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この記事では現代の主流派の特にマクロ経済学(大学で教えられているマクロ経済学)とは何なのかを、経済学の哲学の観点から紹介します。
経済学の哲学とは、経済学が経済を対象とするのに対して、経済学自身を対象にし、経済学がやっていることの批判的検討を行う学問です。
この記事を読むと
- 現代の主流派マクロ経済学がどんな学問か分かる
- (私なりの)経済学批判の哲学がどんなことを考えているか分かる
という二つのメリットが得られます。
結論:現代の主流派マクロ経済学は「イワシの頭」である
さて、私なりの経済学の哲学の結論は、現代の主流派マクロ経済学、大学で教えられているマクロ経済学の本質は「イワシの頭」であるということです。
これは「イワシの頭も信心から」ということわざから採った表現です。ここでの意味は、信じたいという思いがあれば、人間は「イワシの頭」のような価値のないものでも神に祭り上げてしまうということです。
よって、現代の主流派マクロ経済学はイワシの頭であると主張することの含意は、第一に主流派マクロ経済学はイワシの頭のように価値のないものであるということ、第二に主流派マクロ経済学がそれでも信奉されるのは私たちの信じたいという気持ちを刺激するからだということです。
第二の点をもう少し具体的にいえば、私たちが信じたいのは旧来型の勤労道徳であり、また財政規律という特殊な規律であって、その背景には規律・規範の不在への恐怖、いわゆるアノミーへの不安があるのです。
以下、このことを根拠づけていきましょう。
なぜ現代の主流派経済学はイワシの頭くらい価値がないと言えるのか?
経済学に価値があるとすれば、それは経済の現実の正確な描写だからだ
さて、現代の主流派の特にマクロ経済学、つまり大学で教えられている経済学、特にマクロ経済学が「イワシの頭」レベルのものだという主張は大胆に響きます。しかし、これは大いに根拠のある話なのです。以下、その理屈を展開します。
まず、普通の人の感覚からすれば、経済学に価値があるとすれば、それは現実の経済を正確に描写しているからでしょう。
自然科学が自然の事実を原理として正確に写し取り、その動きを正確に予測し、それによって人間に都合の良い結果を生み出す技術開発に大いに役立っているのと同様に、社会科学も社会の事実を原理として正確に写し取り、その動きを正確に予測し、それによって人間に都合の良い結果を生み出す社会的な技術開発(=政策立案)に大いに役立ってほしいと思うでしょう。
主流派経済学は数学と物理学を間違った仕方で模倣してしまった
しかし、主流派経済学は、このような現実の正確な描写としての価値を持っていません。なぜでしょうか?それは数学と物理学を間違った仕方で真似てしまったからです。
このことを考えてみるため、数学と物理学の正当性がいかに担保されているかを考えましょう。
数学の正当性は、公理の設定の正当性と、その公理からの諸定理への展開の正当性に依っています。
数学はまずこれは正しいだろうという公理を前提として設定します。そこから正当な論理的な手続きによって諸定理を証明していくのです。これと本質的に同じことですが、これは正しいだろうといういくつかの基本的な方程式を設定し、そこからの正当な式変形・式展開でさまざまな公式を生み出していくという方法もあります。
物理学をはじめとする近代自然科学は、この数学的な形式を模倣しました。正しいものと前提された公理から正当な論理的手続きで諸定理を導出する、いくつかの基本方程式から正当な式変形・式展開によってさまざまな公式を生み出していく。
ただ、数学のように数や図形などの抽象物を扱うならこれだけで正当性が保証されるとして良いのですが、物理学のように現実のモノを扱うとなるとこれだけでは済まされません。現実における実証が不可欠です。すなわち、そのように導き出された公式が予測する諸結果と、現実に観測される諸結果が厳密に一致することによって、物理学の正当性が保証されるのです。
