この記事は約26分で読めます。
本来、現代は左派が求められる時代であるはずなのに…
近年、世界的に(リベラル)左派の退潮が著しくなっています。その典型が第二次トランプ政権の誕生です。
しかし、左派の衰退は非常に奇妙でもあります。現代は左派こそが求められている時代だとも感じるからです。
近年の先進国の政治問題の中心は、グローバル化が引き起こす製造業の海外移転と経済のサービス化によって、これまで先進国の中間層を形成してきた労働者たちが、没落したか没落しつつあることです。
グローバル化のなかで、先進国の工場は海外に移転し、労働者は職を失います。そこでサービス産業に活路を求めるも、金融やITや医療・法律・会計等の各種専門職などの一部を除けば、サービス業はもともと低賃金です。それに加え、低賃金のサービス業では近年の先進国に増えている移民との競争も激しいのです。
冷戦終結後の30年のグローバル化のなかで、このような構造が形成されてきたことに加え、コロナ禍とウクライナ戦争を経て、先進国ではインフレが顕在化して庶民の懐を直撃しました。これによって、いわば人々のお尻に火がついて、ついに構造的に蓄積された不満が爆発したのです。これが大雑把にとらえられた現代の状況でしょう。
左派没落が奇妙なのは、これに真に対応できるのは、近代を通じて、もともと労働者の味方を自認し、経済的な格差の問題を重視してきた左派のはずだからです。
しかし、現実にはそうなっていません。左派は、この不満を受け止め役を右派に奪われ、相対的に没落しつつあるのです。
今回の記事では、その原因を分析し、左派復活の処方箋を考えてみたいと思います。
原因分析の結論まとめ
さて、原因分析の結論を述べれば、問題の出発点にして究極の原因は、70年代以降の左派が、マルクス主義(社会主義)を捨てて資本主義と和解したことにあります。最近、左派が日本でも「リベラル」と呼ばれることは、その実、おそらくはこの資本主義との和解を象徴しているのです。左派の主流はもはや「ソーシャル」ではないのです。
もちろん、70年代以降の左派が社会主義を捨てたことには正当な理由がありました。現実に存在する社会主義はあまりに問題が多く、また戦後の資本主義は黄金時代を迎えて、労働者の多くが中間層へと上昇していきました。
問題は、その後に左派が編み出した各種の政治的な思想や政策アジェンダ、ポストモダン思想、アイデンティティ・ポリティクス、エコロジーといったものが、そもそもあまり上手くいかなったり、ある意味ではある程度上手くいったがゆえに有効性を失いつつあったり、あまりに偏狭な方向性にはまり込んでしまっていたりと、いまや全般的に上手くいっていないことです。
そして、それ以上の問題は、にもかかわらず、もともとの主戦場たる経済の問題に左派が回帰できていないことなのです。そして、その根本的な理由は、左派が資本主義と和解しきってしまったことにあるのです。
そして、その左派復活の処方箋は、左派が経済の問題に回帰し、反労働中心主義的な思想を構築することです。社会主義は採用するべきではありませんが、しかし、現状の資本主義とも和解してならないわけです。それはいわば「ポストモダン―未完のプロジェクト」とでもいうべき構想となるでしょう。
以下では、こういったことを見るため、次の第三節でポストモダンの左派政治の成立と失効を見たのち、第四節で格差問題が左派ではなく右派によって糾合されてしまう理由を上記の結論を軸にして考察し、それを踏まえて第五節から、左派復活のための処方箋を考えてみたいと思います。
ポストモダン左派政治の成立と失効
―マルクス主義、ポストモダン、そしてアイデンティティとエコロジー
フォーディズム、一億総中流、そして、マルクス主義の終焉
左派の大きな変容が生じたのは、だいたい1970年前後と見てよいでしょう。戦後の先進国の高度成長によって、日本のいわゆる「一億総中流」という言葉にもっとも典型的な仕方で表れているように、いわゆるサラリーマンも含みつつ大雑把に労働者階級と呼びうる人々の一定の富裕化・中流化が達成されました。
それを可能にしたのが、フォード自動車が生み出した、いわゆるフォーディズムです。ベルトコンベアー式の大量生産による生産性向上を、労働者への賃金に分配し、労働者自身が車を買えるようにする。生産性向上、賃金上昇、需要の創出。労働者の需要が可能にする「大量消費=大量生産」がさらなる生産性の向上につながる。これがぐるぐると回り続ける好循環が、自動車や家電等のいわゆる耐久消費財の分野で典型的に生じ、労働者の富裕化、耐久消費財の普及による生活環境の劇的な向上が生じたのです。
