ヘーゲル『法の哲学』入門—ヘーゲルのデカルト批判から出発して

ヘーゲル『法の哲学』入門—ヘーゲルのデカルト批判から出発して

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ヘーゲルの『法の哲学/法哲学』は、思うに、やはり西洋社会哲学・政治哲学の金字塔と呼ぶに値する著作ですが、いわゆる社会哲学・政治哲学のなかでは圧倒的に難解であるという点に特徴があります。

今回は、その「法の哲学」への入門として、その冒頭に置かれ全編の根幹となっている「自由な意志」論を、「それはヘーゲル流のデカルト批判である」という観点から根本的に再構成します。

おそらく、そのようにすることでのみヘーゲルの「自由な意志」の理論は適切に理解可能ですし、ひいては「法の哲学」全体、いやそれどころかヘーゲルの哲学体系全体も理解可能になっていくのです。

目次

ヘーゲル法哲学の構想の概観

ヘーゲルのいわゆる「法哲学(Philosophie des Rechts)」は、「Recht(=英語のright)」を取り扱うものとして、日本語でいう狭義の「法」や「権利」に留まらず、実践の領域での「正しさ」全般を論じるものです。

そういうものとして、ヘーゲルの法哲学は三部から構成されます。すなわち、私たちが法という言葉で真っ先にイメージする、ローマ法以来の「法」を取り扱う第一部「抽象法」、主体の内面における「正しさ=善」の追求に関わる第二部「道徳」、社会関係のうちに具現化され制度化されている規範性を論じる第三部「倫理」です。

しかるに、このように多岐にわたる議論の展開を貫き統べているのは、「Rechtの地盤は自由な意志である」という根本テーゼです(§4)。そういうわけで、前段落でみた三つの部門に先立つ「緒論」でヘーゲルは「自由な意志」の概念を論じます。

そのような事情であるとすれば、「自由な意志」のヘーゲル的把握を理解することなしには、法哲学全体を有意味な仕方で解釈することも不可能であることになるでしょう。それゆえ、この記事では「自由な意志」についてのヘーゲル的概念の解明を目指します。

ヘーゲルの「自由な意志」論の出発点

先に見た§4での宣言に引き続き、ヘーゲルは「自由な意志」の概念を展開し始めます。そのはじまりを画するのが、以下の§5の文章です。

§5 意志はα)純粋な無規定性という要素、あるいはそのうちでは全ての制限が、自然や必要や欲望や欲求を通じて直接的に存在している全ての内容、どこからであれ与えられ規定された全ての内容が解消されているような自己の自己自身への純粋な反省という要素を含む。これは絶対的抽象ないし普遍性の制限なき無限性であり、自己自身の純粋な思惟である。 (中公クラシックス、p.72)

このいかにもヘーゲルらしい文章を豊かに解釈する道は、思うに、それをデカルトとの共通性と差異性という観点から見てみることです。ヘーゲルはデカルトの「方法的懐疑」をある一貫した形で読み替えている、そのように見ることで、この文章を適切に理解することが可能になると思うのです。

デカルトの三つの誤り—ヘーゲル的なデカルト批判の再構成

デカルトの方法的懐疑とは—個人の析出と物心二元論

デカルトの「方法的懐疑」による思考の歩みを、『省察』での議論の展開に即して振り返ってみましょう。デカルトは絶対確実な認識に至るために、少しでも疑わしいものは徹底的に排除していくという「方法的懐疑」を遂行しました。

曰く、現にあると思われているものでも、本当に存在するとは言えない。錯覚や夢かもしれない。あるいはさらに数学の法則のようなものであっても、悪い霊が私たちにそれが正しいと思い込ませているだけかもしれない。

この種の、それこそ方法的に誇張された懐疑の果てにデカルトが見いだすのが、「我思う、故に我あり」です。すなわち、一切のことが疑わしい中で、しかし、疑っている限りにおいて、疑っている私の存在自身は疑いえないというテーゼです。

注意が必要なのは、感覚に現れる身体などは全て疑わしいものとして捨てられているので、ここで「私」というのは疑っている限りの私、簡単に言えば、思考能力だけの存在だということです。

さて、デカルトはこの一点を出発点にして、一切の議論を組み立てます。単純化していえば、このように存在が確保された「私」は、しかるに、疑う存在として不完全な存在であり、またそのことを自覚します。このことは、デカルトによれば、不完全がそれとの対比で理解される完全なる存在者、つまり、神の存在を前提とします。

