カント哲学はどこで間違ったのか?カントを乗り越える哲学講義

カント哲学はどこで間違ったのか?カントを乗り越える哲学講義

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こちらに3分要約版の記事もあります

この記事では、以前の記事でのカント哲学の要約を踏まえつつ、私自身の哲学的立場の構築を目指して、カント哲学の批判を開始します。

カント哲学はどこがおかしいのでしょうか、カントはどこで間違ってしまったのでしょうか。

目次

「超越論的な問い」なんて、出来っこない!

まず私は、「経験の可能性の条件」を問うというカントの超越論的な問い方そのものに、大きな疑念を抱きます。結論を言えば、「そんなこと、出来っこない」のです。どうしてでしょうか?順を追って、見ていきましょう。

「原初的な純粋外界」と「完成した経験」の比較の不可能性

復習すると、カントは現に私たちが体験している経験の「可能性の条件」、経験そのものを可能にしている構造を問い、経験に私たちの認識能力の側から、感性の形式としての空間や時間、悟性の根本概念としてのカテゴリーなどが付け加わっていることを見出しました。それによって、空間や時間、カテゴリーはあらゆる経験に適用されうるものとされ、それを基礎として必然的な認識が保証されることになったわけです。

でも、なぜカントは認識能力の寄与分をこのように確定できるのでしょうか。現にある経験において、それに対する私たちの認識能力の寄与の部分を見出すには、経験が経験になる以前の純粋な外界を捉え、それと完成した経験を比較することが必要でしょう。その差こそが、私たちの認識能力の寄与ということになるからです。

しかし、こんなことは不可能ではないでしょうか。というのも、純粋な外界を確証することは不可能だからです。純粋な外界とされるものを私たちが認識した時点で、それには私たちが関与しており、それが私たちと無関係に存在する純粋な外界のままであるという確信は持てないからです。

これが純粋な外界だと思っても、それは決して純粋な外界だと確証できず、それにはまだ私たちの側の寄与が疑われます。これを繰り返していけば、最終的に純粋外界は純粋空虚であり、全てが私たちの側の寄与だという結論にしか至り得ないでしょう。

要するに、経験の可能性の条件を問うことで、経験に対する私たちの寄与分を確定することは、私たちの寄与以前の純粋外界と完成した経験との比較を前提としているように思われるところ、この純粋外界のアクセス不可能性により、このような試みはそもそも成り立たないか、あるいは全て私たちの側の寄与だと言うしかない事態に陥ると思われるのです。

このことに応じて、空間や時間、カテゴリーが私たちの側に属することについてのカントの論証は説得力がありません。カントによれば空間や時間のような、「物」とは全く違う「非-物(Un-Ding)」は物自体に属し得ないそうです。だが、なぜカントは物自体について、それが空間や時間とは相容れないなどということを知っているのでしょうか。物自体と呼ばれる純粋な外界は、それこそカントも繰り返し主張しているように、知り得ないのですから、そこに何が属し得て、何が属し得ないかを言うことはできないはずなのです。

経験から出発して、それに対する私たちの寄与分を確定しようとすれば、純粋外界にアクセスし、それと完全な経験とを比較して、その差分として私たちの寄与分を考えるしかありまえん。しかし、純粋外界はその純粋性を決して確証できませんから、この方法論では純粋外界は最終的に完全な空虚となり、全てが私たちの寄与となるはずです。

カントはこの論理を徹底していません。だから、カントはあるものを外界に置き、あるものを私たちの寄与とすることができるのですが、その線引きは徹頭徹尾、恣意的でしかありえません。カントによれば物は物自体として外界にあり、空間や時間のような「非-物(Un-Ding)」は外界ではあり得ないわけですが、こんな断言はアクセスできないはずの純粋外界にアクセスしていなければ出来ないはずなのです。

同じようなことは空間や時間を話題とする超越論的感性論の先、悟性を扱う超越論的論理学でも繰り返されます。カントは、悟性が基本的な概念を用いつつ対象を構成して経験が成立していく成り行きを語る超越論的演繹の部分において、感性からの入力として「純粋な多様」なるものを語ります。それはおそらく対象に切り分けられておらず、それゆえ立体的に現れてきていない世界のようなものでしょう。そこでは多様な色の散乱だけがあります。これを悟性がまとめ上げて対象が構成されるということで、経験に対する悟性の寄与が確定されます。

