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この記事では、ハイエクのケインズ批判をハイエクの原文(の日本語訳)を引用しながら読解します。
そうしてハイエクとケインズ、それぞれの経済学の一面を明らかにしつつ、最後にはハイエクの意図に反して、ハイエクを使って積極財政論を正当化してしまおうという論理のアクロバットを展開します。
ハイエクは、その価格メカニズムを称揚する哲学に忠実であるならば、結果的に(ケインズの末裔を自認している)本家MMTよりも積極財政(政府の裁量的な財政出動)に肯定的でなければならないのです。
どうしてそういうことになるのでしょうか。一歩一歩議論を進めていきましょう。
消費の増加は、投資を増加させるか(ケインズ)、減少させるか(ハイエク)
引用の最初の部分は、消費を増加させることが、その消費財を作るための投資を増やすかどうかをめぐって議論が展開されます。
ハイエク曰く、ケインズは消費を増加させれば必ず投資が増えると想定していましたが、それはいろんなものが余っていることが前提です。全てのものがフル活用されているなら、消費を減少させなければ、投資を増やすことはできません。
これだけ踏まえて、まずは引用を読んでみましょう。
消費財に対する需要と投資量との関係を取り上げてみよう。消費財需要の増加が投資の増加に導くであろう一定の条件が存在することには、疑いの余地がない。しかしケインズは、つねにそうなるのだと想定する。けれども、つねにそうではありえないのであって、ある情況においては、最終生産物に対する需要増加が投資の減少に導かざるをえないことが、容易に論証できる。消費財需要の増加が投資増加に導くということは、すべての生産要素と諸種の商品の遊休備蓄が存在する場合―ケインズはそれを一般的に想定している―にだけ、一般的に正しい。そのような情況においては、消費財の生産と資本財の生産を同時に増加させることが可能である。
しかし、経済システムが完全雇用またはそれに近い状態にあるならば、局面はまったく異なる。そのときには、すくなくとも一時的には消費財の産出量を減らすことによってだけ、投資財の産出量を増やすことが可能である。なぜなら、投資財の産出量を増やすためには、諸要素が消費財生産から投資財生産へ移されなければならないであろうから。そして、追加的投資が消費財の供給を増加させる働きをするようになる前に、いくばくかの時間がかかるであろう。
『市場・知識・自由 ―自由主義の経済思想―』「回想のケインズと「ケインズ革命」」p.191-
先ほどより一段詳しく読解していきましょう。
ハイエク曰く、ケインズは消費財への需要が増えれば投資が増えると考えました。ここで投資とは、個人が行う株や暗号資産などへの金融的な投資ではなく、企業が行う工場を建てるなどの実物的な投資です。
たとえば、私たちがスマートグラスといった消費財をバンバン買うようになれば、企業はスマートグラスをもっと作るべく、工場を増設し、製造設備を導入するような投資をするでしょう。これが消費需要の増加が投資を増やすというケインズの論理です。
ハイエクは何を批判しているのでしょうか?ケインズの論理が成り立つのは、人やモノが潤沢に余っている場合だけだということです。逆に、生産に活用できる様々なリソース、人間の労働力や各種の自然資源や中間生産物等が余っていない場合(=全てのものがフル活用されている「完全雇用」が実現している場合)、投資の増加は消費の減少によってのみ可能になるというのです。
たとえば、スマートグラス工場を増設したいけれど、もう手の空いている建設労働者がいないという状況を考えましょう。それでも工場を立てるとすれば、既存の工場でスマートグラス製造をしている労働者に工場建設を手伝わせるしかないでしょう。そうすれば工場を建設する投資は実行できますが、その分、一時的に消費財の生産は減っています。
これがハイエクがここで言いたいことです。消費を増やせば投資が増えるかどうかは、完全雇用かそうでないかによって変わるということです。ハイエクによれば、ケインズは完全雇用でないことを「一般的に想定している」がゆえに、消費の増加が常に投資の増加につながると考えてしまったのです。
