脱炭素は無意味?気候変動への最適解は適応策と地球工学なのか?

脱炭素は無意味?気候変動への最適解は適応策と地球工学なのか?

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こちらに3分要約版の記事もあります

この記事では、気候変動・地球温暖化問題について考えます。

私はこの問題の科学的詳細については詳しくないのですが、一有権者として、いわば一つの政治的問題として、この気候変動問題についての考えをまとめておきたいのです。

この気候変動・地球温暖化問題については、地球温暖化の実際とその原因をめぐる科学的・事実的問題と、その対応策の有効性や現実性をめぐる政策評価の問題との二つの問題が存在します。第一節と第二節で、それぞれの問題を検討します。

私の結論は、第一の問題については、CO2による温暖化は事実であるものの世論では誇張されている面があるということ、第二の問題については脱炭素一本槍は非現実的であって、適応策と地球工学(ジオエンジニアリング)にこそ注力すべきであるということです。

それはしばしば人間活動を抑制することと結び付けられて退行的(リグレッシブ)な響きを持つ脱炭素に対して、積極的・進歩的(プログレッシブな)なエコロジー、プログレッシブ・エコロジーを提起するものとなるでしょう。

目次

地球温暖化のファクトについて—温暖化は事実だが、しばしば誇張されている

いろいろな意見を見ていて、(1)人間が大気中のCO2を増やしており、(2)CO2に温室効果があり、(3)それによって地球温暖化が起きている、この三つのこと自体は認めてよいと思われます。つまり、私は温暖化否定論・懐疑論には立ちません。

ここで問題があるとすれば、(3)の温暖化が起きているということについての一般的な過大評価の傾向でしょう。確かに温暖化は起きているものの、それは産業革命から250年で1.2度といった水準であり、単純計算すれば10年で0.05度程度です。温暖化が加速しているとされる現代でも10年で0.2-0.3度程度だというのです。

したがって、近年の猛暑を地球温暖化とのみ結びつけるのは科学的にはミスリーディングであって、全地球的な温暖化の影響は否定され得ないとしても、都市化によるヒートアイランド現象や、毎年の自然変動の影響の方が大きいと考えるべきでしょう。

気候変動の文脈で、「昔よりだいぶ暑くなったねぇ」などというとき、その違いはおそらく温暖化のせいではありません。だって、どんなに大きく見積もっても50年で1度も変化していないからです。「昔よりだいぶ暑い」のは都市化が進み、街中がアスファルトに覆われて緑が減り、人が快適さを求めて冷房を使う結果出てくる排気によるものでしょう。つまり、ヒートアイランド現象です。

もちろん、平均気温のわずかな上昇なら何の問題もないというわけではないでしょうが、近年の猛暑を温暖化とのみ結びつけて温暖化対策を煽ることには、やはり事実誤認が含まれていると言えるでしょうし、次節で検討するにように、現在の温暖化対策の方向性には問題があるため、このことは看過できません。

喫緊の課題ということが強調されすぎると、対策の妥当性評価そのものが疎かになりかねないからです。

温暖化対策の妥当性について—脱炭素より適応や地球工学が優れている点

先の(1)(2)(3)を認める、つまり人間由来のCO2による温暖化を認めるとして、それへの対応がCO2削減であることは必ずしも帰結しません。主流の世論は、この点を見落としているのか、十分な検討を経ずに脱炭素路線にあまりに集中し過ぎているように見えます。

脱炭素という解決策の問題点は、それが有効性を発揮するために全世界的な協力を必要とする点で、現実性に欠けることです。

日本という単位で考えるなら、CO2の排出量は世界で三%にすぎません。米国はトランプ政権ですでに脱・脱炭素の方向ですし、いわゆる発展途上国は高い成長意欲を持っています。彼らが「CO2を出して豊かになった先進国が我々に脱炭素を押し付けるのか!」と主張したら、先進国はそれに反論することは難しいでしょう。世界的な協力の全面的な達成は困難そうです。

このため脱炭素は全面的には成功しない可能性が高いので、他に有効な対応策があれば、そちらにも力を注ぐべきです。そして、別の選択肢は存在します。

それは二つの方向性に分かれます。すなわち、一つは温暖化に「適応」して、そこでも人間が大きな不便なく暮らせるような技術開発とインフラ整備を進めることです。たとえば、高温に強い農作物の品種改良だったり、農業の工場化を進めたり、住まいの冷房環境を改善したり、労働の暑さ対策を徹底したり、各種の防災計画を推進したりといったことです。

この方法の優位性は、脱炭素のように効果を得るためには世界的な協力が必要だということがなく、適応政策を進めると、それを進めた国や地域がいち早く生活を改善して政策の成果を得るという点にあります。