ここで旧来型の左派が失効します。それは近代資本主義における労働者の窮状に根拠をおきつつ、近代資本主義の転覆と社会主義への移行を志向する社会主義的(≒マルクス主義的)な左派です。労働者たち(の多く)がすでに困窮していないとすれば、その困窮に根拠を置く旧来型の左派の資本主義批判は説得力を失います。
この時期に左派方面で生じた新たな思想運動が、ポストモダン思想・フランス現代思想・ポスト構造主義等々の名前で呼ばれる運動です。
ポストモダン思想の流行と衰退
このポストモダン思想ですが、「近代の後」という名前の示す通り、近代を批判し、近代を乗り越えようという思想でした。
ポストモダンの思想運動は、「大きな物語の終焉」といった主張で特徴づけられるように、要するに「全てのものを統一的に秩序づけ支配するような一切の秩序(=大きな物語)」に対する批判でした。
それは、そういった全体的秩序を脱臼させるさまざまな論法を編み出し、国家が社会全体を支配しようとする(現実に存在する社会主義を含む)左右の全体主義を批判し、すべてを金銭と経済の論理に巻き込んでいく資本主義を批判し、普遍的な真理の体系を提供すると標榜するような理性や科学を批判し、こういったもの全てを生み出した西洋と近代とを批判しました。
それは、この知的な解体作業によって、既存秩序からの解放という一種の清涼感を与えたものの、結局のところはそれほど社会的に有効な力とはなり得ませんでした。
その理由は、一つには、結局、この世の中が曲がりなりにも回っているのは、社会に秩序があって、各人がその秩序の中で役割を果たしていることによるという現実があるのに、このポストモダン思想は秩序批判に終始して、新しい形の秩序を提起できなかったことにあるでしょう。
またもう一つには、このように新しい秩序を提起できず、秩序解体ばかりしていたことで、結局は、各人のいわば自分勝手でアナーキーな自己利益追求を通じて勝手に秩序が生み出される「神の見えざる手」を標榜する、市場経済ないし資本主義の非秩序的秩序に対抗できず、それに飲み込まれてしまったことです。
また、このポストモダン思想と資本主義との親和性は、このように消極的なものにとどまりませんでした。資本主義自身が、画一的な耐久消費財の飽和のなかで、次々に新たな多種多様な商品がほとんど無秩序にみえる仕方で生み出されていく、楽しげな消費社会的資本主義へと変化していったのです。資本主義において反秩序的なポストモダン思想が実現されるかのような様相すら呈し始めたのです。ポストモダン思想は消費社会と共振したのです。
要するに、ポストモダン思想は、既存の秩序全般を批判したものの、新しい秩序像を提起できず、そのなかで残った最強の非秩序的秩序たる資本主義に対抗できませんでした。そして、またある点では消費社会化する資本主義と共鳴していきました。このような流れの中で、ポストモダン思想は次第に批判的な社会思想としての有効性を喪失していったのです。
アイデンティティ・ポリティクスとエコロジー―その意義と限界、そして、反動
こうしてポストモダン思想が、社会思想としては流産していくなかで左派に残ったのが、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスとエコロジーでした。
ポストモダン思想が、理性を含む秩序全般への批判において、普遍主義よりは相対主義であり、理性を信頼し合理主義や普遍主義を基本的な特徴とする左派思想としては異端的だったのに対し、アイデンティティ・ポリティクスやエコロジーの思想運動は、その明確な普遍主義的コミットメントにおいて、左派思想としては正統的であるようにも見えます。
これらは、豊かになった先進国では労働者の窮状にはもはや訴えることができないという状況に対応して、左派が新たに発見した「窮状」に基礎を置いています。アイデンティティ・ポリティクスであれば、それは女性・外国人・LGBTQといったマイノリティの窮状であり、エコロジーであれば、自然やまだ生まれていない将来世代の窮状です。
これらは、マイノリティや自然や将来世代など、これまで平等な権利主体に必ずしも含まれず、自由と豊かさを享受できていなかった諸主体にまで、この平等な諸権利を押し広げていこうという、一種の普遍主義を特徴とするのです。
