初心者・初学者のための経済学入門—足りないのはモノかカネか?

初心者・初学者のための経済学入門—足りないのはモノかカネか?

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この記事は、初心者・初学者が最初に読むべき経済学の入門の記事です。

この記事を読むと、経済学のもっとも根本的な問い、唯一の本当に大事な問題から、経済学に入門できます。

すなわち、「いま足りないのはモノかカネか?」という問いです。

目次

経済学の根本問題—足りないのはモノか、カネか?

改めて、経済学の根本的な問いを考えてみましょう。

それは「いま足りないのは供給なのか需要なのか」でしょう。

分かりやすく言いかえれば「いま足りないのはモノ(の供給)なのか、それともカネ(による需要)なのか」です。

もし足りないのが、供給であり、モノであれば、それは本当の問題です。モノを供給するのは簡単ではないからです。それには人間の時間と労力と知恵が必要です。

作るべきモノを構想・設計し、生産設備を整え、材料を調達し、労働者を雇用し、生産設備を支障なく稼働させて、完成したモノを買い手のもとに遅滞なく配送する。この全てがさまざまな困難や不測の事態を伴う実物的な過程であって、人間の時間と労力、創意工夫が要求され、過去の人類から私たちに手渡された膨大な知識と技術の蓄積に基づいています。

もし足りないのが、需要であり、カネであれば、それは擬似問題です。というのも、現代のカネは政府の作り物に過ぎず、政府がほぼノーコストで提供できるからです。そうして、必要なものがあるのにカネがない人にカネを渡せば、それで問題は解決となります。

そして、私は、大雑把にいえば、いま足りないのは「モノ(供給)」ではなく、「カネ(需要)」だと思います。なんといっても、「モノがない!」という話をほとんど聞いたことがないからです。せいぜい、コロナのころのマスクぐらいです。あるいはほんの一時期のコメくらいでしょうか。それに対して「カネがない!」という話は日常的に聞かれます。

そもそも、これほど生産力が発展した世界で、モノが足りないというのはナンセンスだと思うのです。

たとえば、農業を考えてみましょう。産業革命以前の鋤や鍬の農業と、トラクター等各種農業機械やドローン、品種改良、化学肥料や農薬に支えられた現代農業を比べれば、労働者一人あたりの食料生産量はおそらく少なくとも数十倍になっているでしょう。対して、一人が食べる食料の量はどう多く見積もっても二倍~三倍程度です。どうしたらモノが不足できるのでしょうか。

いくら人手不足が云々されようとも、大局的には日本において全員の基本的なニーズが満たせないほどにモノが足りないという状況は存在していないはずです。

日本人の誰もが休む暇もなく働いているのでしょうか?不要不急の仕事に従事している人は一人もいないのでしょうか?

人手不足などというのは、不要不急の仕事に従事している人が誰もおらず、誰もが休む暇もなくなってから言われるべきことです。それこそ、月月火水木金金といわれ、学生・生徒が戦場や工場に動員された戦争末期のような…。

もちろん、自然環境の制約というのは相応に心配すべきですし、対応を考えるべきですが、これはいまだに将来の話であって、いま問題になっているわけではありません。いま問うているは、いま足りないのは何かです。

なぜカネが足りないのか?

問題は、では、なぜカネが足りないのか、です。

モノをたくさん作れること、つまり供給過剰が生み出す「豊かさゆえの貧困」

ケインズがすでに洞察していたことですが、そのカラクリはだいたい以下の通りでしょう。

生産力(モノ・供給)が増えるという意味で社会が豊かになればなるほど、需要が潜在的な供給能力に追いつかない可能性、モノが売れ残る可能性が増していきます。

それは供給能力が余ることを意味しているわけですが、その供給能力の重要な部分をなしているのが労働者としての人間です。つまり、供給能力が余るとは人間が余るということです。

労働者としての人間が余ると、その帰結は極端な場合は失業、そうでない場合でも低賃金その他の劣悪な環境の労働です。「代わりはいくらでもいる」から、人は劣悪な環境に耐えざるをえないのです。

こうして、失業者や低賃金労働者のところで「カネが足りない」という問題が生まれるのです。繰り返せば、別にそういった人が食べるモノや住む家が足りないわけではないのです。食べモノはスーパーにたんまり並んでおり、毎日たくさん廃棄されていますし、日本に空き家は山ほどあります。

それは、生産力が人間の通常の需要を大幅に上まわってしまうほど増大したという、まごうことなき豊かさの「ゆえに」生じる貧しさという不条理です。

こうしてある種の人々にカネがなく、さらにカネがいくらかある人でも将来が不安でカネを使いません。となると、モノはあんまり売れないし、賃金を気前よく払うこともできません。

すると、そんな賃金では働きたくないと人も集まりません。現代の人手不足とは、先に見た戦時中のような真の人手不足には程遠い、こういった代物にすぎないように思われるのです。

「政府にもカネがない」というウソ

さて、こうした状況をさらに不条理にするのが、こういった人々を助けるだけの「カネ」を政府が持っていないという考えです。

そんなはずはないのです。そもそも現代の「カネ」は政府の作り物なので、政府は「カネ」などいくらでも作れるのです。

この明白な事実を否定し、そうして政府による救済を否定することにより、「カネが足りない」という問題が最終的に生じるのです。

だから、問題の解決は、とても単純化してしまえば、究極的には政府がユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)などで「カネ」を作って配ることなのです。

カネを配るという解決策の困難

しかし、この解決には二つの困難な課題があります。

カネを配ると供給が激減する?