この実証のプロセスがなければ、いくら数学的に洗練されていようが物理学をはじめとする自然科学は全て机上の空論となってしまいます。
さて、ここで経済学です。経済学は何をしているのでしょうか。まず、経済学は上記のような数学と物理学の真似をして、最初に公理的な前提を拵えますが、そこでは現実とは似ても似つかない非現実的な抽象化がなされます。つまり、前提は正しそうではありません。
ただ、現実の事実を扱う点で数学よりも物理学に近い経済学にとってもっと致命的なのは結論の実証性の欠如です。経済学は、公理的な前提から数学的厳密さをもって導出した帰結を現実によって検証しません。なんと、経済学は自らの結論に現実が反していると、現実の方が不純であると非難するのです。つまり、経済学が扱う市場の論理が現実に貫徹されておらず、たとえば政府による規制が邪魔をしている等々。
もちろん、物理学にも同じようなことがあるとは言えるでしょう。たとえば、現実のモノの落下速度は物理学の理論が予測するものとはズレがあります。空気抵抗があるからです。しかし、それは誤差と言える範囲ですし、現代の物理学では空気抵抗を除去した純粋な実験による実証も可能です。経済学にはこのような純粋な実験による実証もなければ、その現実とのズレも誤差といったレベルではないのです。
また、さらにいえば、自然と違って人間を対象とする社会科学である経済学には、再帰性などと呼ばれることがある問題もあります。それは、経済学の言説自体が対象となる人間によって理解されることで、人間の行動を変えてしまうという問題です。要するに天邪鬼な人間であれば、経済学がこれが法則だと言ったら、それに反するように行動するかもしれません。すると、経済学的な法則の実証など不可能である、あるいはむしろ、実証したところで次の瞬間には妥当性を失うかもしれない、そう言えるでしょう。
こう言った事情もあり、経済学の中核的な部分は実証されていないと思われます。
要するに、経済学は前提のもっともらしさも、結論の実証性もないまま、前提と結論の間を繋ぐ数学的な移行の正確性と洗練を競っているのであって、その結果、数学や物理学とは似ても似つかないものとなっているのです。それは前提のもっともらしさの欠如によって数学的な正当性を持ちませんし、結果の実証性の欠如によって物理学的な正当性も持ちません。
主流派経済学は、したがって、経済の現実の描写としての正確性を持っておらず、それだけが経済学に価値を与えるものである以上、それは「イワシの頭」程度のものに過ぎないのです。
主流派経済学の二つの神話:「神の見えざる手の神話」と「財政赤字の神話」
ただ、以上は経済学批判は理屈であり、間違いの可能性の話に過ぎないともいえます。確かに経済学はその正当性の証明に関して、公理的に置かれる前提の妥当性も確保していなければ、そこから数学的に導出される結論の実証的検証もやっていない。それでも、経済学者たちのすごい直観の力によって、あるいはたまたま、その結論が奇跡的に正しいということもあり得なくはないとは言えるのです。
だとすると、主流派マクロ経済学の「イワシの頭」性を示すには、主流派経済学が実際に言っている出鱈目を提示する必要があるでしょう。それが二つあります。第一は「均衡財政の神話」、別名「財政赤字の神話」です。第二は「完全雇用の神話」、別名「神の見えざる手の神話」です。これらは主流派のマクロ経済学の中核にあるテーゼです。
「均衡財政の神話」=「財政赤字の神話」について
さて、まず分かりやすい方から行きましょう。
「均衡財政の神話」とは、政府も家計と同じように支出を収入の範囲内に抑えるべきであり、政府は税収以上に支出するべきではないという神話です。税収以上の支出は「国の借金」である国債で賄われる「財政赤字」となりますから。これは「財政赤字は悪である」という「財政赤字の神話」とも呼ぶことができます。
これは完全にナンセンスであり、まさに「神話」です。「円」について考えてみれば分かる通り、現代のお金は自然物ではありません。ゴールドのように大地に埋まってもいなければ、コメのように田んぼで取れるわけでも、シオのように海で取れるわけでもないのです。「円」は政府がそれをお金の単位として定め、「円」を発行することでしか存在しません。