アイデンティティ・ポリティクス―ヒューマニズムに向けて
アイデンティティ・ポリティクスとは、要するに1970年代ごろに達成された先進国の自由で豊かな社会を肯定しつつ、その豊かさに十分に与れていないマイノリティを見出し、そういった人々を自由で豊かな社会のうちに包摂していこうという運動、自由で豊かな社会を、さまざまなアイデンティティを持つすべての人々に広げていこうという普遍主義的な運動でした。それは確かに多様なアイデンティティを称揚しますが、しかし、その本質は権利の平等という普遍主義にあります。
この運動の意義は否定し難いでしょう。1970年代以降のアイデンティティ・ポリティクスの運動によって、さまざまな人々の権利や、実際の生活の自由さや豊かさが改善されてきたことは間違いないと思われますし、それが良いことであることは誰も否定しないでしょう。
他方で、この運動には内在的な限界があることも確かです。それはアイデンティティ・ポリティクスの代表格であるフェミニズムの、その「偏った」名称に明らかです。それはヒューマニズム(人間主義)ではなく、自らフェミニズム(女性主義)と名乗るのです。
もちろん、これは一見普遍的に見えるヒューマニズムが、その実、男性しか包摂しないマスキュリニズム(男性主義)であったころには有効でした。フェミニズムという仕方で、人間の半分だけに肩入れするという偏った立場をあえてとることで、ヒューマニズムのエセ普遍主義的な偏向が暴露され、それが真に普遍的なヒューマニズムへと向かっていく契機が生み出されたのです。
ただ、ここにある内在的な限界は、その運動が成功してヒューマニズムの普遍化が進んでいけばいくほど、アイデンティティ・ポリティクスのもつ、一部のアイデンティティに偏った仕方で肩入れするという作法が説得力を失っていき、偏ったものに見えてくるということです。
また、この普遍化が進んでいくにつれて、近年のトランス・ジェンダー問題に典型的にみられるように、この種の運動が肩入れするアイデンティティのマイノリティ性(対象者が少数であること)も高まっていき、大衆的な支持も得られにくくなっていきます。
こういったプロセスの結果として生じたのが、アイデンティティ・ポリティクスに対する反動という事態です。アイデンティティ・ポリティクスが成功し、ヒューマニズムの普遍化が進展すればするほど、特定のアイデンティティに肩入れする、アイデンティティ・ポリティクスの振る舞いが偏ったものに見えるようになり、また肩入れ先のアイデンティティがマイナーなものになるにつれ、その偏りがさらに際立ってくるわけです。
それに加えて不味かったのは、アイデンティティ・ポリティクスの前提、要するに先進国のマジョリティたる自国民男性は自由で豊かな社会を享受しているという前提が、グローバリゼーションの進展において、実は掘り崩されつつあったことです。
これによって、「俺たちも苦しいのに、左派は特定のマイノリティだけを認定弱者として、彼らに一方的に肩入れしている!そして、俺たちを差別者として悪者にしている!」という反動が生じたのです。
以上の事情を考慮するとき、アイデンティティ・ポリティクスは、特定の属性に拘らず人間一般の苦境に対応する普遍主義的なヒューマニズムへの発展的解消を模索しはじめる時期に来ているように思われるのです。
エコロジー―プログレッシブ・エコロジーの方へ
エコロジーは、1970年ごろに先進国で高度成長が達成されて労働者が中流化することで、資本主義を格差や労働者の窮状という観点から批判することが困難になっていくなかで、別の視点から資本主義を批判する議論として台頭してきました。
確かに資本主義は経済成長を達成し、皆を豊かにしましたが、その豊かさはタダではない。それは大量の資源の利用と、様々な副産物や廃棄物を伴っているのであって、それが自然環境を破壊し、最終的には豊かさ自身の持続可能性を損なってしまう、というわけです。それは将来世代から豊かさを奪う行為であって、将来世代は豊かさから排除される。だから、将来世代にも今の豊かさを伝えるために、自然環境を維持する工夫が必要なのだというのです。
この将来世代まで包摂する普遍主義的な議論自体の意義は疑い得ません。経済成長で豊かさを実現した資本主義に対して、それ以前に提起されてきた格差とは別の、極めて本質的な問題提起となっています。このような問題意識が世界的に共有されたこと、このことは世界の状況を改善するものだったと思われます。