しかるに、完全雇用であれば、消費を減らすことによってだけ投資を増やせますし、逆に消費を増やすなら投資は減るということになります。両者は有限な資源を奪い合う関係だからです。
(新)古典派の完全雇用か、ケインズの完全非雇用か
こうして論点は、経済は完全雇用なのかそうでないのかという点に移ります。続く部分でハイエクは、ケインズはケインズ以前の古典派経済学1の完全雇用の前提を批判した結果、勢い余って(?)逆の極端に行き、全てのものが余っている完全非雇用の想定に行き着いてしまったと批判します。
先の部分に続く箇所の引用を読んでみましょう。
この点でケインズは、かれが古典派経済学者たちの誤謬として批難したのとはちょうど反対の誤謬によって、欺かれたようにみえる。古典派は完全雇用を想定して議論していた、とケインズは主張したが、この主張は部分的にだけ正しい。そしてかれは、完全非雇用の想定と称してもよいようなもの、すなわち、正常的にはすべての要素と商品の遊休備蓄が存在するという想定に立って、かれ自身の議論を展開した。しかしこの想定は、すくなくとも古典派のそれと同じくらいに、事実に程遠い。それだけでなく、古典派の想定よりもはるかに人を誤らせるものである。完全雇用の想定を基礎とする分析は、想定が部分的にのみ妥当するにしても、すくなくとも価格メカニズムの機能、すなわち、さまざまな価格のあいだの関係の意義と、この関係の変化に導く諸要素の意義とを、われわれが理解するのを助ける。しかし、すべての財と要素が過剰に存在していて入手できるという想定は、価格システム全体を余計なもの、不確定なもの、理解できないものにしてしまう。じっさい、ケインズのもっとも正統的な弟子たちのうちには、価格決定と分配の伝統的理論全部、すなわち、経済理論の脊柱である習わしであったすべてのものを、首尾一貫して投げ棄ててしまい、その結果、私の意見では経済学を理解することをやめてしまったようにみえる人たちがいる。
『市場・知識・自由 ―自由主義の経済思想―』「回想のケインズと「ケインズ革命」」p.191-
先ほどより一段詳しく読解していきましょう。
ハイエク曰く、ケインズは、それ以前の経済学、(新)古典派経済学に対して、それは生産に必要なさまざまな要素が全てフル活用されている完全雇用を誤って想定していると非難しました。
これに対して、ハイエクは、この(新)古典派批判は正しいは正しいものの、ケインズは逆の極端に走ってしまい、「すべての要素と商品の遊休備蓄が存在する」という完全非雇用を想定したと非難します。
そして、ハイエクによれば、完全雇用の想定と完全非雇用の想定は、事実に反する度合いは同じくらいなのですが、完全非雇用の想定の方が害が大きいのです。
なぜかといえば、完全非雇用が含意する「過剰性」「豊穣性」の想定は、「希少性」という前提のもとで、希少資源の円滑な需給調整を可能にする価格メカニズムという経済学の伝統的な中心的主題を無意味なものとしてしまうからです。
需要>供給で人気なモノは価格が上がり、その価格上昇によって、需要は減り、供給は増えます。逆に需要<供給の不人気なモノは価格が下がり、需要は増えるとともに、供給も減ります。こうしたプロセスを経て、さまざまなモノの需要と供給のズレが解消されていき、経済は何らかの程度で「均衡」に向かっていきます。
これを供給の側からみれば、需要超過なモノの価格が上昇することで、そのモノの人気がシグナルされ、より儲けたいと思う人々が、その利己心から、不人気なモノから需要が多いモノへと供給(資源の動員)をシフトさせるということになります。
逆に需要の側からみれば、需要超過なモノの価格が上昇すると、もったいないからそれを節約しようと考えます。とにかく使う量を減らす工夫をしたり、代替品を探すことになるのです。