とすれば、政府が支出を税収以下に抑えるべきだという発想は無意味です。そもそも政府の支出は税収によって賄われるのではないからです。政府が円を発行しなければ、政府は円で徴税することもできません。税収が政府の支出の財源なのではなく、政府の支出が税収の財源なのです。すなわち、政府は貨幣発行で支出し、その一部を税で回収するのです。
また、国債を「国の借金」ということもナンセンスであり、だから「借金=悪」ということで財政赤字を何か悪いものを見なすこともナンセンスです。円を発行できる政府が円を誰かから借金しなければならない必要など全くなく、国債は本質的に借金ではあり得ないからです。
にもかかわらず、主流派経済学はいまだにこの均衡財政を原則としています。たとえば、主流派経済学のなかで比較的新しくそれなりに有望な議論とされているFTPLなどは、財政赤字の累積としての国債が最終的に全て返済されて政府財政の均衡が長期的に達成されるという「政府の予算制約式」なるものを前提に議論を展開します。
FTPLは前提が出鱈目であり、結論もまた出鱈目なのですが、途中の数学的操作だけは正しいという主流派経済学の典型的な議論です。こんなものが真面目に受け取られていることは、主流派経済学が「イワシの頭」であることの有力な証拠であると言えるでしょう。
「完全雇用の神話」=「神の見えざる手の神話」について
主流派経済学のもう一つの神話が「完全雇用の神話」です。
「完全雇用の神話」は市場の価格メカニズムへの信頼と言い換えることもできます。もしあるモノの需要を供給が上回るなら、価格が下がり、供給は減って需要は増えるでしょう。この価格メカニズムの働きにより、需要と供給の一致、その意味での均衡が達成され、売れ残りは生じません。とすれば、人間の売れ残りも生じず、働きたい(=自分を売りたい)人が全員働ける「完全雇用」が達成されるというわけです。
一般に、このように価格メカニズムを通じて需給の均衡を達成させる市場の力が「神の見えざる手」と呼ばれます。とすれば、「完全雇用の神話」は「神の見えざる手の神話」と呼ぶこともできるでしょう。
しかし、この完全雇用、つまり、需給が一致して売れ残りがなくモノや人が売れていくというのが現実ではないことは明らかでしょう。私たちはモノが欲しくて欲しくてたまらず、モノが飛ぶように売れて、いわば奪い合いになっているでしょうか?近年、本当にモノがない!となったのは、日常的なレベルでいえば、コロナ初期のマスクぐらいではないでしょうか?
むしろ、モノやサービスが店に溢れていて、みなが売るために必死になっているというのが現実に近くはないでしょうか。みなが売るために必死になっていなければ、GoogleやMETAのような広告で稼ぐ企業が世界のトップ企業になることもないでしょうし、これほど人間を売れるモノに育てると称する各種の教育機関が盛況となることもないでしょう。私たちの社会は、みなが買うことよりも売ることに必死になっており、モノを得るよりもカネを得ることに必死になっているような社会ではないでしょうか。
なぜなのでしょうか?それは要するに私たちがモノやサービスのレベルではほぼ満ち足りており、将来への不安に対する安心材料としてとか、あるいは自らの成功の証、社会的承認の証としてとかのために、モノよりもカネの方がもっと欲しくなっているからかもしれません。実際、モノを買うことよりも、銀行口座や証券口座の残高が増える方が嬉しいという人は多いのではないでしょうか。
いずれにしても、根本的にモノが不足していた100年前や200年前ならいざ知らず、そこから各種の発明を経て、何十倍、ひょっとすると何百倍もの生産性を得た私たちの社会で、モノや人の売れ残りがなく、生産・供給に使えるリソースがフル活用されているという「完全雇用」は明らかに非現実的です。
