあったのです。これでは庶民にそっぽを向かれて当然です。
もう一点付言すれば、アイデンティティ・ポリティクスの問題点は、こういった左翼政治一般の抱える弱点に加えて、ある部分ではグローバリゼーションを支える機能を果たし、いわばグローバル企業のイデオロギーのような様相を呈したことにもあったといえるでしょう。
多様性を言祝ぐことは世界中から優秀な人材が集まるシリコン・バレーでは自然なことであるでしょうが、それはそれ以外の場所では、製造業の海外移転を促進して工場労働者の仕事を奪い、移民を流入させてサービス産業労働者の賃金に下落圧力をかける、そのことを正当化しているに過ぎないと受け取られたわけです。
結語―左翼政治の戦略転換の必要性
私は、アイデンティティ・ポリティクスを戦後の高度経済成長以後(ポストモダンと呼んでおこう)の先進国の状況にある程度以上に適合した左翼政治の形態として位置づけました。
それは当初は妥当性のある戦略だったのですが、その後の現実の展開は、それが扱う諸属性の状況のある程度の改善と、それに漏れる属性(自国民男性)の状況の劣化によって、アイデンティティ・ポリティクスの妥当性を徐々に失わせていきました。
その過程の最終段階で顕著に花開いた思われる、アイデンティティ・ポリティクスのポリティカル・コレクトネスとキャンセル・カルチャーへの発展は、際限のない先鋭化と弱者性を盾にする権力という左翼政治の一般的な弱点を露呈するものであって、アイデンティティ・ポリティクスが行き止まりにぶち当たっていることを象徴しています。
それゆえ、左翼政治の一般的な弱点に留意しつつ、左翼政治の戦略転換が必要とされているのです。


※コメントは最大500文字、5回まで送信できます