他方で、エコロジーの限界だと思われるのは、もちろん、エコロジーといってもいろいろなのですが、その主流がどうも人間活動の抑制に力点を置いているように思われることです。過剰な人間活動がなければ、自然は理想的な状態であるとでもいいたげなのです。
しかし、これは明らかに間違っています。人間がいない時代にも、何度も大量絶滅は起きていたし、産業革命から1.5度以内という温暖化抑制目標とは比べものにならないほどの気温変化が上にも下にも生じてきました(し、それでも「臨界点」なるものを迎えて温度変化が一方向にどこまでも進むことは、これまでのところはありませんでした)。
確かに人間活動は既存の生態系を破壊しかねませんが、自然自身の運動によっても生態系は絶えず破壊と再創造を繰り返してきたわけですから、現時点の生態系を絶対視して、それを特別に保護しなければいけない理由は存在しないように思われます。人間がいなければ自然が安定していたかといえば、全くそんなことはなく、自然自身がそもそも無茶苦茶なものなのです。
とすると重要なのは、現状の自然の生態系をとにかく守ることではなく、むしろ、自然自身の運動であれ、人間活動であれ(人間も自然の一部なのですから、人間活動も大きく見れば自然自身の運動ですが)、それによって生じる生態系の変化や環境の変化を生き延びる力を人間が獲得することです。これは人間活動の抑制や、いわゆる自然と共生する生き方を実践することによって達成されるものではありません。
自然と単に共生するだけに甘んじるのであれば、次の氷河期で人間は大ダメージを受けるでしょうし、もっといえば、いつか起こるとされる太陽の爆発において、私たちが自然という語でふつうイメージするものの一切とともに人間は完全に焼滅するでしょう。
こう考えれば、あらゆる環境変化を生き延びる力が達成されるのは、自然との共生ではなく、自然の一部である人間の、もっとも非自然的と思われている側面を徹底することによってでしかありえないことが分かるでしょう。
すなわち、それは自然の変化に対応したり、自然の変化を統御したりする科学と技術を発展させ、その科学と技術を効果的に利用するための統治技術を発展させることによってでしかありえないのです。
要するに、あらゆる環境変化に応じ、そのもとを生き抜くという意味での環境問題の根本的解決は、前向きかつ進歩的に、いわばプログレッシブにしかなされえません。
逆にエコロジーの主流派が示唆する、人間活動の抑制や、それによる脱炭素化や、自然との共生云々といった、退行的(リグレッシブ)な方法は、特別に尊重する理由のない現状の生態系を維持するという擬似課題に取り組んでいるだけであって、生態系のあらゆる変転を超えて人類を存続させるという本当の課題を解決しないのです。
このような主流派エコロジーの論理のそもそもの限界に加え、「臨界点」を超えることで生じる地球沸騰といった(上述の地球史を考えると)合理性を欠く主張や、とにかくCO2を減らせばよいといった視野の狭い解決策への固執等によって、徐々に信頼を失いつつあったエコロジーは、前置きで触れたコロナ禍とウクライナ戦争を経たインフレ期に、これまた手強い反動に直面することとなります。
「そうでなくてもエネルギー価格が高騰して生活が苦しいのに、脱炭素のための再生可能エネルギーだなどといって、エネルギーコストを上げるような主張をするとはどういうことだ!庶民は将来世代の生活よりも今日明日の生活だ!エコロジーは贅沢品だ!」というわけです。
思うに、エコロジーは、合理性を欠く扇動的な主張を廃し、一点突破的な視野の狭い解決策を避けながら、幅広く環境の変化に対応し、あるいは環境の変化を制御する人間の力を高めることで、人間の生存を保証する、前向き・進歩的なプログレッシブ・エコロジーに転換されるべきなのです。
本節のまとめ―「ルイスの転換点」とグローバル化で語る、格差問題の沈静化と再浮上
1970年代以降の左派は、資本主義が自由で豊かな中流社会を達成したという現実を踏まえ、資本主義において格差の下位にある労働者の窮状を根拠として資本主義を批判するマルクス主義的・社会主義的な主張からの転換を模索しました。
それは、資本主義もマルクス主義も含め、あらゆる秩序づけるものを解体しようとするポストモダン思想や、自由で豊かな社会を十分に享受できていない様々なマイノリティの権利向上を目指すアイデンティティ・ポリティクス、人間以外の自然や将来世代にも豊かな生を保証しようとするエコロジー思想などとして展開しました。