この傾向は、ますます私たちの欲するモノが、いわゆるデジタル・コンテンツなど、ローコストでコピーできるデジタルなものに変わっていき、AI、ロボット、自動運転など人手を必要とせずに各種のモノやサービスの供給を可能にしていくテクノロジーが進歩していくにつれて、よりいっそう進んでいくことはあれ、後退することはないでしょう。
このような明白な現実があるにもかかわらず、完全雇用を基本的な結論としている主流派経済学は、やはり「イワシの頭」といって差し支えないように思われます。
ちなみに付言しておくと、この「均衡財政の神話」と「完全雇用の神話」が合わさることで、「財政赤字=悪」とする「財政赤字の神話」が完成形に至ります。「財政赤字」が悪なのは、先に述べた「均衡財政の神話」から出てくる「借金だから」という理由のみによるのではなく、「完全雇用の神話」から出てくる「インフレが起きるから」という理由にもよるのです。
すなわち、市場が勝手に完全雇用に達してリソースをフル活用しているなら、政府が財政赤字で市場に購買力を投入することは、すでにフル活用されているリソースにさらなる需要が殺到することを意味しており、そこでは生産は全く増えないまま、無意味に価格が上昇して経済が混乱するインフレが発生するだけなのです。
逆にいえば、市場で完全雇用が達成されていなければ、政府の財政赤字は使われていないリソースを利用することで、人々に仕事と所得を与えつつ、他の人々に便益を与えることができます。たとえば、失業者という余剰リソースを雇って街の清掃に従事して貰えば、失業者は仕事と所得が得られますし、他の人々はより清潔になった街を享受できるのです。
規範・規律を求める私たちの心が、主流派経済学を主流派たらしめていること
さて、以上で主流派経済学が学問的手続きとしてまともでなく、実際の前提や結論も出鱈目であることが明らかになったかと思います。主流派経済学は「イワシの頭」程度の価値のものでしかありません。
ただ、「イワシの頭」の比喩は、信仰対象を求める私たちの心が「イワシの頭」程度の価値のないものでも神仏のレベルにまで押し上げてしまうということを言わんとして採用したものです。今度はこちらの側面を考えてみましょう。
このことを示すには、主流派マクロ経済学の中核にある二つの神話、「均衡財政の神話」と「完全雇用の神話」の効果を考察する必要があります。その効果とは、私たちに外的な規律や規範を与えてくれるという効果です。「均衡財政の神話」は財政規律を与えてくれますし、「完全雇用の神話」は勤労倫理を肯定してくれるのです。
そして、ポイントは、いまの主流派経済学が主流の地位を獲得した1970年代は、まさにこの両方の規律・規範が根本的な危機にさらされた時期だったということです。規律・規範の喪失、すなわち、アノミーの恐怖や不安が、規律・規範を再度肯定してくれる主流派経済学を呼び求めることとなり、「イワシの頭」にすぎない主流派経済学を主流の権威に押し上げたと思われるのです。
具体的にみていきましょう。
金本位制の終わり、管理通貨制アノミーと「均衡財政の神話」
まずは「均衡財政の神話」の方から。ここでのポイントは、まさに1971年のニクソン・ショック、ドルとゴールドとの交換の停止に他なりません。
米国政府はドルをゴールドと交換しなければならず、ドルとの固定相場制を採用していた先進各国は自国通貨をドルと交換しなければなりませんでした。そのことが究極的な財政規律として働いていました。政府は本来いくらでも通貨を発行できますが、それを自分では発行できないものと交換しなければなりませんから、自ずと通貨発行にも限界があるというわけです。
この金本位制の制約が取り除かれると、政府を外側から縛りつける外的な財政規律がなくなってしまいます。それがなければ政府は無限に通貨を発行し、ハイパーインフレを起こしてしまうのではないか。その「規律の不在(=アノミー)」への恐怖、いわばポスト金本位制の「管理通貨制アノミー」への不安が、人々に「均衡財政の神話」を求めさせたように思われるのです。あるいはむしろ、一部の経済学者にそのような恐怖を感じさせ、彼らを家計簿アナロジーによる「均衡財政の神話」の必死の布教へと導いたのではないかと思われるのです。