しかし、これも先に時間や空間についてみたときと同じように外界と私の寄与との線引きの恣意性の問題にぶち当たるのです。なぜカントは純粋な多様を外界由来のものだと想定しうるのでしょうか。結局、先に述べたような、純粋な外界を追い求めると、それは必然的に純粋な空虚になるという論理を最後まで追いかけていないからに過ぎません。経験のうち何か外界っぽいものを恣意的に外界由来だと決めつけているだけなのです。そのことと裏表に私たちの側の寄与も恣意的にそれとして決めつけられているのです。

要するに、カントは純粋外界としての物自体にはアクセスできないと再三繰り返しつつ、経験の可能性の条件を問うということによって、その実、純粋外界へのアクセスを前提としてしまっているのであって、ここでカントは根本的に矛盾しているのです。

ここまでの批判をさらに一般化しましょう。経験の可能性の条件を問い、経験のうちの私たちの寄与分を確定するなどという、超越論的な問いは不可能に思えます。なぜでしょうか。これを問うためには現にある経験を要素に分解して、そのうちで外界由来で、私たちの側の寄与がまだない、原初的なものから出発し、そこにさまざまな要素(=経験の可能性の条件)が私たちの側から付け加えられて、経験が完成するという物語を語ることになりますが、この原初的なものの原初性は決して確証できないからです。なぜ、それが原初的だと言えるのか?この問いには決して答えられないのです。

さらに言葉を重ねれば、そこで語られるように「経験が完成するまでのプロセス」は、経験以前的なものとして、私たちは決して経験することができません。だから根本的に言えば、私たちは現にあるものより原初的なものを求めるべきではないのです。何が原初なのかなど分かりようがないし、原初から経験が生成するプロセスも経験しえないからです。

これが経験の可能性の条件だと言われたところで、経験はただただ端的に可能なのであり、端的な現実なのだと反論すればよいのです。これに再反論するには、経験の成立以前の物語が必要になるはずですが、その議論は根拠がないからです。

こうして私たちは現にある経験こそが原初的なのだと考えることに導かれます。経験の可能性の条件など問えません。経験全体に関わる「超越論的な問い」などできっこないのです。それは経験から、それに先行するものへの遡行を要求しますが、経験はそこからの遡行が不可能であるような絶対的な出発点だからです。この点はのちに展開することとしましょう。

数学や物理学を出発点とする超越論的な問い方の問題点

あるいは、この純粋理性批判における超越論的な問い方には別の解釈も可能かもしれません。先の解釈によれば、カントは経験を出発点として、その経験の可能性の条件を問うことで、経験に対する私たちの側の寄与として空間や時間やカテゴリーを見出したということになりますが、それとは別の解釈の可能性を考えてみたいのです。

それはこんな解釈です。カントが出発点としたのは数学や物理学の認識の普遍性ないし必然性です。カントはこれを固く信じていました。その必然性が可能でなければならなかったのです。

この必然的な数学や物理学の「可能性の条件」を求めていくと、認識の全てが外界からやってきたのでは困ります。それでは必然性は生まれないからです。だから、数学や物理学を支える部分は私たちの認識の側から来なければならないのです。それなら認識に対する必然性を確保できるからです。ひょっとすると、こういう理屈でカントは空間や時間やカテゴリーが私たちの認識能力の寄与だと考えたのかもしれません。

要するに、必然的な数学や物理学の「可能性の条件」として、空間や時間やカテゴリーが主観の側に属するという議論があったのかもしれません。

しかし、これにも疑問が湧きます。第一に、数学や物理学はカントが信じた意味で必然的なのでしょうか、第二に必然的だとして、その必然性はカント的な経験に対する認識能力の寄与を必要とするのでしょうか。

物理学のように現実に関わる科学は、第一の基準に引っかかると思われます。現代の科学哲学においては、科学の必然性や普遍性はそこまで強調されないのではないでしょうか。その典型がポパー流のいわゆる反証主義的な科学観です。曰く、科学的な命題とは絶対的に正しい必然的な命題ではないのです。そうではなく、経験においてこれが示されたら反証されるという反証条件を示しつつ、まだ反証されていないような命題の集合が科学なのです。

現代において妥当な科学観は、この反証主義にクーン流のパラダイム論を加えたものでしょう。クーンがパラダイムと呼んだような、特定の科学の特定の時期において基本となっている捉え方は、その捉え方に基づいて構想され、反証されたり反証されなかったりするような個別の科学的な命題(=仮説)とは位相が異なります。