このように完全なる神の存在によって、「悪い霊」は追い払われ、一度は疑われた外界の実在も保証されます。ただ、外界は延長を本質とする「延長実体」として、先に方法的懐疑を通じて一切の物体、つまり、一切の延長実体から抽象された、「私」というもの、「思惟実体」とは厳密に区別されることになります。延長実体(=物体)と思惟実体(=精神)という実体二元論が主張されることになるわけです。

こうして「私」なるものは、方法的懐疑という大掛かりな装置を通じて、延長を持たない存在、それゆえに決して「分割不可能(indivisible)」な、文字通りの「個人(individual)」として析出されることになるのです。

この点でデカルトの哲学は、よく言われる通り、16世紀に大航海時代・ルネサンス・宗教改革を通過した西ヨーロッパに始まる「近代」の始まりを画するものだと評価することができるでしょう。デカルトの哲学こそが、はじめて「個人」を、世界のうちの一切に先立つがゆえに、世界のうちに場所を持たず、したがって物体とは違って分割不可能な存在者として、位置付けたわけです。

さて、しかるに、この二実体論、言われるところの「心身二元論」こそ、デカルトの哲学でもっとも批判が集中するところでもあります。それは当時からもそうですし、現代のいわゆる「心の哲学」でも、このデカルトの二元論の批判から議論を出発させることが多いようです。

ヘーゲル的なデカルト批判に向けて

私たちも——ここでは、ヘーゲルも、ということですが——この「心身二元論」を批判的に取り扱います。

しかし、ヘーゲルの議論が他の多くの批判と一線を画するのは、それが「方法的懐疑」による「私」の抽出の持つ議論としてのもっともらしさ、その説得力を考慮に入れている点です。デカルトの「方法的懐疑」の道筋自体は誤っていないように(私たちには、そしてヘーゲルには)思われるのです。その正しさをどう位置付ければよいのでしょうか。

この問いに答えるために、私たちなりにヘーゲルのデカルトに対する立場を、デカルト批判という形で再構成してみましょう。もちろん、以下で述べるようなことをおそらくヘーゲルはどこでも論じていませんが、そうであっても、私の考えるところでは、それらはヘーゲルの立場を理解するために必須の前提をなすものなのです。

デカルトの問題点は「身体の地位」が不可解になること

さて、出発点は「心身二元論」です。現代の「心の哲学」であれば、身体と精神を完全に区別して、魂の不死を唱えるようなデカルトの哲学は端的に誤りとされ、身体(脳)に心を位置づける物理主義的な立場が主流なのでしょう。

他方、物理主義が主流をなす遥か前だった当時に問題となったのは、異なる実体とされた精神と身体との相互作用がいかにして可能なのかという点であるように思われます。一般的に、この問題が機会原因論や実体一元論といった諸々の立場を生み出したとされています。

私たちとしては、精神と身体がどう相互作用するかという問題以前に、デカルト的に方法的懐疑によって見出された思惟実体としての「私」から出発すると、そもそもその「私」が身体にくっついていることに必然性がないことに注目したいと思います。私たちに現れる世界の広大さに比して、身体はあまりに小さいのです。なぜ、「私」は身体にくっついているのではなく、むしろ宙に浮いていないのでしょうか。このくっついてあることは、偶然というのは、あまりに出来過ぎていないでしょうか。

そういうわけで「我思う、故に我あり」から一切を出発させるデカルトの議論は、心身の相互作用の問題以前に、身体の地位が不可解なものになるという問題を抱えているように思われるのです。精神が身体にくっついているという事実を認めながら、それを単なる偶然として済ますという不可解な立場をとらない限りにおいて、「我思う、故に我あり」からの出発は肯定し難いのです。

「我思う、ゆえに我あり」の背後に回る—自己参照する身体へ

では、どうすればいいのでしょうか。私たちはデカルトの「方法的懐疑」の道筋自体には一定の説得力を認め(=『省察』の第一省察と第二省察は否定できないように思う)ますから、「我思う、故に我あり」ということ、それへ至る推論過程の意義を全く却下するわけではありません。