もう一つは地球の気温をもっと大規模にコントロールするような技術的な介入策の考案であって、一般に「地球工学(ジオエンジニアリング)」と呼ばれる方法です。これには太陽光を遮ったり、太陽光の反射度を高めたり、CO2を回収したりといった技術的な介入が考えられます。しかし、これは現状、その大規模性や技術的な困難さにおいて、脱炭素と同じような非現実性を孕んでいます。

しかるに、脱炭素以外の選択肢である、この二つの方向性が脱炭素より優れている点は、これがどんな気候変動にも対応しうる汎用性のある考え方だということです。たとえば極端な例ですが、脱炭素をやっていて、急に氷河期がやってきたらどうでしょうか。脱炭素一辺倒では、これには対応できません。

他方、適応戦略やジオエンジニアリングの考え方は、温暖化にも寒冷化にも等しく通用する考え方であって、その研究開発を温暖化対策方面で推し進めることは、同時に寒冷化対策方面で推し進めることにも寄与するでしょう。たとえば、農業の完全な工場化を実現し、農業を自然から独立させれば、それは温暖化対策でも寒冷化対策でもありうるのです。

逆にいえば、地球温暖化の原因がCO2だからといって、脱炭素にばかり専心するのは、地球環境はこれまでめちゃくちゃな自然変動をしてきたし、これからもするであろうことの想定を欠いている点で、やや視野が狭いように思われるです。

適応策とジオエンジニアリングも並行的に推し進めるべし

したがって、人為的なCO2の温暖化を認めるとしても、脱炭素という対応策は唯一の選択肢とはなりません。繰り返せば、それは世界的な協力を前提する点で非現実的であって、温暖化にしか、さらにいえばその一つの原因にしか対応しないという点で応用性が低いからです。

もちろん、やらないよりはやった方がいいのですが、米国の方向転換や、途上国の高い成長意欲を考えると、全面的な成功は見込めないため、代替的あるいは補完的な選択肢が必要なのです。

以上の検討から、温暖化対策として、脱炭素政策は世界的に協調が図れる限度においていわば「半身で」進めつつ、日本としては適応戦略を基本に据えて、温暖化しても大きな被害を被らないような各種の技術的・社会的な対応策を推し進めながら、中長期的にはジオエンジニアリングも視野に入れた大幅な科学技術上の革新を目指すべきだと思われる。

それにより地球環境の変化に適応したり、さらには人間の生存条件を地球環境の変化から可能な限り独立させたり、また気候の積極的コントロールを実現したりすることで、温暖化にも寒冷化にも対応しながら、最適な生存環境を実現することを目標とすることが、長期的には人類の生存にとって最も有効な戦略だと思われます。

結論:リグレッシブ・エコロジーからプログレッシブ・エコロジーへ

脱炭素政策は、しばしば人間活動の抑制と結び付けられて退行的(リグレッシブ)な響きを持ちます。それと対比する形で、私は以上の考え方を積極的で進歩的な環境主義、プログレッシブ・エコロジーと名付けたいと思います。

あるいは、本サイトの基本的な主張と関連づければ、脱炭素はグリーン・ニューディールなどとも結びつきますが、本来は緊縮財政的なものでしょう。経済活動を縮小させれば炭素は減るのですから。それに対してプログレッシブ・エコロジーは多様な長射程のイノベーションを必要とするものとして、政府の積極的な財政政策と親和的です。

それはいわば緊縮的な我慢のエコロジーから積極的な投資による解決のエコロジーへの転換でもあるのです。

補論:アンチ・エコロジー、あるいは人間中心主義の復権

ここでエコロジーという言葉を、私は人間にとって有利な生態系を維持することという人間中心主義的な意味で使っています。こちらで詳しく論じましたが、生態系は人間と関係なしに(たとえば巨大隕石で恐竜が滅んだというように)時間と共に変化するものであり、現状の生態系を守らなければならない必然性は存在しないため、生態系に価値があるとすれば、それは人間の視点によってのみであるからです。

とにかく現状の生態系を維持せよというエコロジーは、自然を調和であると誤認しており、巨大隕石、氷河期への突然の転換、大噴火等々の既存の生態系の完全な崩壊、あるいは最終的な太陽(系)の終焉、そして生態系を破壊しているとされる人間自身も自然であることを忘れているのです。自然とは調和ではなく、不調和であり、絶えざる変転であり、ときには巨大な破壊装置に他ならないのです。これが私がアンチ・エコロジーと呼んでいる自然認識です。

もちろん、だからといって現在のように多様な動植物がいることの価値を否定するわけではありません、それは人間が豊かな食生活を送るために必要だというのみならず、その多様性が人々の目を楽しませ、人々がそれらを慈しんでいるという点においても、人間にとって価値があり、それらの喪失は価値において否定的な事態だからです。人間にとって有利であるというのは、このように広い意味で捉えられなければならないでしょう。

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