それは仮説というより、むしろ公理のような存在であって、その公理が示す基本的な前提のもとで、個々の反証可能な仮説が提起されていきます。それらの仮説が蓄積され、反証されないままに認識が拡張していき、それが現実において技術的な成果等々を残していく間は、公理的なパラダイムはその結果によって正当化され続けます。これがクーンのいわゆる「通常科学」の状態です。

しかし、ある特定の通常科学は、それが科学の最終形態ではない限りにおいて、どこかで躓くことを余儀なくされます。これまでの延長では説明できない事象にぶつかるのです。そのパラダイムが生み出す仮説がことごとく失敗していきます。

その中で、その新しい現実を首尾良く説明できるような対抗的な新たな公理体系が構築され始めます。そして、どこかの段階でこの新しい公理体系が古い公理的なパラダイムを代替することになり、新しい公理的パラダイムとなります。クーンが「科学革命」ないしパラダイム・シフトと呼んだ事態が生じるわけです。

こうして反証主義や科学革命論を踏まえるなら、科学は必然的であるのではなく、かなり不安定なもの、いわば「とりあえず上手くいっている」ものです。科学は必然的でなければならないと前提して、それを可能にする構造を考えるという論じ方は、それゆえ、妥当性を欠くように思うのです。

他方の数学は、第二の基準、それが必然的であるとして、その必然性を支えるのにカント的な構造が必要かという基準に引っかかるように思われます。数学の必然性は、公理を必然的なものとして前提としたうえで、その公理によって規定される範囲内での論理によって支えられる必然性だと思われるからです。そこにカント的な認識能力の経験への寄与は必要ないのではないでしょうか。

「現象」と「物自体」の区別について考察する

以上の「超越論的な問い」への批判を踏まえて、「現象」と「物自体」の区別について考察しましょう。

先に述べたように、カントは現に成立している経験を「現象」とみなし、そこに外界と私たちの認識能力の寄与との両方を見ていました。そして、その認識能力の寄与分の確定をするカントは、当然、その残余として、外界の寄与分も確定しています。その外界が物自体です。物自体が私たちに触れると、一定の加工過程を経て、私たちに対する現れとしての現象になるわけです。

しかし、先に述べたように、認識における外界の寄与分の確定は不可能です。私たちの認識能力の寄与分と(恣意的に)思われるものを取り除いていって、これが外界由来の分だといってみたところで、それもすでに認識されている以上、私たちの認識能力の寄与分かもしれません。こうやっていけば、外界は純粋な空虚となります。

この不可知の空虚をカントは物自体だと呼んだのだということはできるかもしれませんが、いずれにしても、先に述べてきたように、超越論的な問い方による私たちの認識能力の寄与分の確定は破綻しています。

繰り返しになりますが、根本的に言えば、カントがやっているような、外界からの刺激が入力され、そこに私たちの認識能力が関与していって、完全なる経験が構成されるという「経験成立以前」の物語を語るべきではないのです。どれが原初的な外界からの刺激かなどは確定できないし、私たちはこの構成過程そのものを経験することもできません。それは完全なフィクションにとどまるのですから。

「認識」「認識の認識」「私」「客観性」「他者」

では、どういうことになるのでしょうか。どういう世界像を私たちは描けば良いのでしょうか。最終的には私も「現象」と「物自体」との区別に私なりの意義を与えたいと思うのですが、何はともあれ、私は現にある経験を根本的な出発点とするべきだと考えます。それ以前への遡行、その構成要素への分解と出所の確定は、必然的にフィクショナルなものとなるからです。

私たちは現に経験をしており、それを認識しています。ここで微妙な区別を導入したいと思います。「それを認識している」というときの「それ」に関しての区別です。ここで「それ」は、「経験の内容」でもありえますし、「経験自体」あるいは「経験しているということ」でもありうるのです。

「経験の内容」を認識するとは、たとえば、パソコンだ、机だ、といったことです。「経験しているということ」を認識するとは、そこで「経験するということ」が起きていると認識することです。あるいは、それはむしろ認識しているということの認識といった方がいいかもしれません。