実際、1970年代にこの点に関わる重要な本が二つ出ています。ブキャナンの『赤字の民主主義』とハイエクの『貨幣発行自由化論』です。得票の最大化を求める政治家が有権者受けのよい放漫財政に走って財政赤字とインフレを慢性化させると主張する前者、過大な貨幣発行による貨幣価値の下落を引き起こさないように貨幣発行主体を複数化して相互に競争させることを主張する後者、どちらもゴールドというタガが外れた1970年代のタイミングだからこそ出版されたし、今でも読み継がれる本として残ったと思われるのです。
もちろん、ベトナム戦争以来上昇基調にあったインフレ、そこに石油危機による高インフレが重なり、ケインズ主義的福祉国家のなかで力をつけた労働組合が強力な賃金上昇要求を求めたことで「賃金・物価(のインフレ)スパイラル」が発生していたといったことがもう一つの背景なのですが、明らかに金本位制の終焉という背景もあったと思われるのです。
生産社会の終わり、消費社会アノミーと「完全雇用の神話」
続いて「完全雇用の神話」に話を移しましょう。
これが対応するのは1970年ごろに戦後高度成長が終わり、「生産社会から消費社会へ」ということが盛んに論じられた社会状況です。
戦後の高度成長では、三種の神器(掃除機・洗濯機・白黒テレビ)や3C(車・エアコン・カラーテレビ)といった耐久消費財、そして道路・鉄道・上下水道・ガス・電気といった生活インフラが一気に普及し、私たちがいま知っているような生活が先進各国に出現しました。これらは近代的な生活を可能にする文句なしに便利な代物であり、その需要は絶対的で、飛ぶように売れていきました。制約は生産・供給の側にあり、だから主導権も生産の側にありました。
他方、これらが一定の普及を見た1970年ごろには、それらを大量生産していれば飛ぶように売れていくという状況はなくなり、高度成長は終焉します。生産側は手を変え品を変えて多様な商品を生み出しつつ消費者を誘惑するしかなく、限られた消費者の欲望を自らに惹きつけるべく広告業界のプレゼンスが一気に上がっていきます。制約は消費・需要側に移り、主導権も消費の側に移りました。
これを素直に表現したのが「生産社会から消費社会へ」ということを論じた消費社会論です。ここでそもそも消費・需要の側が経済成長の制約となっている供給過剰状態の場合、人々に欲しいモノがないのですから無理して働いてモノを作って売ろうとする必要はありません。むしろ、人々の労働時間を減らして供給を減らし、またそこでできた余暇時間にいろいろ消費をしてもらって需要を増やすという仕方で需給の調整を図るべきでしょう。
もちろん、そうすると仕事がなくて収入がなくて困るということはあるでしょうが、それは少ない仕事を分け合うワークシェアリングを進めたり、あるいは現金給付を行うことで補って良いでしょう。金本位制以後のMMT体制では政府の財源は原理的には余剰供給能力以外ではあり得ず、供給過剰であれば、余剰供給能力に対応するだけの支出を政府が行って何の問題もないからです。
しかし、ここにも人々は規律の不在と崩壊、アノミーの匂いを嗅ぎ取りました。いわば消費社会アノミーです。それを最も明確に表現しているのがダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』でしょう。
一方で資本主義は生産の側面で「プロテスタンティズムの倫理」と言われるような厳格な勤労道徳を要求しますが、そのような道徳が首尾よく功を奏して生産力が高まるなら、それを十分に消費してもらうべく消費の側面では快楽主義的で刹那主義的な(不)道徳を推奨せざるを得ません。ここに資本主義の文化的な矛盾があり、資本主義が生産の面で成功すると、それが要請する消費的な面によって自らの基盤を掘り崩されることになるというわけです。
消費社会のこの側面から道徳規範の崩壊、アノミーへの不安が萌したのです。それはいわゆるエリート層の「勤労道徳がなくなったらどうやって労働者を規律に服させるのだ!どうやって社会秩序を維持するのだ!」といった不安もあれば、ずっと勤労道徳を奉じて、それでもって自己を承認してきた労働者にとっても、「勤労道徳がもう無効だとなると、どうやって俺は俺の人生を意義づければいいのだ?」という困惑もあったでしょう。