それらは、それぞれなりの意義はありつつも、それぞれなりの限界を抱えており、現代において手強い反動に直面して、そのままでは有効性を喪失しつつあります。
この反動の原因となっているのが、グローバル化によって生じた、先進国における資本主義的な格差の問題の再燃です。
そもそも、一つの考え方によれば、先進国でマルクス主義が説得力を失ったのは、先進国が「ルイスの転換点」を迎えたからです。ルイスの転換点とは、経済成長の過程で農村の過剰人口が尽きる時点を指します。
農村に過剰人口がいる限り、労働者の賃金は上がりません。代わりはいくらでもいるからです。しかし、農村から都市への人口移動が一定程度に進み、農村の過剰人口が枯渇すると、そうもいかなくなります。労働者の供給が不足し、賃金が上がり始めます。
この賃金上昇を賄うためには企業は生産性を向上させる必要があります。これが成功すれば、生産性向上が賃金上昇に回され、それが労働者の購買力となって生産物への需要を高め、この需要に応ずるための大量生産でさらに生産性が改善され…という好循環が生じます。これが先にも述べたフォーディズムの好循環であり、先進国における高度成長と中流化を可能にした仕組みです。
しかるに、グローバル化とは、資本による農村の過剰人口の再発見に他なりません。すると、以上とは逆のプロセスが生じます。グローバル化による企業の海外移転で先進国の労働者の賃金に下落圧力がかかり、内需が弱るので、ますます企業は海外に目を向け、グローバル化に躍起になるというわけです。
このプロセスのなかで、先進国の中間層の一定の没落が生じ、資本主義の格差問題が再び先進国でも問題なりはじめました。これが1970年代以降の左派の展開に対する反動として現れつつあります。「左派はことあるごとにマイノリティだ!将来世代だ!というが、俺たちだって苦しいぞ!」と言うわけです。
ただ、これはある意味では左派を求める声ではないでしょうか。左派は先祖返りをするだけで、この声に対応できるはずなのです。だって、それをずっとやってきたのですから。
ここで、私たちは本当の問題に直面することになります。つまり、事情はそうであるにもかかわらず、なぜ、左派はこの不満の声に対応できないのでしょうか。なぜ、この不満の声は右派に吸い上げられてしまうのでしょうか。これを次節では考えることとしましょう。
なぜ21世紀の格差問題は、左派ではなく右派の政治資源になってしまうのか?
これは重要な問題です。たとえば、最近世間を大いに騒がせているトランプ関税の問題も、この問題に深く関係します。まずは、おそらくはより良い解決策である(左派的な)「再分配」に、より悪い解決策である(右派的な)「関税」が勝利してしまっている原因について考察しましょう。
アメリカでは「再分配」に「関税」が勝利している
さて、トランプ大統領によれば、外国は不公平な貿易によってアメリカを搾取し、アメリカから仕事を奪ってアメリカ人を貧しくしたのだといいます。だから、関税という罰を与え、仕事をアメリカに取り戻すのだというのです。
しかし、これは全体の話の半分でしかありません。確かに、自由貿易的なグローバル化の進展によって、アメリカの労働者の仕事は途上国に移転してしまった(仕事が奪われた)にせよ、同時にアメリカ企業はグローバル化で大いに稼いでいるのです。
すなわち、アメリカはいまだに世界最大の経済大国ですし、このグローバル化の構造に沿う形で主要製品をほとんど中国で生産するAppleが(少なくともトランプ関税ショックで暴落するまでは)世界で時価総額がもっとも大きな企業だったのです。
だから、この問題への解決策は、そもそも可能かどうかもわからず、時間もかかり、よしんばうまくいっても必然的にコスト増につながるような、「関税で工場をアメリカに戻させる」ではないでしょう(経済安全保障の観点はさしあたり度外視します)。そうではなくて、アメリカ国内のグローバル化の受益者から、アメリカ国内のグローバル化のコストのいわば負担者への再分配こそが、よりよい解決策のはずなのです。
なのになぜ「関税」が勝利するのでしょうか。
語り口の問題―恵まれない者への施しか、不正の被害者のための原状回復か
これは要するに「語り口の問題」としか言いようがないように思われます。
つまり、問題はグローバル化という構造変化において利益を得た人と不利益を被った人との間で、その不均衡を均すように調整するということなのですが、それをどういう風な文脈に落とし込み、どういう風に語るかというところで、その語りが受け入れられるかが決定されるのです。