パソコンだ、机だといったことを私たちは認識するわけです、それに加えて私たちは、それが認識であるということ、認識をしているということ事態をも認識します。認識内容ではなく、認識という事態そのものも認識するのです。「パソコンだ」ではなく、「パソコンが見えている」「パソコンが認識されている」となるわけです。

これをたとえれば、テレビ画面に映っているものから、テレビそのものに注意を移すというようなことです。テレビ画面に映っているものをあるときまで現実だと思いこんで、その内容に没頭していたののに、あるときテレビ画面の外枠が意識され、なんだテレビでの出来事かと気づくというイメージです。これと同様に、あるときまで経験内容に没頭していたのに、ある瞬間にこれは経験なんだということに気づくのです。

そういうわけで、経験ないし認識があり、それに加えて「経験の経験」ないし「認識の認識」があるといえるでしょう。そして、「私」とは、このように「経験の経験」ないし「認識の認識」を通じてはじめて発見される、あるいは生成するのです。「私」とはまずもって経験ないし認識の担い手、すなわち、「主体」として特徴づけられるからです。それを発見するにはまず認識ということがあるということが認識されなければなりません。

経験、経験の経験、経験主体としての私。この順序は動かし難いように思われます。このように言うことは、期せずして「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである」という西田幾太郎の『善の研究』の序文の言葉、つまり、日本近代哲学の最初の言葉の立場を採用することを意味するでしょう。

「経験」と「経験の経験」の違いについて考えましょう。「経験の経験」なしの「経験」とは、西田風に言えば、主客未分の純粋経験です。そこにあるのは、「パソコンだ」ということであって、「パソコンが見えている」でもなければ、「私がパソコンを見ている」では尚更ありません。そこには認識主観も認識客観もありませんし、認識内容のうちでの主観的なものと客観的なものとの区別も存在しません。

「経験の経験」においてはじめて、「パソコンが見えている」ということが成立し、さらに「私がパソコンを見ている」ということが成立します。ここではじめて、私という認識主観とパソコンという認識客観との区別可能性が与えられます。そして、認識の内容のうちで、主観に依存せず、他の主観によっても認識可能な「(相対的に)客観的なもの」と、主観に依存しており、他の主観によっては認識不可能な「主観的なもの」との区別可能性もはじめて与えられます。

「経験の経験」抜きの「経験」においては、ある意味では「真理」しか存在しません。「パソコンだ」。それ以上でもそれ以下でもありません。それを認識だと思っていないのですから、これは現実と一致しているのか、これは客観的なのか、つまり、それは真理なのかといった疑問がそもそも存在し得ません。だから、そこにはある意味では「真理」以外ありえないのです。そこには主客未分の根源的な真理だけがあるといえるでしょう。

他方、「経験の経験」は、「パソコンだ」が経験であること、「私がパソコンを見ている」ということを意識させ、「私が見ているだけで、本当ではないかもしれない」、「それは単に主観的なものかもしれない」という思考を可能にすることで、主観的なものと客観的なものとの区別可能性をはじめて与えます。

経験の内容のうちで、主観的なものと客観的なものを区別できるようになり、それぞれの内容をその観点から評価できるようになるわけですから、ここではじめて、相対的に客観的な認識という意味で真なる認識と、単に主観的な認識という意味での偽なる認識との区別も可能になります。

認識から認識の認識に至ったとして、私たちは「認識の認識」自体の他には、最初の認識にあった以上の内容を得ることはありません。ただ、最初の認識のうちに内容的に含まれていたものを、客観的なものと主観的なもの、その意味で真なるものと偽なるものとに分類する可能性を得るだけです。

その具体的なプロセスを簡単に構想すれば以下のようになるでしょう。「認識の認識」において、認識主観ということが思考可能になり、それが「私」と名付けられるものの根本を構成します。この認識主観としての私を、私たちは、経験の中心に座する「この身体」と必然的に同一化することになります。

なぜ必然的なのでしょうか。鏡を目の前に置いて、自らの身体に属する目を徐々に閉じていけば、鏡を通じて徐々に目が閉じていくことを確認しながら、それに応じて徐々に何も見えなくなることが確認できます。例えばこういったことから、私たちは認識主観としての私をこの身体に同一化せざるを得ません。

認識主体としての私と、この身体との同一化は、自然と、別の同種の身体にも私と同等の認識主体を認めていくことに繋がっていきます。この同等の認識主体との関係において、他の認識主体においても認識される「客観的なもの」と、私にしか認識されない「主観的なもの」との区別が、一定のグラデーションを伴いつつ、生成し、精緻化されていくのです。現にある認識が主観的なものに過ぎないかもしれず、客観性を求めて探究をしなければならないといった自覚も、ここではじめて可能になるのです。

