積極財政とは?積極財政派の考え方をわかりやすく入門解説

この記事では積極財政派の基本的な考え方をわかりやすく解説します。

「積極財政論」は新たな「常識」となりつつあり、主に財務省を発信源としてマスメディア等で喧伝されてきた伝統的な考え方、すなわち、政府支出を税収の範囲に収めることを原則とする「財政均衡論」や、それを実現するために常に歳出削減と増税を志向する「緊縮財政(論)」は、時代遅れとなりつつあります。

この流れは、もはや逆転することはないでしょう。2024年の総選挙において、左から右まで全てのイデオロギー区分で積極財政派政党(中道の国民民主党・左派のれいわ新選組・右派の参政党)が躍進したことは、その予兆に他なりませんでした。この流れは、2025年の参院選でも続き、最終的に「責任ある積極財政」を掲げる高市政権の誕生に繋がりました。

とすれば、さっさと古い「常識」を捨てて、新しい「常識」を身につけた方がいいでしょう。この新しい「常識」を日本国民の多数が正しく身につけることだけが、この流れを後退させず、また正しい流路に導くことで、おそらくは日本と日本国民を救うことができるのですから、なおさらそうするべきです。

以下では、経済や財政についての古い「常識」と新しい「常識」を整理して提示することを試みます。

積極グマ

この記事は徹頭徹尾、積極財政派の立場から書かれているけど、積極財政派と緊縮財政派はまだ拮抗していて、社会全体で論争は継続中だよね。高市政権の「責任ある積極財政」はその妥協の表現といっていいはずだ。

暗渠づたいおじさん

うん、この記事は2024年の総選挙の直後に書いた記事のリライト版で、今のところ、そのとき書いたように積極財政への流れは逆転していない。でも、これから緊縮財政派の巻き返しもあるだろうし、僕らとしては、より徹底した積極財政の立場から、緊縮財政派との妥協の表現でもある「責任ある積極財政」の援護射撃をしていきたいところだね。この続きはラストの余談で!

目次

古い「常識」としての財政均衡論・緊縮財政論

まずは古い「常識」としての財政均衡論・緊縮財政論の主張を振り返っておきましょう。

「財政均衡論」とは、私たち個々の家計がそうであるのと同様に、政府も支出と収入を均衡させる(一致させる)べきであるという考え方です。古い「常識」によれば、政府の収入は税金ですから、これは政府支出を税収の範囲内に収めるべきだということを意味します。

古い「常識」によれば、この均衡が崩れ、支出が税収を上回って財政が赤字になると、政府は借金をする必要があります。国債の発行です。日本では、税収以上の支出、すなわち、「財政赤字」が常態化しており、「国債の発行残高」=「累積の財政赤字」はついに1000兆円を超えてしまっています。

1000兆円超の借金!古い「常識」によれば、これは大変な事態です。借金は返済しなければなりませんし、返済しきれないほどの借金をしてはいけません。1000兆円はもうほとんど返済しきれそうにないでしょう。だから日本政府は、一刻も早く支出を税収以下に切り詰め、「財政黒字」を稼いで借金を返済していくべきです。財政再建・財政健全化まったなしなのです。そのために必要なのは歳出削減と増税です。このように国が「ケチ」になること、それを「緊縮財政」といいます。

さて、事実として、政府はプライマリーバランスの黒字化を目標として掲げてきました。プライマリーバランスの黒字化とは、利払いなど国債関係の出費(いわゆる借金返済)を除いた政府の支出(政策的経費)を税収の範囲内に収めること、すなわち、財政を均衡させることを意味します。それは利払いなどを含む全支出を税収の範囲内に抑える完全な財政均衡への第一歩と位置付けられます。

新しい「常識」としての積極財政論とその基礎

さて、では、新しい「常識」ではどのように考えるのでしょうか。それはまず、「政府の支出を政府の収入である税収の範囲に収めるべき」とする「均衡財政論」を否定します。なぜでしょうか。まずもって、政府にとって「税は財源ではない」からです。まず、この点から始めましょう。

税は財源ではなく、貨幣の流通根拠

「税は財源ではない」というのは、少し考えてみれば簡単な話です。「税が財源である」として、そこで徴収される税自身の根源が究極的にはどこにあるかを考えてみればいいのです。

日本は「円」で税を徴収していますが、円はコメや魚やゴールドのように、田んぼに生えていたり、川を泳いでいたり、地中に埋まっていたりしません。円は、日本国政府が円を通貨の単位として決定し、その円をいくらか発行して初めて存在するようになります。そのあとで初めて円での徴税が可能になります。政府は税を財源として扱うこともできますが、そうして集められる税そのものの根源を問うていけば、円が自然の産物でない以上、究極的には、政府による円の発行、通貨発行に行きつかざるを得ません。そういうわけで、究極的には税は財源ではあり得ず、究極の財源は常に政府の「通貨発行」なのです。