むしろ、私たちとしてはその背後に回ってみようと思うのです。「我思う、故に我あり」からの出発は、それが身体の地位を不可解なものとするために棄却されますが、「我思う、故に我あり」に至る論理自身は説得力があるのです。ならば、私たちはその出発点とされる「我思う、故に我あり」の、いわば背後に回って、それと身体とを結びつけるという方向を考えるべきです。コギトからの出発では視野の外に置かれる二つのもの、つまり、「身体」と「コギトにそもそも至る過程」をつなぎ合わせるのです。

さて、この背後に回るとは、まさに「我思う、故に我あり」に登るために使った梯子、「方法的懐疑」それ自身に焦点を当てることです。この「方法的懐疑」とは何なのでしょうか。私の主張は、「方法的懐疑」の本質は——ここですでに私たちはヘーゲル的な思惟の領域に足を踏み入れはじめるのですが——「これは私に見えているだけではないか」「これは私にそう思われているだけではないか」ということにある、というものです。

すなわち、ただ「私に見えている」「私が見ている」と意識するだけで、それが「客観的には存在しないかもしれない」と疑い始めるには十分であって、デカルトが持ち出す「夢」「錯覚」「狂人」「悪い霊」といったものは、この疑いを実質化するための、いわば「様々なる意匠」に過ぎないのです。

とすると、「方法的懐疑」の根源、それが前提としているのは、「「私」が見ているのだ」という「私」への参照、すなわち、自己参照です。もっと一般的にいえば、認識が単に何ものかを認識するのではなく、認識していること自体を認識することです。そのいわばメタ認識ないし「認識の認識」を、それだけを、「方法的懐疑」は前提としているように思われるのです。

この観点からみるならば、「方法的懐疑」は、「私の自己参照性」を前提とし、一切のものを「私に現れているだけではないか」といって疑問に付し、いわば否定し相対化することで、「自己参照する/される私」だけを、つまり、「我思う、故に我あり」だけを、絶対に確実なものとして見いだす、それを絶対的な出発点とするという思考の道を歩んでいることになるでしょう。

しかるに、私たちとしては、この「我思う、故に我あり」を出発点とすることは、それが身体の地位を不可解にするために採用せず、しかし、同時にデカルトの「方法的懐疑」の理路自身は認めて、それと身体と精神の結合の事実性と調和させる道を探っていたことを思い出しましょう。

そのために「方法的懐疑」の背後に回ることにしたのであって、そこに今や見出されたのが自己参照性なのです。とすれば、私たちは「身体」と「自己参照性」を結びつけ、「身体」において「自己参照性」が生成するというところから議論を始めるべきなのではないでしょうか。少なくとも、それは「我思う、故に我あり」を出発点とするがゆえに身体の地位を理解し得ないデカルト自身の立場よりも説得力があります。

デカルトは、「方法的懐疑」という梯子を使って「我思う、故に我あり」に登りつめたあと、どういうわけか、その梯子を足蹴にして、それをなかったことにするのですが、この梯子に目をこらすことこそ、デカルトの立場が孕む問題性を乗り越えるのに必須の道なのです。

デカルトによる「神の存在証明」の解体

さらに言えば、この「方法的懐疑」を支えている自己参照性に注目することは、デカルトの神の存在の論証——の少なくとも最も重要な部分——を突き崩す作用も持ちます。

というのは、自己参照することは、自己が自己を対象化することとして、自己自身を乗り越え限界づけることであって、それゆえ自らを不完全なものとして認識することなのですが、そこにあるのは自己「超越」であって、この不完全性の認識があるからといって、デカルトのようにそこから完全なる「超越」的な神の存在を推論する必然性は全くないからです。

デカルトの三点の誤りのまとめ

かくして、総括するなら、デカルトの誤りは相互に密接に関わる三点に存します。

すなわち、第一に「我思う、故に我あり」を絶対的な出発点にしたことの帰結としての「身体の地位の不可解」。そして、第二に「方法的懐疑」という梯子をなかったことにし、そこで前提とされており、またその本質であるところの自己参照性に注意を向けなかったこと。

この二つの誤りを認識し、「身体」において「自己参照性」が生成するという点を出発点にすることで、デカルトの議論はより整合的な方向へと訂正されます。

そして、この「自己参照性」へ注目することで、第三の「私の不完全性から完全なる神の存在を推論する」という誤りが見えてきます。自己参照は自己超克であり、そのような存在者の不完全性の自覚は、完全なる神の存在を要しません、そこで自己の不完全性を認識させるのは、自己自身による自己の乗り越えだからです。