さて、そろそろ「現象」と「物自体」の区別に立ちもどっていきましょう。認識の認識は、「パソコンだ」という単なる認識を「私がパソコンを見ている」へと変化させ、「私が見ているだけ、私に現れているだけで、本当にはないかもしれない」という反省を可能にします。それは認識内容を私への現れとしての「現象」であると捉えることを可能にします。

この反省は、ある一定の範囲内で行使されるのであれば、先に見たように、他者との関係において、認識のうちに現れるものを、他者とも共有できる客観的なものと、自分にのみ属する主観的なものへと分けていくことを可能にする条件となります。

他方で、これがある一定の範囲内を超えて、無制限に行使されるのであれば、どうなるでしょうか。認識されるものは、どんなものであれ、「私が見ているだけで、本当にはないかもしれない」。このことは否定できません。

こう考えるならば、一切が「現象」であり、それは本当のところ、「物自体」としての外界と一致しているかは分かりません。全てが私に見えているだけかもしれず、私以外、何も存在しないかもしれません。こうして、認識の妥当性と客観性に関する全面的な懐疑論、私以外なにも存在しないという全面的な独我論への道が開かれます。

客観性と懐疑論の同根性、他者性と独我論の同根性

私がこう言うことで言いたいのは、客観性と懐疑論の同根性であり、他者性と独我論との同根性です。

「認識の認識」抜きの認識は、主客未分の純粋経験であり、そこには真理しかありません。第三者からみれば、それは主観的な認識なのでしょうが、当人にとっては「主観=客観」であり、対象もなければ、私もなく、だからこそ(私の同格者としての)他者も存在し得ません。物自体と、その「私への現れ」としての現象の区別などもあり得ません。主客未分の純粋経験は第三者から見れば、恐ろしく閉じられた、一種の独我論的状態です。

これに「認識の認識」が加わると話が変わってきます。「パソコンだ」は「私がパソコンを見ている」に代わり、主観と客観が区別されます。認識主観として「私」が意識され、それが身体と同一化されます。私が見ているだけの主観的なものと、それを超えた客観的なものの区別可能性も与えられます。

私と同種の身体には、私と同等の認識主体が認められ、他者とみなされます。この他者との関係性のうちで、他者も認識する客観的なものと、私しか認識しない主観的なものが、認識のうちで区別されていくのです。

しかし、この「認識の認識」が可能にする「私が見ているだけかもしれない」を全面化することもできます。経験の全体が「私が見ているだけ」とされるとき、認識の客観性は全面的な懐疑にさらされることになり、全ては私の表象となって、他者の存在は不可能となります。懐疑論への道が開かれ、先の一種の独我論状態とは異なる、真性の独我論への道が開かれるのです

だから、客観性と懐疑論、他者性と独我論は同根であり、どちらも「認識の認識」から生じてきます。それが可能にする認識の認識主体への関連付け(いわゆる相関主義の意味での相関化)の部分的な行使が、客観性と他者性を可能にし、その全面的な適用は、懐疑論と独我論に通じるのです。

この同根性は懐疑論と独我論が論駁不能な強固さを持っている理由でもあるのでしょうが、以上のような懐疑論と独我論の発生に関わる分析は、私たちをして、認識の認識主体への関連付けを全面化せずに抑制的に適用することで、客観性と他者性の次元を保持することへと誘うでしょう。

もし「認識の認識」なしの認識を一種の閉じられた独我論的状態だと特徴づけることが妥当とみなされるとするなら、客観性と他者性の次元、すなわち、こういっていいと思うのですが、「理性の次元」とは、二つの独我論的狂気の狭間に存在し、微妙なバランスにおいてのみ保持されうるものだと言うことができるでしょう。

「現象」と「物自体」を位置付ける

さて、最後に「現象」と「物自体」に回帰しましょう。私は認識の認識主観への関係付けないし相関化の適度な行使は、認識のうちで主観的なものと客観的なものとを区別することを可能にすると指摘しました。これは、カント的な意味とはいささかズレるものの、認識のうちで私に対する現れでしかない「現象」と、私の外部の客観に対応する「物自体」とを区別することだと言うこともできるでしょう。