ハイエクが言いたいのは、すべてが余っているなら、あるモノに関して需要が供給を上回るということもなく、したがって、そのモノの価格が上昇する「価格メカニズム」によって、需要と供給が調整されるということがありえなくなってしまい、結果として、経済学的思考が無意味になってしまうということです。
この主張についてちょっと考えてみると、ハイエクは経済学的思考は有効であるという前提から、完全雇用の前提よりも完全非雇用の前提の方が有害だと言っているわけです。しかし、これは逆に言えば、ハイエクも言及していた前提の事実との距離という観点から、完全雇用の前提よりも完全非雇用の前提がより正しいということになれば、希少性を前提とする経済学的思考は徐々に有効性を失っていくということでもあるはずです。
私は、長い目で見るなら、技術的革新によって、徐々に希少性よりも豊穣性が基本的な前提となっていき、完全雇用よりも完全非雇用の想定がより事実に近くなって、結果としてハイエクの言う意味での経済学的思考は徐々に無効になっていくと考えます。
『一般理論』だけが「時事論説」なのか
さて、話を本筋に戻しましょう。ハイエクの議論は、ケインズは完全非雇用という極端に走ってしまったということでした。もし完全非雇用なら、政府が財政支出をして何かを買おうとすれば、その分、余ったリソースを使ってモノが作られることになるでしょう。
しかし、この完全非雇用の前提が正しくなければ、そのような財政支出はすでに使われているリソースの奪い合いを生み出し、インフレを引き起こします。これが戦後のインフレの正体だとハイエクは主張するのです。そういうわけで、結局、ハイエクのケインズ批判は、ケインズが完全非雇用という1930年代の大恐慌のような特別な時事的状況においてのみ成り立つ理論を『一般理論』と称したことに向けられることになります。
先の部分に続く箇所の引用を読んでみましょう。
追加的貨幣を創出すればそれに対応する量の財が創り出される、というような信条が、経済学が決定的に根絶してしまったとわれわれの思っていた、あのヨリ素朴なインフレ論者の誤謬の復活に導かずにはいなかった次第は見易い。そして私は、戦後のインフレーションの多くが、このような過度に単純化されたケインズ主義の大きな影響のせいであることを殆んど疑わない。ケインズ自身がそれ[=戦後のインフレーション]を是認したであろう、というのではない。実際、もしかれが生きていたならば、この時期においては、断乎たるインフレ反対論者のひとりになっていたであろうと、私はまったく確信している。かれの死の二、三週間前、かれに最後に会った折であったと思うが、かれはいくらか率直に、私にそう語った。その時のかれの見解は、他の点においても啓発的であるから、伝える価値がある。私はかれに、かれの弟子のある者たちがかれの理論を適用している仕方に不安を感じているのではないかどうかを、訊ねたのであった。かれの答は、自分の理論は1930年代には大いに必要とされていた、というのであった。しかし、もしその理論が万一有害になるようなことがあれば、かれはすばやく世論の転換を生じさせるであろうと、私は確信することができた。私がかれを批難するのは、かれがそのような時事論説を『一般理論』と称したことに対してである。
『市場・知識・自由 ―自由主義の経済思想―』「回想のケインズと「ケインズ革命」」p.191-
先ほどより一段詳しく読解していきましょう。
以上のように議論してきたハイエクは、こうして戦後のインフレーションをケインズの責任に帰することになるのです。確かに完全非雇用であれば、政府による追加的貨幣の創出(=赤字財政支出)は、使われていない労働力や資源を利用することで、インフレなしでのモノの増産に結びつきます。しかし、完全雇用であれば、追加的貨幣の創出はインフレを引き起こすというわけです。
こうして、ハイエクによれば完全非雇用を想定したケインズの『一般理論』は、1930年代の大恐慌に対応する「時事論説」であって、まったく「一般的」ではないということになるわけです。
ここからハイエクの議論を批判的に検討してみましょう。このように語るハイエクの議論は「一般的」なのだろうかと問い返してみるのです。