右派と左派のこの問題についての語りを比較してみよう。
伝統的に、右派の世界認識は「内」と「外」であり、左派の世界認識は「上」と「下」であるとされます。右派はこう分けた上で「内」を重視し、左派は「下」を重視します。
トランプに代表される右派は、この「内」と「外」の語りを採用し、このグローバル化の問題を、善である「内」が悪である「外」に搾取されているという現状認識を語ります。
不公正な貿易を行う「外」国が、アメリカ製品を締め出しながら、アメリカに製品を輸出しまくって荒稼ぎし、結果としてアメリカの仕事を不当に奪ったのです。ハードワーキングなアメリカの労働者は、この不正によって、彼らに値する仕事を不当に奪われた被害者であって、これを取り戻さないといけないというわけです。この論法は、もう一つの「外」である不法移民にも適用されます。
グローバル化に対抗する関税は、不正の被害者のための原状回復として意味づけられるのです。
他方の左派は、「上」と「下」の語りを採用し、その世界観では基本的には「上」に位置する権力が悪とされ、「下」は相対的に善とされます。
ただ、現代左派の苦しいところは、これまで述べてきた通り、1970年代以降の豊かな社会において、その主流が「リベラル」を名乗り、資本主義と和解してしまっていることです。それは資本主義と和解し、そこでの能力主義(メリトクラシー)と親和します。
だから、現代左派は資本主義を全体的に不正と見ることはできず、したがって、そこにおける「上」と「下」、つまり、お金を稼げる「上」を「悪」、そうでない「下」を「善」と断じることができません。むしろ、うっすらとではあれ、メリトクラシー的に、お金が稼げることが能力の証であるという観点を是認しているようですらあるのです。
いいかえれば、現代左派が不正を見出せるのは、環境問題における弱者たる将来世代を害する環境破壊であったり、社会的弱者であるマイノリティに対する差別に対してであって、現代社会で繰り広げられる地位や金銭をめぐる競争一般とその結果としての勝ち負けに対してではないのです。
このために左派は、グローバル化の利益と不利益の均衡化の問題、格差の問題を論じる際に、不正の被害者のための原状回復のレトリックを使うことができません。
それはどうしても、現代の一定の公平性のある競争社会において、能力その他の点で「恵まれない人たち」、そのために「競争に敗れた人たち」への再分配、ある種の「施し」という響きを持ってしまうのです。
人は自らを不正の被害者と位置付けることを好みます。正義という高い立場から居丈高に悪を断罪できるからです。他方で人は自らが「恵まれない」ことを認めること、自らが「恵まれない」ことを主張して、助けを求めることを好みません。それは自らを弱者と認め、施しを請う者として他者の下位に位置付けることだからです。
また、この両者の語り口において、右派の関税レトリックは、利益の分配があくまでも労働の対価となるのに対して、左派の再分配レトリックは、利益の分配を必ずしも労働の対価としていない点でも不利です。
右派のレトリックでは、労働者は戻ってきた工場でハードワーキングをして、その働きに値する報酬をもらうのであり、他方で、左派のレトリックでは、人々は恵まれない人として、その働きとは無関係に給付を受けるのです。
人間はお金を必要としますが、とにかくお金があればいいというものでもありません。労働という仕方で社会に貢献し、その対価としてお金を得る方が、社会的に無用なままでお金を得るより、大半の人間にとっては良いものと受け取られます。この点でも右派のレトリックが有利なのです。
左派復活のための処方箋―反・労働(反・生産)主義的な資本主義に向けて
以上は要するに、左派の「恵まれない人」よりも、右派の「不正の被害者」のレトリックの方が魅力的であり、また左派の「給付」より、右派の「労働の対価」のレトリックのほうが受け入れられやすい、ということです。
左派復活の処方箋は、このことを踏まえて書かれなければならないでしょう。
前半に関しては、左派は現代の資本主義社会が根本的に不正である、あるいは少なくとも根本的に間違っているという立論を模索するべきです。公正な競争社会で敗者となってしまった、恵まれない人たちに施しをするのではありません。根本的な不正を正し、その被害者に対して、その人たちが本来持つべきものを返すです。
