財政赤字と「国の借金」の倫理学—子孫へのツケから父祖への恩義へ

財政赤字と「国の借金」の倫理学—子孫へのツケから父祖への恩義へ

この記事は約5分で読めます。

こちらに3分要約版もあります

今回の記事は、当サイトの「21世紀の政治経済学」の立場から、財政赤字と「国の借金」の倫理学について論じます。

それは財政赤字と国の借金を将来世代へのツケとして非難する旧来の主張を批判し、むしろ適切な財政赤字の利用は、「父祖から継承した資産を腐らせずに有効活用することであり、私たちをその保全とさらなる発展と継承へと義務付けるものであって、父祖から子孫へと連綿と続く継承と発展の営みの媒体だ」と主張します。

目次

「財政赤字=将来のツケ」論の確認と批判

従来の言説では、財政赤字と、その累積であり「国の借金」と呼ばれる政府債務に関しては、以下のような倫理的主張が展開されていました。

財政赤字を出して国の借金を積み上げることは、将来へのツケ回しである。というのも、私たちの子や孫の世代が税負担によって国の借金を返済することになるからだ。財政赤字を出すことは子や孫の負担によって自らの欲望を満たそうとする不道徳であり、厳に慎まなければならない。

しかるに、この議論の弱点はそもそも全体として見れば「国の借金」は必ずしも返済しなくてもよいという点にあるでしょう。実務的にも、「国の借金」はほとんど借り換えによって、つまり次の借金で得たお金によって返済されており、この場合、将来にツケは回っていません。日本に限らずどの国も政府債務の絶対額は増え続けており、これは税金で借金を返していないことを意味しています。

日本には「国の借金」を60年で完済するという60年償還ルールがありますが、これも日本だけのガラパゴスルールであること、また実際に日本でも債務残高が増え続けていることから、このルールは遵守されていない名目だけのルールであることも長らく指摘されてきています。

大局的に見れば、ある意味で発展しすぎた先進諸国においては、経済の基調は供給過剰気味であり、このままでは人間も余って失業や低賃金労働が生まれがちである以上、政府が財政赤字を出して需要を補っていくことは基調的な動向です。そして、今後も人間がどうしても効率化してしまう動物である以上、そうであり続けるだろうと想定されます。このため、財政赤字は子や孫の世代へのツケであるという論には現実性が乏しいと言えるでしょう。

財政赤字=父祖の遺産をしっかりと受け継ぎ、保全し、発展させ、継承すること

さて、では財政赤字を倫理的にどのように捉えるべきでしょうか。それを私は見出しのように「財政赤字=父祖の遺産をしっかりと受け継ぎ、保全し、発展させ、さらに後世に継承すること」、より正確には、そのような私たちの営みの媒体として見てみたいと思っています。

どういうことでしょうか。

そもそも私たちの供給能力が乏しく、私たちの通常の需要がそれを使い尽くしている状態、供給能力がフル活用されている完全雇用の状態では、財政赤字の余地は大きくありません。ここで政府が追加的な貨幣を供給しても、有限な供給に過剰な需要が殺到してインフレが引き起こされるだけだからです。

MMTが主張するように、この意味で余剰の供給能力こそが政府の真の財源であって、この意味の財源があれば政府による財政支出は余剰のリソースを使って新しい財やサービスを生み出し、それを人々に享受させることができます。使われていない畑があって、失業中の農業労働者がいたら、政府の財政支出でもって、その農業労働者に働いてもらい、政府がその生産物を買い取って、それをたとえば困窮者に配給できるわけです。

お金を受け取った農業労働者の支出、さらにそれを受けとった人の支出等々まで考慮する必要はありますが、ここにはインフレ的なものは何もなく、政府の財政赤字でもって、追加的な財と享受が生み出されました。これは政府財政の観点からすればフリーランチですが、実際に農業労働者が労働していますから、完全なフリーランチというわけではありません。MMTは余剰の供給能力がある場合の政府財政のフリーランチを主張しますが、それが実物的にはフリーランチでないことも明確に認識しています。

さて、以上の前提的考察から分かることは、財政赤字が可能なのは過剰な供給能力があるからだということですが、この過剰な供給能力は先行世代が私たちに残してくれた贈り物、その遺産であることは言うまでもないでしょう。それは、これまでのすべての人類の営みの結果なのであって、土地を開墾する原始的な試みから近代的な科学研究や技術開発、それは、それに基づいた生産設備の構築まで、私たちが現に手にしている供給能力はこれまでの人間の努力総体の結晶に他なりません。

ということは、必要に応じて赤字財政支出が可能で、私たちが独力で生み出せるもの以上のことを私たちが享受できることに関して、私たちは父祖というか先行する人類総体に対して恩義を感じ、感謝をしなければならないでしょう。

そして、必要に応じて財政赤字でもって既存の供給能力を活用することは、実際のところ、それを無駄にし腐らせていくことを防ぐという意味合いもあります。先の例でいえば、貴重な供給能力である畑もしばらく使わなければ、それは荒れ果てていくでしょう。畑は適切に活用することでこそ、畑として保全されていくのです。

さて、こういうわけで私たちが現に必要に応じて財政赤字によって供給能力を活用してさまざまな財やサービスを享受しえていることで父祖に恩義を感じますが、これは正しく先行世代からの贈与だと言えるでしょう。財政赤字を出す国家は、この贈与の媒体となっているということも可能でしょう。

この贈与は私たちに負債感を抱かせますが、それは私たちをどこに方向づけるべきでしょうか。それは間違いなく、遺産をしっかりと活用することで父祖の遺産の果実を享受しながら、それを保全し、私たちに可能な範囲で、願わくばそれをより良いものへと発展させて、次の世代に引き渡していくことでしょう。この意味で財政赤字は、父祖から子孫へと連綿と続く遺産の受け渡しの媒体なのだと言いうるのではないでしょうか。

逆にいえば、供給能力が余ってしまっているのに緊縮財政を推進することは、父祖から受け継いだ供給能力、畑や工場のような設備から、人の中に蓄積されている知識や技術まで、さまざまなものを使わないことで朽ち果てさせる行為であり、父祖への裏切りであるだけでなく、供給能力が失われたボロボロの国土や脆弱な知的基盤を子孫に残すという毒親的な行為でもあります。

このような緊縮財政が主流派の言説のもとでは「将来へのツケを残すな!」というフレーズのもとで倫理的な行為だとされていることには、ゾッとせざるを得ないでしょう。

これが「21世紀の政治経済学」が提唱する財政赤字と「国の借金」の新しい倫理学的な位置付けです。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
「ほんとうの経済の話」を広めることが日本と世界をよくする第一歩です。ぜひ拡散にご協力ください。
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次