他方、純粋にカント的な意味での「現象」と「物自体」の区別、私たちが経験・認識しうるものは全て「現象」であり、それに対応する客観たる「物自体」は不可知だとするような区別は、認識の認識主観への関係づけの無制限な適用に対応します。

もちろん、カントは現象内部で客観性を定義しようとしているわけですが、現象と物自体との関係で言えば、現象と物自体との一致、認識の客観性は決して確証できないはずであって、他者の存在も同様です。カントの立場は、その意味では、やはり懐疑論であり独我論に他ならないように思われます。

私の立場とカントの立場の違いは、「物自体」の存在の様態にあります。経験成立以前へ遡行するカントの「超越論的」思考法に対応して、「物自体」は最初に置かれます。それは不可知であるものの、それが私たちを刺激することで「現象」が生じてくるのです。不可知でありながら、実体的に存在する物自体が、以前の記事で指摘したように実践的なレベルで無制限の「要請」を可能にします。道徳のために神も魂も自由も要請され、それを否定することはできません。それらを受け入れることができる不可知の物自体の領域があるからです。

逆に私は遡行不可能な経験から出発します。その経験が経験され、経験の経験主体への関連付けが行われることで、認識主観と認識客観、認識のうちの主観的なものと客観的なものが区別されうるようになります。この関連付けが全面化されると、経験すべてが私に見えているだけの現象となり、その向こう側にカント的な物自体ということも考えられるようになるのです。

このように考えるとき、「物自体」は最初にあるのではありません。それはむしろ最後にきます。それは認識の認識主体への相関化が極端化された結果として現れる、一種の効果なのです。

そして、それはこれまで述べてきたように発生させるべきでない効果なのです。私たちはあくまでも私たちに現に立ち現れている経験にとどまるべきなのであって、あくまでその中で主観的なものと客観的なものを区別し、この意味でのみ、すなわち、カントとは違った意味でのみ、現象と物自体を区別していくべきなのです。

カント的な不可知の「物自体」は、極端化された誤った―にもかかわらずカントが形而上学について言ったのと同様な意味で不可避の―操作の結果として現れる効果であって、それを実体的に想定する必要は存在しません。だから、そこに道徳の「要請」だといって、自由や神や魂など、なんでも好きなものを想定することも積極的に正当化されることはないのです。

それゆえ、カントが言うような「信仰に場所を開けるために、知を制限する」などという言い方は成り立ちません。カントがやっていたのは、認識を現象に限定するという「知の制限」ではなく、その実、認識の認識主観への相関化という知的操作を制限なしに暴走させることだったのです。

カントは、この認識の認識主観への相関化の操作を暴走させ、カント的な現象と物自体を生み出したのち、今度はアクセス不能なはずの物自体を知っているかのように、物自体に属するものとそうでなく主観の側に属するものを恣意的に区別し、この主観の側の条件でもって認識の客観性を確保しようとします。カントの客観性は相関化の暴走と区別の恣意性の二重の誤りの上に基づいた誤った客観性です。

客観性とは、このように二重に誤った仕方で確定された主観側の条件によって与えられるものではなく、抑制された相関化のプロセスのなかで私が他者として認めざるを得ない諸主体との交渉のうちで、私の経験のうちで他者とも共有可能なものとして、生成してくるものなのです。

まとめと結論―純粋経験からの哲学へ

さて、今回の記事で、私はカントの超越論的な問いと、その「現象」と「物自体」の区別を批判しました。その内容を簡単に振り返りましょう。

超越論的な問いは、経験の可能性の条件を問うといいます。カントの場合は、この「経験の可能性の条件」として私たちの認識能力の関与を見出し、それによって経験的な認識において物理学や数学が必然的であることを根拠づけました。

しかし、経験の可能性の条件において、私たちの認識能力の関与分を確定することは不可能です。なぜかといえば、それが可能であるためには、経験のうちで認識能力の関与によるものではない部分、外界の寄与部分を確定できなければならないでしょうが、これは不可能だからです。

なぜ、何かが外界の寄与部分だと確定できるのでしょうか。それも私たちが認識している以上、私たちの認識能力の寄与部分かもしれません。こう考えれば、外界の寄与部分は結局まったく無くなります。外界は純粋な空虚となるのです。