ここで「完全雇用の神話」の出番です。この神話は、いまや世界にはモノが溢れており、人々はモノを買うことより売ることに必死で、(モノを買うためにカネが欲しいのではなく)モノなんかよりカネの方が欲しいといった現実を否認し、経済では需給が一致する均衡、生産のための各種リソースがフル活用される完全雇用が達成されていると強弁します。
これは荒唐無稽なのですが、しかし、そこには一つの効果があるのです。完全雇用でリソースがフル活用されているなら、経済成長の制約は需要側ではなく供給側にあり、ということは必要なのはより多くの供給、すなわち、より強度の労働なのです。「もっともっと必死に頑張って働け!」、「完全雇用の神話」があれば、人々は旧来の勤労道徳を再び断言できるのです。
主流派経済学のマッチポンプ
1970年代には金本位制から管理通貨制への移行、生産社会から消費社会への移行という二つの大きな出来事があり、このどちらもが規律の崩壊というアノミーの不安を引き起こしました。財政規律の崩壊という管理通貨制アノミーと勤労倫理の崩壊という消費社会アノミーです。これに対して、「均衡財政の神話」と「完全雇用の神話」を唱える主流派経済学が解決策を提示しました。それはこれまで通りの財政規律と勤労道徳を再び断言するための前提を提供したのです。
ただ、このアノミーへの不安そのものが主流派経済学の帰結であり、この全体の構図に主流派経済学が自分でつけた火を自分で消すというマッチポンプ的な構造が見て取れることも忘れてはなりません。
「均衡財政の神話」のマッチポンプ:主流派経済学的「合理性」とハイパーインフレ
「均衡財政の神話」の方からマッチポンプの構造を見ていきましょう。金本位制が終わって管理通貨制へ移行したことが、財政規律の不在化(管理通貨制アノミー)、それによるハイパーインフレの恐怖を呼び起こしたのです。しかし、政府と国民はそれほど愚かなのでしょうか?
ハイパーインフレなるものが起きるとして、すぐに起きるわけではなく、過剰な支出等による高インフレがあって、それに対してもさらに過剰な支出をどんどんしていくといったことが何段階も起きて、ようやくハイパーインフレに至るわけで、政府にはそれを起こさない機会がいくらでもあるのです。
なのに主流派経済学者は「ハイパーインフレが怖い!」といいます。なぜでしょうか。ここには主流派経済学の考える「合理性」の概念が関係しています。主流派経済学の合理性の概念は、制約条件下における最大化という数学的操作なのです。
今回の事例では主流派経済学はこのように考えます。政治家は「合理的経済人」であり、彼らの目的は得票数の「最大化」である。彼らは予算の「制約」のもとで、この最大化に取り組む。自分の手の内にある1億円の予算、これをどう使うのが自分の得票を一番増やせるか?これが主流派経済学の問題の立て方です。
さて、ここで予算制約がないとすれば?もちろん、いろんなところにお金を配れば配るだけ、その政治家の得票は増えるでしょう。だったら、無限に配るのが合理的です。だって、政治家は得票を「最大化」したいからです。その政治家は全国民に投票されるまで、そして絶対に他の政治家に支持を横取りされないように、お金を無限に配り続けるのです。それが「合理的」なのです。
ポイントは主流派経済学者が問題を数学的に捉えているということです。たとえば、y=x^2の最大値を求めるという問題を考えてみましょう。もし、xの動く範囲に制限があれば、yには最大値があります。たとえば、xがマイナス1から3まで動くとすれば、x=3のときにy=9が最大値です。では、xの動く範囲に制限がなければ?xを無限に大きくして行ったり、無限に小さくして行ったりすれば、yはどこまでも大きくなります。これと同じことで、政治家は予算xの制限がないと、得票数yをどこまでも大きくするために予算を無限大にまで増やしていくのです。それなら確かにハイパーインフレも起きるでしょう。