さて、私の理解するところ、ヘーゲルの立場は、以上のようにデカルトの三点の誤りを認識し、それに対応するような仕方で形成されています。その観点から次節ではヘーゲルの「自由な意志」論を読み解いていくことにしましょう。

ヘーゲルの「自由な意志」の概念

意志における否定の契機

ヘーゲルの「自由な意志」論の始まりに回帰しましょう。再掲します。

§5 意志はα)純粋な無規定性という要素、あるいはそのうちでは全ての制限が、自然や必要や欲望や欲求を通じて直接的に存在している全ての内容、どこからであれ与えられ規定された全ての内容が解消されているような自己の自己自身への純粋な反省という要素を含む。これは絶対的抽象ないし普遍性の制限なき無限性であり、自己自身の純粋な思惟である。 (中公クラシックス、p.72)

さて、デカルトの方法的懐疑は、その本質的構造に着目するならば、「私の自己参照性」を駆使することで「自己参照される/する私」を一切に先立つものとして抽出したものでした。ヘーゲルの上の文章はそのことを彼なりの仕方で表現したものです。

意識が意識自身を意識して自己意識になること、この動きをヘーゲルは「反省(Reflexion)」と呼びます。それは外に向かっていた意識の視線が鏡に「反射(Reflexion)」して自分に戻ってくるようなものとして捉えられるからです。

さて、この意識の「反省」、つまりこれまで使ってきた言葉でいえば「自己参照」は、「全ての内容の解消」といった事態をうちに孕んでいます。というのも、それは一切の与えられたものを「私が見ているだけ」「私が思っているだけ」という仕方で否定し相対化しうるのですし、まさにデカルトの方法的懐疑に見られるとおり、その否定には限界がないからです。

このような事情により、ヘーゲルは自己意識の根本的性質を「否定性」と名指します。意識は意識自身を意識し、自己意識になることにおいて、否応無しにそれまでの意識自身とその対象とのメタレベルに立ち、それらを「否定」し相対化する作用を担ってしまうのです。

以上が、上のヘーゲルの文章の「どこからであれ与えられ規定された全ての内容が解消されているような自己の自己自身への純粋な反省」「純粋な無規定性」ということの意味です。これが最後に「思惟(思考)」と言われるのは、もちろん、デカルトの「コギト」、つまり、「私が思考する」に対応しています。

ヘーゲルにとって「思惟」とは、自己意識の否定作用によって所与の具体的で特殊な対象なり文脈なりへの没入を逃れ、そのメタレベルに抽象性と普遍性の次元を初めて作り出すことなのです。かくして、総括的にいえば、§5は「意志」に内在する「思惟」の契機を名指しています。

ここで次に注目するべきは、デカルトの語り口が「方法的懐疑」の過程に内在し、かくして、それを可能にする構造については口を閉ざしているのに対して、ヘーゲルはその過程を外から眺め、それを可能にする構造に議論の照準を合わせている点です。

上で見たように、その構造の根本にあるのが意識の自己関係性であり、それが自己参照するということなのですが、このようなプロセスを明示的に想定することは、デカルトとは違って、「我思う、故に我あり」を出発点と見なさず、それをより先行的なもののあとに置くことを意味せざるを得ません。先に引用した文章のように「絶対的抽象」などというからには、そこから抽象がなされるものがなければならないでしょう。

その先行的なものとは、まずもって身体性です。それは「自然や必要や欲望や欲求」といったヘーゲルの言葉遣いに現れています。ヘーゲルは身体がまずあって、そこに芽生えた意識が、自己参照を通じて、「我思う、故に我あり」へと向けて自らを抽象するというモデルで考えているといえるでしょう。

意志における肯定の契機

この議論構造の把握を裏付けてくれるのが、続く§6の展開です。

§6 β)自我はまた、区別なき無規定性から区別立てへの移行であり、規定することへの、そして、ある規定されたあり方を内容と対象として定立することへの移行である。——なおこの内容は、自然によって与えられたものとしてであろうと、精神の概念から生み出されたものとしてのであろうと、かまわない。

自我はこのように自己自身をある規定されたものとして定立することによって、現存在一般のなかへ踏み入る。——これが自我の有限性ないし特殊化という絶対的契機である。(中公クラシックス、p.76)

さて、ここでヘーゲルは一切の内容から自らを抽出して自己自身に反省するコギト的思惟の契機(α)とは反対の、何らかの内容を肯定し引き受けるということを意志の第二の契機として提示しています。