カントはこれを徹底せず外界の寄与部分と私たちの認識能力の寄与部分をまったく恣意的に決めつけています。空間や時間がなぜ主観的なのか、そこにはカントの独断しかないのです。

もっと根本的には、可能性の条件の問いなどという、現にある経験以前に遡行するような議論を採用するべきではありません。そこでは外界由来の原初的なものに、私たちの認識能力が作用して、現にあるような完全な経験が成立するというストーリーが語られざるを得ませんが、だれもそんな過程を経験したことはありませんし、これから経験することもあり得ないのです。私たちは、私たちである限りにおいて、常にすでに経験しており、そこからスタートするからです。経験以前は完全にフィクションなのです。

だから、現にある経験を絶対的な出発点としなければなりません。それ以前への遡行は不可能なのです。経験は端的に現実であり、条件抜きに端的に可能なのです。

ここで私が重視するのが、経験と「経験の経験」、あるいは認識と「認識の認識」の差異です。

後者抜きの前者は、純粋経験と呼ぶしかないものです。パソコンだ、机だ、本だ。そこには主観と客観の区別もなく、主観的な認識と客観的な認識の区別もありません。

しかし、認識しているという事態そのものが認識されれば、その認識の主体として「私」(と名指すべきもの)も発見されます。認識主体と認識対象の区別が生じ、認識のうちで、当の認識主体のみが認識する主観的な認識と、そうではない客観的な認識との区別の可能性が生じます。これは。カントと違う意味においてではありますが、現象と物自体との区別と言いうるものです。

主観的な認識と客観的な認識との区別は、私とこの身体との同一化を通じて生じる、他の身体の認識主体としての承認を出発点として、遂行されていきます。他者とも共有できる認識が客観的で、そうでないものが主観的です。認識の認識は、私の自覚を通じて、他者性と客観性の次元の生成へと通じます。

しかし、認識の認識が可能にする、認識の認識主体への関連付けの論理を全面化すると、客観性と他者性との反対物への道が開かれます。すなわち、全てが私に見えているだけかもしれないという、あらゆる認識が主観的でしかありえず、客観的ではあり得ないとする懐疑論と、世界は私の表象でしかありえず、他者は存在し得ないという独我論です。

こういうわけですから、もし、純粋経験の閉塞性をも独我論的ということができるなら、他者性と客観性へ開かれた理性の領域は、二つの独我論的狂気の間にしか、ある微妙なバランスの上にしか存在しないと言いうるでしょう。

さて、カントの現象と物自体は、その実、この認識の認識主体への関連付けの極端化の帰結であると考えることができます。カントによれば全ての経験は現象なのですから。そして、カントは先に誤りを指摘した、原初的なものへの恣意的な遡行によって、不可知でありながら現象の基礎となる物自体を実体的に設定します。

その実体性の問題点は、そこが経験的に認識できない神や自由や魂のいわば避難所となってしまう点です。カントは「信仰に場所を開けるために、知を制限せざるを得なかった」と言っています。経験認識を現象に限り、不可知の物自体を確保することによって、認識できないが信じるべきものたちの居場所が確保されたのです。

しかし、純粋経験をこそ根本的な出発点とし、認識の認識に端を発する純粋経験の分節として世界を捉える私たちにとっては、このような物自体は実体性は否定されます。それは認識の認識主体への相関化を極端に推し進めた結果として、その外部として想定されるようになったものにすぎません。それは認識の認識という特殊な認識作用の効果にすぎず、神や自由や魂の避難所にはならないのです。存在するのはあくまで純粋経験のうちに含まれているものなのです。

また、私たちとカントの重大な違いは客観性の位置付けにあります。私たちの客観性は認識の主観への部分的な相関化のなかで可能になる、認識のうちで他者とも共有可能なものとそうでないものの区別に基づきます。

他方、カントの客観性は、この相関化を暴走させてカント的な物自体と現象を生み出したうえで、このもとでは本来は不可能なはずの物自体へのアクセスによってのみ可能な、経験のうちの主観側の条件の寄与の確定に基づきます。しかし、そもそも相関化の暴走はあらゆる客観性を不可能にする懐疑論的なものであり、その上でさらに不可能な物自体のアクセスを前提にするようなカント的な客観性の確定は、そもそも一切の有効性を欠いています。

今後は、カント哲学との批判的な交わりから生まれてきた以上の立場をさらに深めつつ推し広げることで、私は私の哲学的立場の構築を進めていきたいと思っています。

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