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この記事では「左派リバタリアン」の思想を簡単に紹介します。「左翼リバタリアン」と訳されることもあります。
リバタリアンとは「〜主義者」のことなので、思想の名前としては「左派リバタリアニズム」ということになります。
以下、第1節では、左派リバタリアニズムなどの議論の前提となっている、1970年以降のアメリカでの「規範的政治理論」の流れを簡単に紹介します。
その後、第2節で、リバタリアンの基本的な発想を紹介します。すなわち、「自己所有権テーゼ」に基づく所有権の基礎づけについて説明します。
その上で、第3節で、リバタリアンの一つの派生系である左派リバタリアンの基本的な発想と結論となる土地共有論を紹介します。
左派リバタリアンについてだけ知りたい方は、目次より第2節以降に飛んでください。
アメリカでの「規範的政治理論」の隆盛を回顧する
1970年代以降、アメリカでは「社会と政治はいかにあるべきか」を論ずる「規範的政治理論」と呼ばれる類の議論が盛んになりました。そのスタート地点となったのがロールズの『正義論』です。この著作以降、ロールズは「リベラリズム」の代表的な論客となりました。
ロールズ流のリベラリズムは、「社会で最も不遇な人々の待遇が改善されるような不平等だけが正当化される」という「格差原理」を含んでおり、「リベラリズム(=自由主義)」の名に反して、かなり「平等」を重視した考え方でした。ロールズは「自由の平等」ないし「平等な自由」を大事にしたのです。
このように「リベラリズム」という言葉が「平等」に乗っ取られてしまったかのような事態に直面して、「自由」を徹底的に重視するべく立ち上がったのが「リバタリアニズム(徹底的自由主義・自由至上主義)」という思想です。これはノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』が代表的な著作とされます。
また、リベラリズムとリバタリアニズムに共通する「個人主義」や「自由な選択の強調」に反対し、「選択の前提にある価値観」と「価値観を支えるものとして共同体」を重視する「コミュニタリアニズム(共同体主義)」という思想も現れました。この代表者が日本でも「ハーバード白熱教室」で有名になったサンデルです。
この「規範的政治理論」は、フランス由来の現代思想が退潮傾向になったのと入れ替わりに、2000年代には日本でも盛んに論じられましたが、最近は以前よりもだいぶ下火となっているようです。
「リバタリアニズム」と「自己所有権テーゼ」について
さて、今回話題にしている「リバタリアニズム」は自由をとにかく重視する考え方です。その出発点にあるのが「自己所有権テーゼ」です。
「自己所有権テーゼ」とは、まずもって「私は私の体の所有者である」ということです。そして、このテーゼはこの根源的な所有から出発して、より広範な所有権を基礎づけていきます。私の体は私のものである。だから、私の体で作ったもの、私の労働生産物も私のものであると主張するのです。
主流の「リバタリアニズム」では、このように自己所有権から労働成果物の所有権が正当化される以外では、双方の合意による所有権の移転だけが正当な所有権を基礎付けると考えます。
私は私の体を正当に所有し、だから私の労働の成果物も正当に所有する。他に私が正当に所有するのは、他者との合意に基づいて、私が他者との交換で得たものだけだ、ということになります。
このことが含意するのは、徴税は基本的に不当であるということです。なぜなら、私は徴税に合意しておらず、したがって徴税は正当な交換行為ではないからです。
こうして「リバタリアニズム」では、国家は基本的に不正であって、最小限の程度で受忍される「必要悪」となります。国家が徴税をして再分配をするなどもってのほかであって、「平等」よりも「自由」が重視されることになるのです。
左派リバタリアニズムの論理―ベーシック・インカムを可能にする土地共有論
左派リバタリアニズムは、上記の「自己所有権テーゼ」から始まる論理のある一箇所にツッコミを入れることから生じた分派です。
それは、「私は私の体を所有している」は完全に認めつつ、そこから「私は私の労働成果物を所有している」へと移っていくところ、その移行を問題にします。
そこで典型的に問題になるのが「土地」です。たとえば、じゃがいものような農業生産物は、確かに一方では労働の成果ですが、他方では大地そのものの力の結果でもあります。なぜ、後者の土地が寄与している部分まで私は所有を主張できるのでしょうか。
「自己所有権テーゼ」の元祖である17世紀イギリスの哲学者ロックは、土地自身の価値は、それに付け加えられた労働によって何倍にもなるのだと言いました。つまり、たとえば、じゃがいもの価値のうち、土地自身の価値が占める分は極めて小さく、労働の価値の部分がとても大きいというのです。
ロックは、この理屈でもって、じゃがいもの所有権を完全に正当化しようとしました。それは、すなわち、その土地を耕して農業を行うという行為でもって、土地の所有権まで正当化しようとしたということです。
しかし、この理屈で土地の所有権まで正当化することは、どう考えても無理筋でしょう。労働の価値が土地自体の価値の何倍であろうが、土地の価値分がゼロではあり得ないからです。
ただ、ロックの時代はアメリカが「発見」されて間もない牧歌的な時代でした。ヨーロッパ人の目から見ると「持ち主のいない」土地がまだたくさんあったのです。
だから、ロックは、「土地の所有権が正当化されるのは、他の人にとって、同じぐらい良い土地が、同じぐらいたくさん残っている場合に限る」という但し書きをつけることで良しとしようとしたのです。
「左派リバタリアニズム」とは、このような論理に反対して、土地の共有・公有化を主張する立場です。
確かに私は私の体を所有しているし、私の労働の産物も所有しています。ただし、土地は私の労働の産物ではないし、有益な土地は限られているのです。現代についていえば、もはやとりわけ有益な土地はあらかた開発されてしまっているといっても過言ではないでしょう。
とすれば、土地の所有権が、現代において、実質的に早い者勝ちの論理によって正当化され続けてしまっているのは、大いに問題ではないでしょうか。土地は本来誰のものでもないはずです。土地所有の望ましい形態は、このことを反映して、共有制なのではないでしょうか。そう左派リバタリアンは主張するのです。
もちろん、これは簡単な改革ではありませんが、土地所有権の大幅な改変は、歴史上、幾度も行われてきたことも事実です。
日本の律令制は「公地公民」を原則としましたし、フランス革命は地主の土地を小作農に分配しました。豊臣秀吉は太閤検地で一つの土地に重層的にまとわりついていた封建的な諸権利を整理しましたし、戦後の農地改革では地主の土地の強制的な買い上げと小作農への払い下げが行われたのです。
左派リバタリアンの立場から考えると、現代において理想的な土地制度として、まず土地は国有としたうえで、各土地のレンタル権をオークションにかけることが考えられるでしょう。そのレンタル料を各種のベーシック・サービスや全国民向けの基礎給付(いわゆるUBI:ユニバーサル・ベーシック・インカム)に充てることで、土地を国民全員で共有しているのと同じ効果を生み出すのです。
この制度であれば、人々は有益な土地をレンタルして、さまざまな有益な生産活動を営むことができ、それによってお金を稼ぐこともできますが、その稼ぎはその人の労働の貢献分に限定され、土地の寄与分は全国民に平等に分配されることになるのです。
より簡単なのは、土地への固定資産税を増やしていくことでしょう。あるいは、前者の政策と組み合わせて、固定資産税を順次増税していくことにより、土地を手放すように仕向けて、最終的に前述のような共有化を目指すといったことも可能です。
消費税は福祉目的の税であるというようなことが言われるけれども、私はそのような国民全員向けの基本サービスを支える役割を果たすべき税があるとすれば、それは、上記のことから、まずもって土地への固定資産税であるように思われます。


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