このβの契機では、完全に現実から遊離したαのコギトと異なり、人間は現実世界に位置を持つことになります。そのことをヘーゲルは「現存在一般のなかへ踏み入る」と表現しているわけです。現実捨象であるコギトには現実はなく、当然「社会」もありませんから、社会哲学を論じるには、このβが不可欠なのだともいいうるでしょう。

さて、ここで重要なのは、このように論じるヘーゲルが続いて以下のように述べていることです。

この第二の契機(β)は第一の契機(α)のうちにすでにふくまれているのであって、第一の契機がすでに即自的にそれであるところのものをただ定立するだけのことである。(…)第一の契機は、すなわち、第一のものだけとしては、(…)一つの規定されたもの、一面的なものでしかない。すなわち、第一の契機はいっさいの規定されたあり方の度外視であるがゆえに、それ自身は規定されたあり方なしでありはしないというわけである。そして一つの抽象的なもの、一面的なものとして有るということが、第一の契機の規定されたあり方、欠陥、有限性をなしているわけである。


上述の二つの契機は、フィヒテ哲学のなかに、また同じくカント哲学などのなかにも見いだされる。フィヒテの述べているところだけにとどめるとすれば、無制限なものとしての自我は、まったくただ肯定的なものとのみ解されており、したがってこの抽象的な自我はそれだけで真なるものであるとされ、またそのためにさらに制限が、すなわち否定的なもの一般が、——与えられた外的な限界としてであるにせよ、自我自身の活動としてであるにせよ——つけ加わってくるわけである。


(…)自我における、内在的な否定性を把握することが、思弁的な哲学の行わねばならなかった、さらにさきへの歩みであった。(中公クラシックス、p.77-78)

ここでヘーゲルは第一の契機が必然的に第二の契機へと移行しなければならないことを説明しています。

その説明の本質は、「第一の契機はいっさいの規定されたあり方の度外視であるがゆえに」というところに現れているように、第一のコギト的な契機がすでにして「否定」の産物であることに拠っています。コギトがそれ自身で完結してあるものではなく、すでにして何か他のあるものの否定として存在するものであるがゆえに、それは一面的なものなのであって、より十全なものを目指して自らを否定して第二契機へと移行していかなければならないというわけです。

対して、ここで批判の対象となっているフィヒテにあっては、このコギト的な契機が「まったくただ肯定的なもの」で「否定的なもの一般」は、それに対して外側から「つけ加わってくる」ものに過ぎないため、そこには「否定的なもの一般」に必然性が付与されていないというわけです。こういうヘーゲルにとっては「コギト=否定」ということが重要なのです。

こういうわけで、この部分の結論部である「自我における、内在的な否定性を把握することが、思弁的な哲学の行わねばならなかった、さらにさきへの歩みであった」というのは、まさに前節で展開した「方法的懐疑」の論理の解剖と同じことを意味しているのでなければなりません。その解剖もコギトそのものが意識の否定作用の帰結であることを明確にしたのだからです。

逆にコギトを絶対的な出発点とするデカルトの立場は、ここで「無制限なものとしての自我は、まったくただ肯定的なものとのみ解されており、したがってこの抽象的な自我はそれだけで真なるものであるとされ、またそのためにさらに制限が、すなわち否定的なもの一般が、(…)つけ加わってくるわけである」と言われているフィヒテの立場と等しいと言えるでしょう。

ここまででヘーゲルの立場が、デカルトの二つの誤りの認識と訂正、つまり、コギトを出発点とするのではなく、むしろ身体から出発して、意識の自己関係性によってコギト的な次元がそこから生成するという形をなしていることが明確になったと思います。

ヘーゲルにあっては、自己意識は身体において生成し、それから自らを抽象するのであり、またそのようにまずもって否定作用であるが故に、純粋なる否定態であるコギトそのものをも否定して外界に回帰していく必然性を持つのです。