他方、急いで付け加えなければならないのは、税は究極的には財源ではあり得ないにしても、別の欠くべからざる機能があるということです。それは財源としての通貨発行の先に関わる問題です。政府は円という通貨単位を決定し、円を発行します。しかし、人々はなぜ「円」などという「紙切れ」ないし通帳上の「情報」を受け取る必要があるのでしょうか。

この問いへの一つの答えが、政府が国内に住む人々に対して強制力を持って円での税を課し、円を税として受け取るから、というものです。政府が税として円を受け取るからこそ、税を課された人々は円を受け取り、彼らが円を受け取るからこそ、彼らから財やサービスを購入したい人も、その支払いに充てるために円を受け取ります。

こちらの考え方の根拠を深く理解するには、現代のお金の仕組みの全体像の把握が不可欠です。気になる方は、以下の記事をご覧ください。

さて、税には他にもさまざまな機能があるとされていますが、煩瑣になるのでここでは省略して、先に進むことにしましょう。次は現代における「通貨発行」の実際について話をしたいと思います。

「お金の総量」=「借金の総量」、摩訶不思議な「債務貨幣システム」

この「通貨発行」ですが、実は現代においては、大部分、(政府ではなく)民間の銀行が行なっています。その仕組みを「信用創造」といいます。

分かりやすさのために、まずは便宜的に、これを「又貸し」モデルで説明しましょう。私たちが銀行に行って100万円を預金します。すると、私たちの通帳には100万円と記帳され、私たちは自分の資産は現金を持っているときと同じく100万円だと思います。

さて、銀行は、この預金のうちごく僅かな割合を日本銀行に預け、残りは貸し出しに充ててよい、つまり、又貸ししてよいとされています。このごく僅かな割合を法定準備率といいますが、これを仮に(実際よりだいぶ高く)10%とすると、銀行は100万円のうち、10万円を日銀に預けて、残りの90万円を貸し出すことができます。

これを銀行がAさんに貸し出しすると、Aさんの銀行口座には90万円の残高が記帳され、Aさんは、もちろん、最終的には返済しなければならないものとしてですが、自分は90万円を持っていると思います。こうして銀行が融資をすること、言い換えればAさんが借金をすることで、お金が生まれることを「信用創造」といいます。

ここで「お金が生まれる」と言えるのは、このとき私たちの銀行口座の100万円が10万円に書き換えられるなどということはないからです。私は100万円を持っていると思うし、Aさんは90万円を持っていると思っています。だから、ここでお金の総量は190万円に増えており、90万円が新たに生まれています。

Aさんは90万円を持っているものの、90万円の返済義務もあるから、実質は1円も持っていないと感じるだろうと言われるかもしれません。それは確かにそうですが、AさんがBさんから何かを購入して90万円をBさんの銀行口座に送金すれば、Bさんは90万円の返済義務のことなど知らないので、単に90万円を持っていると感じます。だとすれば、やはりお金の総量は190万円に増えたと考えるべきでしょう。

このBさんの銀行口座に送金された90万円の預金を元手に、銀行がCさんに81万円を貸付け…ということを繰り返していくと、最終的なお金の総量は1000万円にまで膨らむことになります。100万円が1000万円に化けたのです。これが「信用創造」の威力ということになります。このお金の膨張の仕組みのために、一斉に皆が預金を現金化しようとすると、銀行はそれに対応できないという「取り付け騒ぎ」も起こりえます。

以上は融資・借金が連鎖していく過程ですが、これが逆回転することもあります。誰も新たに借金をせず、既存の借金の返済ばかりしていくことを考えるなら、借金の連鎖において次々とお金が生み出されていったのとは反対に、次々とお金が消滅していくことになります。これは「信用収縮」と呼ばれています。

こうして、お金の存在は借金の存在に依存し、「お金の総量」=「借金の総量」ということができます。なんとも摩訶不思議なことに、現在の貨幣システムは、借金(債務)によってお金が生み出されるという意味で「債務貨幣システム」なのです。そこではお金の裏に常に借金があります。プラスの裏にはマイナスがあり、総計は常にゼロなのです。

このように借金を通じて生まれる貨幣は「信用貨幣」と呼ばれます。「信用貨幣」は、銀行システムの負債(融資に際して発行される「銀行預金」は、銀行にとっては引き出しに応じなければならないという意味で「負債」です)として生みだされます。