一つ目は、現実的・客観的な問題といえるものです。

多くの人が「カネ」が必要だから「カネ」を稼ぐために働いているという事情があります。

とすれば、もし政府が「カネ」を配るなら、そのカネを使おうとする需要が増えるのはもちろんのこと、「カネ」をもらった人々が労働意欲を失い、供給が激減してしまうのではないでしょうか。

これは現実的な問題です。答えは、配るカネの量はしっかり調整しなければならないというバランス論になります。

これはMMT派がいう、財政の制約はインフレ率とか供給能力といった話と同じです。政府はカネを作って配れますが、それが供給能力を大幅に超えてしまえばインフレが起き、いくらカネを増やしても、その分、カネの価値が下がるだけの話です。カネの価値が保たれるのは、それに対応するモノの量が担保されるときだけです。

しかし、中長期的には、第一次産業や製造業における機械化、事務作業・知的サービス業におけるAI化、対人サービス業におけるロボット化、あるいは流通における自動運転化等等によって人間の労力が相対的に不要になっていくことで、この供給崩壊の問題は小さくなっていくと想定されます。

カネを配らないことの問題と、カネを配ることの問題を比べた時に、後者は徐々に小さくなり、前者は徐々に大きくなると想定できるのです。つまり、供給能力の向上に合わせて、カネを配らないことによる「豊かさゆえの貧困」の問題はどんどん深刻になるのに対し、カネを配りすぎることによる供給能力の崩壊の問題はどんどん生じにくくなるのです。

カネに価値がないのなら、私たちは何で自分の成功を測ればいい?

二つ目は、心理的・主観的な問題といえるもので、このような思考に対して多くの人が心理的な抵抗を抱くということです。

それは、マルクスが言ったように、資本主義が社会を徹底的に流動化し、人々を共同体から解放し、伝統的な規範をどんどんと無効化していったことと関係しているのでしょう。すなわち、その過程を経て、私たちに最後に残った規範が「カネ」なのです。

私たちはもはやどんな規範にも本当には服していないのですが、カネは必要だから働くし、そのためならさまざまな規範に服します。例えば、接客業ならお客様に向けて笑顔で対応します。今の世の中にはそういう側面があるのです。

また、私たちは自分の成功、あるいはもっと慎ましやかに「いま自分が間違っていないか」もカネで計測します。何はともあれ、カネが溜まっている以上は自分は上手くいっていると考え、それを誇りを持ったり、そこまではいかなくとも「自分は間違ってない。よくやってる」と思うのです。

だからこそ、カネは所詮は政府の作り物であって、政府がいくらでも作れるし、それを配ることもできるという事実を認めることは困難となります。

カネがその程度のものだと認めてしまうと、カネが唯一の規範である以上、一方では、それは社会秩序の完全な崩壊を伴うのではないかと危惧されます。カネがそんなに希少でなくなったら、どうやって人々を社会に奉仕させるのだ?というわけです。

そしてまた他方、個人のレベルでは自分の成功や「自分が間違っていないこと」を確証してくれるものの価値が失われてしまうようにも感じます。

すなわち、カネが政府の作り物に過ぎないという認識は、一方では社会秩序解体の恐怖を連想させ、他方ではカネで成功を計測してきた私たちの誇りを無効化してしまうようにも思われるのです。

この心理的な問題を私たちはどう乗り越えていけばいいのでしょうか。

もっとも本質的なことは、資本主義において唯一残った規範としてのカネの規範的な力が弱まった後に、また再び様々な規範を再構築するというか、むしろ思い出していくことです。そうして、カネという規範がなくなったところで、社会は解体しないということを体験し体現していくことです。

ちょっと考えてみれば、人間は経済学が言うような自己利益を最大化することに専心する「合理的経済人」などではないことは明らかでしょう。人間は、「自己利益を追求したければ(=カネを稼ぎたければ)他人に役立つことをしろ」、要するに「生きていきたければ働け」と命ずる市場のいわゆる「神の見えざる手」を通じてしか他人への奉仕に方向づけられないような、そういう存在ではないのです。

後者の個人の誇りや自己承認の問題についていえば、これからは、単にカネを求めるのではなく、他者に役立つ活動をして誇りとするか、あるいは自分が好きで満足できる活動を追求して自足しようということに尽きます。

この問題を突破できるか、そこに文明の存続がかかっている

いずれにしても、このような障壁を突破して、ここで述べたような発想が社会で共有されなければならなりません。それが不可避となったのが、21世紀です。

というのも、さもなくば、豊かさゆえの貧困という極限の不条理がどんどん拡大していくことによって、社会の分断がいまよりもいっそう進み、最終的にそれは社会秩序の崩壊、文明社会の解体を帰結するだろうからです。

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