 デカルトの三つ目の誤り、私の不完全性から完全なる神の存在を推論する誤りの認識と訂正もヘーゲルの哲学において重要な意味を持つはずですが、今回は措いておきましょう。

「自由な意志」の構成

さて、§5のαと§6のβ、つまり、否定と肯定の両契機を提示した後に、ヘーゲルは自身の意志の概念を定義します。

§7 (γ)意志は、この(α)と(β)の両契機の一体性である。すなわち、特殊性がそれ自身のなかへ折れ返り(=反射され)、このことによって普遍性へと連れ戻されたあり方、つまり個別性である。いいかえれば、それは、自我が自分を、自己自身の否定的なものとして、つまり規定され制限されたものとして定立しながら、同時に、依然として自分のもとに、つまり自分との同一性と普遍性のうちにありつづけ、したがって規定のなかで自分とただ自己自身とのみつなぎ合わせるという、自我の自己規定である。(…)このことが意志の自由なのである。(中公クラシックス、p.80)

ヘーゲルは自由な意志の概念を、αとβの一体性として規定します。これを分かりやすく言いかえれば、αの否定の契機だけでは「思惟」になってしまい、βの肯定の規定だけでは「衝動」になってしまうということです。

それをしないこともできるという仕方で潜在的に「否定」されたうえで、何か特定の内容を「肯定」すること、そうであることで、はじめてそれは単なる「思考」でも「衝動」でもない、「意志」と言いうるものになるのです。

「意志」は人間が「否定(α)」と「肯定(β)」の両契機を持つことを前提としており、またヘーゲルの場合、先に確認した通り、αのコギト的な契機がそもそも「否定」として把握されているがゆえに、コギトは自らを「否定」して「肯定」へと至る必然性があったのでした。

以上のようにしてヘーゲルは、「自由な意志」が可能である前提を、否定と肯定の両契機の総合として整理するわけですが、それははじめ、様々な与えられた内容の中から好きなものを選ぶことができるという「選択の自由」として現れます。

しかし、「選択の自由」はヘーゲル曰く、「形式的自由(あるいは恣意)」に過ぎません。というのも、選択において選ばれた「内容」自身は、限定されたものとして、否定的で無限定的な存在である「私」とは一致せず、私はそこにおいてただ、それを選ばないこともできるという内容との「関わり方」、すなわち、「形式」においてのみ自由だからです。

さて、まずもって「私」を「否定性」、つまり、無限定性として規定すること(§5(α))から始まるヘーゲルの議論は、もちろん、この「形式的自由」では終わりません。意志は内容的ないし実質的な自由へと進まなければなりません。

そして、実質的な自由は、主体が、その否定の、つまり、抽象化と普遍化の、すなわち、思惟の力能をもってして、あるいは、その力能にいわば駆られるという仕方で、自らの意志の内容を自己自身の普遍性に一致するまで、いわば純化していくことによって実現されるとされているようなのです。

思うに、「弁証法」とは、もっとも根本的には、以上のようにαとβの両契機に引き裂かれつつ、その両者をともに抱え込まざるを得ない主体の運動のことであって、その運動を通じて主体の意志の内容がより普遍的なものへと純化されていく運動のことなのです。

次節以降で扱いますが、問題は、そんなことが如何なる意味で十全に可能なのかということです。

さて、法哲学全体は、「形式的自由(恣意)」の主体が主人公となり、したがって、主体が自らの本質とは一致しない、有限な「物」を取得することに関わる財産法を議論の中心とする第一部「抽象法」、続いて、主体の内面への回帰が生じて、主体が自らの普遍的な本質に適うようなものへと意志の内容を純化していく第二部「道徳」、その戦略が挫折し、主体が社会関係のうちで自らの本質に即するような普遍性を目指していく第三部「倫理」へと分割されます。

これは概ね、βαγの三契機を、この順序で、より高次なレベルで反復するものとして、すなわち、「肯定」「否定」「両者の総合」といった仕方で把握されうる進行です。しかし、そこで問題は、こういったヘーゲルの議論の図式を前提として個々の議論を理解することではなく、それぞれの場所で、このようにまとめうるような進行が説得的に行われているのかどうか、その都度つぶさに検討することでしょう。

「序文」の読解—ヘーゲル的な「和解」の課題と戦略

以上の観点から序文も読解しておきましょう。序文で最も重要な一節は、私の考えでは、以下です。

理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在をよろこぶこと。この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる現実との和解である。——いったん彼らに、概念において把握しようとする内的な欲求が生じたならば。したがって、実体的なもののなかにいながら、しかも一つの特殊的で偶然的なもののうちにではなく、即自かつ対自的に存在するもののうちにいようとする、内的な欲求が彼らにひとたび起こったならば。