まず、真に一般的といえるのは、ハイエクも「しかしこの[完全非雇用の]想定は、すくなくとも古典派のそれと同じくらいに、事実に程遠い」ということで暗に認めている通り、完全雇用でも完全非雇用でもない状態でしょう。すなわち、あるモノに関しては需要が供給を上回り、需給が逼迫しているが、あるモノに関しては、需要が供給を下回り、リソースが余っている状態です。
卑近な例を挙げれば、あるラーメン屋には行列ができているが、別のラーメン屋はガラガラで閑古鳥が鳴いているというのは日常茶飯事でしょう。前者のラーメン屋のリソースは完全雇用ですが、後者のラーメン屋のリソースは完全非雇用です。
このように、社会全体では足りないものもあれば、余っているものもあるというのが常態であって、一般的な事態なのです。
ハイエクの市場哲学で積極財政を正当化する—本家MMTとの比較
この一般的な中間状態のときに政府が「追加的貨幣の創出(=赤字財政支出)」をするとどうなるでしょうか。このことについて、ハイエクはたとえばケインズの遠い末裔である本家MMTよりも肯定的でなければならないはずなのです。どうしてそういうことになるのでしょうか。
本家MMTは、ケインズ的な裁量的な赤字財政支出に批判的であって、政府が働きたい人全員を最低賃金で雇う「就業保証(Job Guarantee=JG)」という政策を主張します。その主な理由は、裁量的な赤字財政支出は、完全雇用に達する前にインフレを引き起こすというものです。本家MMTを代表するレイの『MMT現代貨幣理論入門』は以下のように述べています。
前章では、インフレに火をつけることなく雇用を創出する新たな戦略―就業保証アプローチ―について検討した。既に説明した通り、それは、緩衝在庫と下限賃金を操作することによって、「底辺から雇う」ので、(「呼び水」的な需要刺激策が経験しそうな)インフレによるボトルネックに苦しむことがない。(p.478)
MMT派は(も)、黒いヘリコプターが現金袋を落下させながら飛び回ることを望んでいるわけではなく、政府の「呼び水的」な需要刺激策にも反対である(一定のラインを超えると―おそらく完全雇用に達する前に―それがインフレを引き起こすという主張に関しては、リバタリアンもオーストリア学派も、そしてミルトン・フリードマンさえも、正しい)。(p.438)
「政府は、インフレを引き起こすことなく完全雇用を追求すべきだ」を政策規範とするMMT派は、それが完全雇用に至る前にインフレを引き起こすという理由で、「呼び水」的な、つまり、民間の投資や消費を呼び込むきっかけとなるように行われる政府の裁量的な財政出動に批判的なのです。逆にJGでは政府が設定する最低賃金で雇う(下限賃金を操作)ので価格を高騰させることはありませんし、好景気になってインフレ圧力が高まれば、JGから民間労働市場に労働者が流入することでインフレ圧力が相殺されます(緩衝在庫の論理)。
ここで裁量的な財政出動批判の議論が「ボトルネック」という単語を使って表現されていることから分かるように、ここで想定されているのは、すべてのものが余っている完全非雇用的な世界と、すべてのものがフル活用されている完全雇用的な世界の中間の状態、先に見たとおり一般的な状態です。
レイは、そこで政府が裁量的な支出をすると、すべてのものがフル活用されるようになる前に、一部のものだけがフル活用されて、そこがボトルネックになり、そのものに関して局所的なインフレが起こって、ほかのものをフル活用することができないというのです。
さて、市場というものにそれほど意義を認めていないように見えるMMT派がこのように主張するのはいいとして、オーストリア学派というか、少なくともハイエクは、こんな主張はできないはずではないでしょうか。
というのも、ハイエクは、その哲学の中心的な主張において、市場の価格メカニズムは、中央政府の計画(つまり、エリート集団の知性)などでは及びもつかない、分散的かつ的確な情報処理システムであると論じていたからです。