私たちにとっての問題は、どう考えてもこれが「合理的」な人間のすることとは思えないということです。あまりに視野が狭い。政治家がハイパーインフレを起こして社会を大混乱させるまで支出を拡大させるほど愚かだとは思えませんし、また国民もそんな政治家をお金をくれるからとどこまでも支持していくほど愚かだとも思えません。
要するに、主流派経済学の語る「合理性」とはそんなものだということもいいうるかもしれません。それは得票数という単一の指標の最大化を実行するということであって、バラマキをすればするほど得票が増えるという局所的に観察される関係性がどこまでも通用すると想定することで、予算制約がなければ政治家は無限の財政支出で無限の得票を得ようとし、結果、お金が無価値になるハイパーインフレが起こるというのです。
ただ、これは私たちが考える「合理性」とは程遠いでしょう。人間はさまざまな価値と関わっており、何か特定の指標の最大化に関わっているとは限りません。政治家は確かに得票数を増やしたいでしょうが、大義のために票を犠牲にしてでも行動するということもあるでしょう。また、ある範囲において妥当そうな関係性がどこまでも延長できると想定するのも根拠がありません。確かにある程度までならバラマキで票は増えるでしょう。ただ、それで高インフレが引き起こされるなら、どこまでもバラマキで票が獲得できるとは思えません。国民もそんな政治家は見限るでしょう。実際、インフレが起きると与党が負けるって最近よく言われているでしょう。それこそ、バイデン・インフレがトランプを勝利させたのだ、とか。
指標をたった一つに縮減すること、ある範囲までのみ妥当と思われる関係性をどこまでも延長すること、これが先に述べた経済学者による数学の誤用の一例です。確かに数学的操作、制約下での最大化という操作自体は正当でも、その前提となる現実の数学的表現への変換作業が出鱈目なので、結論も出鱈目になってしまうのです。
「完全雇用の神話」のマッチポンプ:ホモ・エコノミクスと「神の見えざる手」
「完全雇用の神話」に話を移しましょう。こちらは「供給が需要を生み出す」といういわゆるセイの法則を復活させ、だから経済成長の制約は供給側にあるのであって、勤労道徳が重要なのだという議論を可能にする効果があります。
このようにして、だいたいのモノが満ち足りてしまい、常識的に思考すると頑張って働く必要が相対的に低くなっていき「勤労道徳」が価値を失っていくなかで、それが引き起こす規範の不在、すなわち、消費社会アノミーへの不安に、この神話は回答を与えたのです。
しかし、この不安にも部分的に主流派経済学のマッチポンプの構造があることを洞察することが重要です。なぜ勤労道徳の崩壊が社会秩序の崩壊、道徳一般の崩壊に直結するのでしょうか。それは主流派経済学の主体理論と社会秩序理論のためなのです。
すなわち、主流派経済学は人間を自己利益を最大化する合理的経済人、「ホモ・エコノミクス」だと設定します。そんな自己利益追求しかしない人々がどうして社会秩序を形成できるでしょうか。ここに市場の「神の見えざる手」の重要性があります。市場では自己利益を追求したければ、他人に奉仕するしかないのです。だって、お金を稼ぐには他者に役立つものを提供して、その対価としてお金をもらうしかないからです。そこには販売をめぐる競争もあり、他者への奉仕の量と質はどんどん洗練されていきます。こうして市場を通じて自己利益追求が実質的に効果的な利他主義へと変換されるのです。
この変換を担っているのがまさに「勤労道徳」です。というのも、ここで内面的な利己主義が外面的な利他主義へと変換されるのは、市場での販売を通じてであり、要するに私たちが何らかの意味で勤労して他者に何かを提供することによってだからです。
だからこそ、逆に働く必要がなくなり、勤労道徳が崩壊するなら、それは道徳一般の崩壊であり、おそらくは社会秩序一般の崩壊なのです。というのも、そのときには、自己利益をひたすらに追求する人々の行動が外面的には利他主義として現れるという市場の「神の見えざる手」の変換作用が起きることがなく、剥き出しの利己主義の衝突が起きるだろうからです。