これこそまた、さきにもっと抽象的に形式と内容との一体性と言いあらわしたものの、いっそう具体的な意味をなすものである。というのは、形式とは、その最も具体的な意義においては、概念において把握する認識としての理性であり、内容とは、倫理的ならびに自然的な現実の実体的な本質だからである。この意味での両者の意識的な同一性が哲学的理念である。(中公クラシックス、p28)

「形式と内容との一体性」というテーゼを理解しましょう。「形式」は「概念において把握する認識としての理性」であると言われています。これは先のαの契機と重ねて把握すればよいでしょう。一切を「私が考えているのだ!」と自己に相関せしめるコギト的な「私」は、世界に対して、そのあらゆる現出が可能になる場所として、「形式」の位置を占めるのです。

もちろん、このことはカントの哲学に対応します。カントは一切の表象に伴いうるのでなければならない「私が考えている」として、そのいわゆる「超越論的統覚」を定義し、それが世界の「形式」の位置を占めることをもって、それが産出する概念の普遍妥当性を確保したのです。だからカントにとって「悟性=超越論的統覚」でなければならなかったのです。

ヘーゲルがカントに付け加えたのは、先に見た通り、「自我における、内在的な否定性を把握すること」でした。つまり、この「超越論的統覚」そのものの生成が「否定性」という要素を含むということです。

そのために、ヘーゲル的な主体は常に世界の実質的「内容」と否定的関係のうちに立っています。ヘーゲル風にいえば、内容と形式の対立、同じことですが、実体と主体との対立です。ヘーゲルの課題は、この両者を和解させることにあります。

その課題解決の前段をなす「法の哲学」の「序文」の戦いは二重のものです。すなわち、それは第一に、主体の否定的な自由によって一切の実体的な倫理を批判的に解体する「悟性」の立場に対する批判であり、また、第二に、そのような悟性の自由の空虚がほとんど必然的に反動として生み出す、実体的なものとの情緒的な、つまり、直接的・自然的な一体性の批判です。

この両面作戦はヘーゲルを、実体的なもののうちにも息づいている理性的な必然性を証示することを通じて、理性的な主体を実体的内容と和解せしめるという戦略へと導きます

しかし、問題は、理性の本質が一切のものを否定し相対化しうるという意識の自己関係性であることにあります。自己関係する存在として一切を自分に関係付け、そうすることで否定し相対化しうる「形式」としての「私」、その「私」がいったいいかにして、何であれ実体的なもの、肯定的で「内容」を持つものと和解しうるのか、ここにヘーゲル哲学の全問題が存しているのです。

第三部「倫理」読解の展望—愛と労働と戦争について

このことの問題性の一端を問うてみるために重要なのは、「法哲学」の枠内では、まずもって第二部「道徳」から第三部「倫理」への移行の部分です。しかし、本稿では、そこではなく、第三部「倫理」の内部でこの問題に触れている点に関して読解の展望を開いておきましょう。

第三部「倫理」においてヘーゲルは主題を三つに分節します。すなわち、近代社会を構成する三つの主要制度、「家族・市民社会・国家」です。この「家族・市民社会・国家」という、いわば「制度的」な三幅対は、「愛・労働・戦争」という「活動」の三幅対に対応しています。

出発点となる「家族」はヘーゲルにとって「愛」の場所です。「愛」はヘーゲル的には「相互承認=相互肯定」ですが、そこで育まれる子供たちは、成長するに従って、家族を後にして市民社会に出ていかなければなりません。

この「市民社会=ブルジョア社会」はすでに完全に市場として考えられています。それは「欲求の体系」であって、ヘーゲルはその原理を「各人にとって自分が全てであり他人は無である」といった形で特徴づけます。すなわち、各人が自己の欲求、つまり自己利益を追求し、他者はそのための手段でしかないということです。

とはいえ、ヘーゲルの観察するところ、人間は自らのみを目的とすることに飽き足らない存在です。ただ自らのみを支えにすること、それは——人間はそれ自体でみると、αの契機、単なる「否定性」、つまり、空転する自己否定なので——ある虚しさの、ある無意義性の経験に帰着するのです。

ここで「市民社会」についての見方の転換が必然的になります。各人は自分がただ自己利益のために市民社会において労働していると思っているのですが、その実、労働によってお金を稼げるのはそれが何らかの意味で他者に役立っている場合のみなのです。