後半に関しては、左派も「労働の対価」レトリックを取り入れるべきですが、その際には「賃労働の相対化」の視点を取り入れるべきでしょう。
不景気という馬鹿げた問題とそれが解決されない理由
このように考える根本の背景は、現代には不況や不景気や恐慌なるものが存在しますが、こんなものは本来存在するべきではないという認識です。日本では、不景気だなどというと、なんとなく「もっと頑張らねば」ということになりますが、これほど間違った認識はありません。不景気に必要な対策は、みんなが頑張らないことであり、いってみれば、もっと楽しく遊ぶことだからです。
というのも、不景気というのは、供給が需要に対して大きく、売れ残りが発生している状態だからです。物や労働を買いたい人よりも、物や労働を売りたい人の方が多い状態です。これを解決する方法は、みんなが売りたい人ではなく買いたい人の側に回ること、お金を受け取る側ではなくお金を支払う側に回ることです。つまり、頑張って働く側ではなく、いわば楽しく遊ぶ側になることなのです。
こう考えると、不況や不景気や恐慌といった「問題」ほど馬鹿げた問題はないことは明らかでしょう。経済的に本当に難しい問題とは、不況のような供給の過剰の問題ではなく、供給の不足の問題だからです。
なぜかといえば、需要は、たとえば国民全員の預金通帳残高に100万円を加えて購買力そのものやインフレ期待を高めたり、あるいは消費税を徐々に高めるなどで強制的に段階的な価格上昇を引き起こすことで、簡単に作り出せるのに対して、供給は、そうはいかないからです。供給には労働力が必要だし、知識・技術、製造設備、さらには流通機構等のインフラなど、簡単には調達できない、現実的な人間活動とその成果が大量に必要とされるのです。
日本の失われた30年というのも、この馬鹿げた不況問題を解決することができなかった30年だったわけですが、なぜ、このような馬鹿げた問題が存在し続けているのでしょうか。
その理由は二つあると思われます。一つは、財政赤字や政府債務残高を何か問題的なものだと考える、金本位制時代の遺物的な思考です。もう一つは、「働かざる者、食うべからず」という、賃労働を過度に重視する、これまた供給過小時代の遺物的な思考です。
これはどちらも政府が需要を即座に作り出すことを妨げている思考です。財政赤字が大きいのは問題だから、政府に支出をさせない。働かない人にお金を渡すべきではないから、政府は給付ができない。結果として、需要が創出されず、供給過多としての不況が続きます。
「働かざる者、食うべからず」が時代遅れである理由
前者の問題については、他の記事でも散々論じているので、今回は論じません。問題は後者です。現代において、「働かざる者、食うべからず」の倫理は明らかに時代遅れです。その理由を二つ説明します。
第一に、繰り返しになりますが、現代社会は科学技術の累積的な進歩の結果、供給が需要を上回り、供給ではなく需要が希少であるような経済、いわば、デフレ・レジームに転換しているということです。
脱グローバル化や少子高齢化がインフレ経済を生み出すという論もあるが、私は、科学技術による自動化・省力化の流れの方が、より基層的であると思います。今後の経済も、政府の介入(政府の過剰支出、すなわち、財政赤字)がなければ、インフレ的であるよりは、むしろデフレ的なはずです。
このような中で、「働かざる者、食うべからず」と言うことは有効ではありません。社会において供給が過剰で、需要が過小な状況に対して、「あなたが購買力を得て(いま過小である)需要を作り出すためには、まずあなたは(いま過剰である)供給をしなければならない」と言っているのですから。
このような場合には、政府は、何か実行可能な有意義なプロジェクトがある場合には、何らかの仕事に人々を雇うことで需要を作り出すべきですが、そういうものがなければ、無理をせずに人々にお金を渡して需要を作り出せばよいのです。
第二に、これは言い尽くされたことですが、賃労働だけが労働ではないし、もはや労働だけが意義のあることではないということです。「働かざる者、食うべからず」というときには、賃労働が重視されています。賃労働とは、それに金銭的な対価が発生する労働なわけですが、こういった労働が労働の全てではないし、こういった労働にはそれ自身の限界があります。