こうして、ここでも主流派経済学の主体観と社会秩序観こそが、生産社会から消費社会への転換を何か恐ろしいアノミー状態として感受させる前提となっているのです。市場での労働を特権化する私たち自身の価値観も、他人の役に立つことは市場での労働によってのみ可能であるかのような、この主流派経済学流の思考の影響下に形成されていると思われるのです。
主体概念の再構築と私たち自身の成熟が必要であること
こうして、真の課題が見えてきます。それは主体概念の再構築と私たち自身の成熟です。
というのも、以上の検討から、管理通貨制度における財政規律不在ゆえのハイパーインフレへという恐怖、あるいは消費社会における勤労道徳不在ゆえの社会秩序崩壊という恐怖の背景になっていたのは、人間を自己利益の最大化を目指すホモ・エコノミクスと捉える主体概念であり、そのあまりに単純な数学的表現への変換であり、このような人間主体を利他主義的に行動させられるのは、市場による販売、市場における競争のみであるという社会秩序観であることが明らかになったからです。
このように主流派経済学の思考から生み出されるアノミー的不安への回答として、主流派経済学は自らの「均衡財政の神話」と「完全雇用の神話」を提示して勝利したのであって、主流派経済学を乗り越えるには、このアノミー的不安を生み出す前提条件そのものを解体する必要があるのです。
そのためには、市場を通じずとも社会秩序を生み出せるような道徳性を持つものとして人間を捉える主体概念を練り上げる必要がありますし、金本位制のような外的な財政規律がなくともハイパーインフレを起こさせないような賢い国民へと成熟する必要があるのです。それによって上記のアノミーへの不安を単なる杞憂に終わらせること、それだけが主流派経済学のヘゲモニーを本当に終わらせることができるのです。
そもそもなぜ主流派経済学を終わらせなければならないか?
それにしても、そもそもなぜ、主流派経済学、特にそのマクロ経済学を終わらせなければならないのでしょうか?
それは本サイトの立場である「21世紀の政治経済学」がケインズや20世紀の歴史的経験に依拠しつつ主張しているように、現代の問題は供給に対して需要が足りない過剰生産であり、それによって生じる供給能力が余ってしまうという事態、つまり、人間が余ってしまうという事態だからです。それは失業や低賃金労働を生み出します。これは供給能力が豊かであるからこそ生じる貧困、「豊かさゆえの貧困」という不条理です。
そして、「完全雇用の神話」と「均衡財政の神話」は、まさに前者がこの供給過剰という問題を隠蔽し、後者が赤字財政支出というこの問題の解決策を封じるという仕方で、この問題を絶対に解決不可能にするように協働するのです。
しかるにいまや先進国は、外国からの輸入を含め全国民が豊かに生きるのに必要なモノを供給する力は十分にあるのに、この二つの神話によって「豊かさゆえの貧困」を解決できず、中間層をますます没落させ、そうすることによって政治的に不安定化し、社会的解体を引き起こしつつあるように見えます。
あるいはケインズが危惧したように、主流派経済学の神話が生み出す不作為によって希少なままにされた市場(需要)の奪い合いという倒錯的な争いが、貿易戦争、保護主義、ブロック経済化といった国際的対立につながり、そこで生まれる敵意が、没落する中間層と排外主義的・対外強硬的な右派ポピュリズム勢力との共鳴関係のなかで増幅され、最後には第二次世界大戦のような戦争につながるということすらありうるのです。
こうした事情から、そもそもが「イワシの頭」である主流派経済学を「神仏ならぬイワシの頭」として正しく認識し、その影響力を除去することが、私たちにとって死活的な責務となっているのです。そこに文明の存続そのものがかかっているということが、さほどの誇張なしに言いうると思われるのです。


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