自分が全てで他人は無であるとおもっていたところ、実際には他人の役に立てばこそ、自分の自己利益も追求し得たのです。他人に役に立つという仕方で他者を肯定するからこそ、私は金銭的対価によって他者から肯定されるというわけなのです(「相互承認=相互肯定」)。

このことを自覚させること、それがヘーゲル流の「職業組合」の社会的機能です。この自覚を通じて、競争的な「市民社会=労働」は、同時に、それを「家族=愛」の深さと狭さに比して言えば、浅いが広い「相互承認=相互肯定」の場所、いわば「社会的連帯」の場所ともなるわけなのです。

「愛」が深いが狭いというのは、それが全人格に関わるものであるものの、二者関係に閉じているからであり、「労働」が広いが浅いというのは、それが全社会的な広がりを持つものの、各人の職業的能力にしか関わらないからです。

さて、この労働を媒介とした「社会的連帯」こそ、ヘーゲル的な意味での「愛国心」の実体であり、「国家」の基礎です。国家はこの社会的連帯によって支えられ、またそれを維持するために社会に介入します。

もちろん、ヘーゲルは「失業」や「格差」の存在がこの「社会的連帯」を掘り崩してしまうことを見落としなどしなかったのですが、それを「国家」の介入で何とかできるものだと考えたことは事実です。

ここを否定するところにマルクスの思想の出発点があり、また、ヘーゲルが社会的連帯を支えるための国家の介入の方途として植民地の獲得をあげていることからすれば、レーニンの『帝国主義論』のための道筋もすでに開かれているとはいえるでしょう。

さて、それはそれとして、ここまでで「家族」の「愛」という「肯定」の契機、「市民社会」における「自己中心主義」という「否定」の契機、「職業組合」が手助けする視座の転換による、より高次な次元での、この「否定」を踏まえた上での「肯定」の契機という仕方で、「主体」と「実体」、この文脈では「個人」と「社会」との和解が成し遂げられたようにも見えます。

あるいは、これは最初に述べた意志の内容の普遍化・純化の例ともなっています。市場のなかで個別的な自己利益を追求していた主体が、主体の否定性によって、それには飽き足らなくなり、他者に役立つことと、それによる承認というより普遍的な目的を追求するようになって、それが社会的連帯としての愛国心や国家に通じていく。ここにおいて意志の内容は普遍化されており、形式的な自由は実質的な自由の方に向かって高まっているのです。

あるいは、愛と労働を比べても、愛は家族に閉じているのに対して、労働は広く社会に貢献する行為として、より普遍的な目的に奉仕しているのです。

しかるに、興味深いのは、ヘーゲルはかく「愛」と「労働」という二重の「相互承認=相互肯定」の契機で終わりにするのではなく、そこに「戦争」という絶対的「否定」性を対置することであり、この「戦争」こそが「家族」や「市民社会」と区別される「国家」に真に対応する活動である点です。

ヘーゲルによれば、人々が相互承認のぬるま湯——相互承認は「肯定」として、常にあるものに縛り付けられた限定的なものに過ぎない——にひたりきってしまわないように、しばしば「戦争」と「死」の「絶対的否定性」が到来するべきなのであって、ヘーゲル曰く、戦争を否定するのは(思うに総力戦以前だから言えたことではありますが)哲学的ではないのです。

というのは、一切を絶対的に否定する戦争と死の恐怖によってこそ、人間にとって世界内部的なもの、経験的・肯定的なものだけでは十分ではないこと、それは支えにならないこと、最終的には人間は何ものにも支えられてい「無い」、あるいは、「無」によってのみ支えられていること、すなわち、あらゆる有限的なものとは全く別のもの、「絶対的なもの」にだけ支えられていること、そこに人間の本質があることが経験されうるからです。

このこと、「無」としての絶対的なものとの関係は、自己関係する否定性としての人間の本質そのものを形成します。人間が否定的ないし自己否定的な存在であることは、人間がこの世界のうちにあるものではない、決して限定されていないという意味で「絶対的なもの」と関係していることを意味せざるを得ないからです。

これは「死への直面においてこそ、人間は真にコギトにまで縮減される」、そうまとめることもできるでしょう。

それはそれでよいのですが、問題は議論の展開がこのようであるとすれば、結局のところ、いかにして主体と実体との和解が成し遂げられているのかという点にあります。結局、私の否定性を強調しすぎると、それは如何なる実体とも本当には和解できないということになるでしょう。

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