このことの意味は、今回の文脈では以下のようなものでしかあり得ません。完全非雇用から完全雇用に向かっていく過程において、先行的に一部のリソースの完全利用が生じ、そこでボトルネックのインフレが生じるけれども、その価格メカニズムによる信号を受け取った買い手は、そのリソースの節約や代替品を模索するし、売り手はそのリソースの供給を増やそうと努力します。
ということは、買い手は需要をボトルネックとなったリソースからまだフル活用されていないリソースに向け変えていくし、売り手も余っているリソースをボトルネックとなっているリソースの供給へと向け変えようとします。この結果として、ボトルネックとなった一部リソースのインフレは鎮静化されるでしょう。
このプロセスは、ボトルネックリソースの需要を減らし供給を増やすことで、同時に他のリソースの需要を増やし供給を減らすことであって、まさに各種リソースの活用度の平準化を進めていくプロセスに他なりません。
すなわち、市場メカニズム、ハイエクの称揚する価格メカニズムの働きとは、とりもなおさず、すべてが余っている完全非雇用から、すべてがフル活用されている完全雇用に向かっていく際に不可避的に生じるボトルネック、つまり活用度のアンバランスを均して、バランスよく完全雇用に向かっていくことを可能にするものに他ならないのです。
だから、市場を評価していなそうなMMT派が「政府の「呼び水的」な需要刺激策」は「一定のラインを超えると―おそらく完全雇用に達する前に―それがインフレを引き起こす」と主張するのは理解できるとして、ハイエクがそう主張するのは筋が通らないのです
要するにこういうことです。政府の思い上がったエリートがいささか過剰な財政政策をやったとしても、少なくともインフレはそれほど心配する必要はないのです。だって、一般的な状況は、完全雇用と完全非雇用の中間なのですし、エリートなんかより何倍も賢い価格メカニズムがリソースの活用度のアンバランスを均すように人を動かしてくれるのですから。だから、追加的な需要の創出によって全般的なインフレが生じるまでには相当のバッファーがあるのです。
もちろん、この価格メカニズムによるボトルネック・インフレの鎮静化も、代替不可能かつ追加供給不可能なリソースには無効ですし、またどんなリソースでも代替や追加供給には一定の時間がかかること、人的リソースの配置転換はその柔軟性に人間的な限界があること等々も否定し得ませんが、原理的には以上のように考えられるはずなのです。もし、この限界を過度に強調するなら、そもそもハイエクの価格メカニズム論自体が崩壊するでしょう。だから、少なくともハイエクはこの限界を過度に強調できないでしょう。
このような次第で、「ケインズ的な」政府による積極的・裁量的な財政政策、積極財政に関しては、実はMMT派よりもハイエクの方は肯定的であるというか、肯定的であるべきであると言えるのではないでしょうか。ハイエクの市場哲学に従うなら、裁量的な財政政策でボトルネック・インフレが生じても、価格メカニズムがそれを平準化して、経済全体はバランスよく完全雇用に向かっていくのですから。
かくして、ハイエクがケインズをインフレの責任に関して非難していたという事実は、ハイエクがケインズの完全非雇用の想定を「時事論説」と批判する時に、実は自身も完全雇用の想定という「時事論説」に陥っていたことを暴露しているでしょう。
というのも、本当にハイエクが、これまでの引用がそう主張しているように、完全雇用と完全非雇用の中間の想定という一般的な想定に立っていたならば、政府の追加的な財政支出によっては全般的なインフレが容易には起き得ないというのが、彼の市場哲学から説得的な形で導き出される結論だからです。
そして、先ほども述べたように、私は技術的な進歩によって、私たちの現実はますます完全雇用から完全非雇用へと近づいていくと想定するのです。それが私が積極的な財政政策の余地は大きいと判断する理由です。
- ここでハイエクが古典派経済学と呼んでいるものには、いま普通、新古典派経済学と呼ばれているものも含まれている。 ↩︎


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