この限界というのは、賃労働はお金を持っている人に対するサービスしか提供できないというものです。お金を持っていない人は、人をお金で雇うことができず、その人に対するサービスは賃労働では提供され得ません。
また、賃労働が労働のすべてではないというのは、家庭内で行われる家事や介護、地域で行われる各種活動など、他者に対して有意義な行為でありながら、必ずしも金銭的に報いられるわけではない行為が存在するからです。
こういった人々の日々の行為に報いるような基本的な給付が存在してもいいはずなのです。
というと、いや他者に何の貢献もしていない人もいるだろうと言われそうです。しかし、これも本当にそうなのでしょうか。供給過小ではなく、需要過小のデフレ経済であれば、別の発想も可能でしょう。
消費をせずに生きる人間はいません。人間は消費をするわけですが、これ消費こそ生産者を生産者たらしめる行為です。消費者がお金を出し需要するからこそ、生産者はお金を受け取り供給することができます。
現代は需要が過小であり、供給が過剰なのですから、需要と出会う供給者たりうることは喜ばしいことであり、大いにやりがいを感じることでありえます。
とすると、消費そのものに生産者に承認を与えるという意義がありうるのではないでしょうか。供給そのものが絶対的に足りない時代であればいざ知らず、現在のように供給過多の時代においては、(気持ちのいい)需要者たることそのものが、他者を供給者たらしめる有意義な行為と意味付けられうるのではないでしょうか。
こういった議論に基づいて、左派は需要不足なる馬鹿げた問題に苦しむ現代資本主義の根本的な倒錯を批判しつつ、供給過剰な賃労働の意義を相対化しながら、需要と供給をバランスする再分配政策へと舵を切っていくべきなのです。それはいわば反労働(反生産)主義的資本主義の思想となります。
結論:ポストモダン―未完のプロジェクト
こう考えてくると、どうも結論は「ポストモダン―未完のプロジェクト」とでもなりそうです。
それは以下のような意味です。1970年ごろに高度経済成長を達成した先進諸国では、伝統的な供給過小状態から、供給過剰の需要過小経済への移行が生じました。それを象徴するのが、当時盛んに論じられた「消費社会論」です。これは生産(供給)から消費(需要)へと、社会の主導的な力が変化したことを表現しています。
ポストモダンは、この消費社会論と共振していたわけですが、消費社会はその後、流産してしまいます。
なぜでしょうか。国家は上記の状況を踏まえ、本来であれば過剰な供給能力をバランスさせる政策を行うべきでした。それは例えば人々にお金を渡して、あまり働かないようにさせる(供給を減らす)とともに、購買力を作り出して需要を創出するという政策です。まさに消費を強化すべきだったのです。
しかし、経済学と政府の政策の主流は、その正反対の方向、国家の経済への関与を弱め、市場での競争を促進することによって供給力を強化するという、新自由主義的なサプライサイド経済学に傾斜してしまいました。
こうして需要過小・供給過多の基調が継続していくなかで、グローバル化の進展が、先進国に途上国からの供給を殺到させつつ、産業の空洞化によって先進国中間層の購買力の低下させるという形で、需要過小・供給過多の状況を悪化させました。
これは先進国において優良な雇用が不足することを意味し、老後が長くなったことや教育費が上がっていることもあって、人々は将来に不安をかかえることになります。折からの金融化の奔流もあって、社会の主導的な力は、生産でも、消費でもなく、むしろ、株式投資など金融的な投資(投機)を含む「貯蓄」となります。将来不安を解消するためにお金を溜め込み増やそうとするのです。
生産能力が過剰で物が溢れるなか、人々がそれを消費するのではなく、それを消費する権利としての金銭を溜め込み続ける社会。それによって景気が停滞し続けて不安が消えず、なおさら溜め込みが深まっていく、倒錯的な「貯蓄=投機社会」の成立です。本来は不安などないはずなのです。消費すべきモノは潤沢にあるのですから。
生産社会は、消費社会に転換すると思われましたが、その後の歴史の展開は、この消費社会を流産させ、倒錯的な「貯蓄=投機」社会を生み出しました。
左派復活の道は、おそらく、この消費社会の流産と「貯蓄=投機」社会という倒錯の誕生の歴史を巻き戻し、消費社会を再び誕生させる方向に存在するでしょう。これに名前をつけるとすれば、それはやはり「ポストモダン―未完のプロジェクト」となるのです。


※コメントは最大500文字、5回まで送信できます