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この記事では、「自然との調和」という言葉に含まれる嘘を暴くアンチ・エコロジーの思考を展開し、環境倫理学における人間中心主義の復権を図ります。
さて、もともと生態学を意味するエコロジーは、その主題である生態系が、さまざまな種がバランスよく共存している場だとイメージされたことを通じて、自然の調和的なビジョンを意味するようになっていきました。
そこから、その調和的な自然を人為によって侵害しない、いわば「調和的な自然と調和する」考え方や生き方をも意味するようになったのです。エコな生き方というやつです。
しかし、これほど一面的な思想も珍しいでしょう。私はアンチ・エコロジーの思考として、以下のように主張します。
自然は調和ではない
まず第一に、自然は必ずしも調和的ではありません。ある場所、ある時間を切り取るなら、確かにさまざまな種が調和的に生きているようなバランスのよい生態系も存在するでしょう。
しかし、あれほど栄えた恐竜を絶滅に追いやった巨大隕石も自然の作用ですし、大量絶滅を引き起こした幾度もの氷河期への移行も自然の作用です。
さらに、調和的とされる生態系も、熾烈な生存競争で維持されており、それが一時期バランスされていたとしても、種の突然変異や大噴火のような内在的・外在的な要因でそのバランスはいつでも破壊されうるのです。
こう考えたとき、自然は必ずしも調和的ではありません。
不調和たる人間自身が自然の一部である
そして第二に、人間は自然の一部です。自然が調和的でない何よりの証拠は、エコロジー的な見方で不調和の原因にして象徴とされる人間も、自然の一部であることです。
自然を調和とみなし、人間を不調和の原因とみなして、人間が自然の調和と調和することを学ばなければいけないとするような思考は、最初に人間を不当に自然から除外してしまっているのです。
自然との調和は恣意的暴力に対する「隷従への道」である
さらに第三に、自然と調和した生き方には、必ずしも調和は存在しません。自然が調和していないからです。
自然と調和した生き方とは自然の恣意的暴力への隷従でもあるのです。自然とは隕石であり氷河期であり大噴火だからです。
人間中心主義へ:自然の特定の状況に価値を見出すことはできない
そして最後に、何らかの程度で自然が調和ではなく絶えざる破壊と創造のプロセスであると認めるなら、特定の生態系のあり方それ自体をを他のあり方より高く評価する理由は見出し難いでしょう。
だからもし自然やその生態系に価値があるとすれば、それは人間にとって有利であるということ以外にないように思われます(人間中心主義)。もちろん、その有利さには景色の美しさや、癒しとなるといったことも含めることができます。
自然は調和ではない。不調和たる人間も自然の一部である。自然と調和した生き方は、その実、恣意的暴力への隷従である。絶えざる破壊と創造である自然の特定の状態に価値はなく、価値は人間からしか生まれない。
これらがアンチ・エコロジーの根本テーゼです。
このアンチ・エコロジーはどこまで妥当なのでしょうか。
エコロジー全盛の世の中、あえてエコロジーと対決しつつ、このアンチ・エコロジーの思考を試行してみることは、エコロジーが自然という野蛮への回帰に退行しないために、価値のある試みであるように思われます。


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