「信用貨幣」という言葉もなかなか難しい言葉です。この完全な理解のためには以下の記事群をご参照ください。

話を戻すと、ここで、いや、「お金の総量」=「借金の総量」ではない、だって最初に現金100万円があったではないかと言われるかもしれません。

これに対しては二点の反論が可能です。

まず一点目として、最初に現金がある「又貸し」モデルよりも、最初の現金なしに融資による通帳記帳によって、お金が「無」から創造されるという考え方のほうが実態に即しているとされています(「万年筆マネー」説)。もちろん、現金引き出しに応じるだけの現金の準備は必要であるにせよ、「無からの創造」の方が金融実務の方面からは妥当な見方だとされているです。

この「無からの創造」は、0から1を生み出すというよりは、むしろ+1(お金)と-1(借金)を同時に生み出し、総計は0のままという独特のものです。それは中性子(0)が陽子(+1)になって電子(ー1)を放出する、原子核のβ崩壊に似ているといえるかもしれません。

この信用創造について詳しくは以下の記事をご参照ください。

次に、反論の二点目として、「又貸し」モデルで最初に現金を要するにしても、この現金が、究極的にどこから来たのかといえば、先に確認した通り、円は畑で穫れたりしないので、政府の通貨発行以外にありえません。ここでのポイントは、現代においては政府もこの「債務貨幣システム」を採用しているという点です。

現代世界において、政府は単に「紙幣を刷って」ばら撒くということはしません。その通貨発行は、「債務貨幣システム」に従って、つねに「債務=借金」という形式において行われます。すなわち、先に記述した銀行融資と本質的には同じ仕方で、政府は国債を銀行に引き受けてもらい、その代わりに銀行口座に預金を得るわけです。ここでも借金を通じてお金が創造されています。

この銀行は、本来は中央銀行であることが筋であり、その場合、国債が中央銀行に引き受けられることによって、民間銀行の信用創造とまったく同様に、お金が創造されます。そのお金が政府支出を通じて民間に流通するのです。現在、国債を中央銀行が直接引き受けることは禁止されていますが、ことの本質に変わりはありません。

この点について詳しくは以下の記事をご覧ください。

この二点を通じて、基本的に現代世界において「お金の総量」=「借金の総量」であることが確認されます。お金が借金の裏面としてのみ生まれる貨幣制度、摩訶不思議な「債務貨幣システム」が、事実として、現代の体制なのです。

財政均衡論・緊縮財政論はどう間違っているのか

ここまでの議論が、「基本的に政府の支出を政府の収入である税収の範囲に収めるべき」とする「均衡財政論」、そして、「政府の支出が税収を上回った結果としての財政赤字、その累積としての国債発行残高を減らすために、歳出削減と増税を行うべき」とする「緊縮財政論」に対し、どのような含意を持つのかを整理しましょう。

まず、家計や企業と同様に「支出を収入(税収)の範囲内に収めるべき」ということに全く根拠がないことがわかります。政府は貨幣を発行する力、通貨発行権があるのだから、支出を収入の範囲内に収める必要はありません。よく用いられる言い回しを使うと、政府は、家計や企業のような「貨幣の利用者」ではなく、「貨幣の発行者」なのであって、自ずとそのお金のやりくりの仕方も家計や企業と異なってきます。「財政均衡論・緊縮財政論」は、この違いを認識せず、政府を家計や企業と同じように考えてしまっています。「家計簿脳」と揶揄される所以です。

続いて、支出が税収を上回った結果としての財政赤字、その累積額としての国債発行残高についてはどう考えるべきでしょうか。それらを減らすために歳出削減と増税を行う「緊縮財政」を実行すべきなのでしょうか。もちろん、そうではありません。

国の借金1000兆円と言われるが、以上で述べたことから分かる通り、政府はそもそも通貨発行権を持っており、その通貨発行が国債という借金の形態を取るのは、形式上のこと、政府があえて「債務貨幣システム」を採用しているからに他なりません。だから、それは本来、借金という形でなくてもよく、本質的には、返さなければならないものという意味での借金ではありません。やろうと思えば、政府は国債と同じだけの通貨を発行して、借金を全て返済することができるからです。「政府債務残高は通貨の発行記録に過ぎない」と言われる所以です。

そして、現代世界が「債務貨幣システム」を採用している、つまり、借金を通じてお金が生まれ、お金の裏には常に借金がある、借金が返済されるとお金が消滅するということを踏まえることで、無条件の「緊縮財政論」の荒唐無稽さがより一層はっきりしてきます。すなわち、政府債務1000兆円の返済は、1000兆円のお金が民間から消失することを意味するのです。そして、私たちがお金と思っているものの総量であるマネーストックはだいたい1000兆円から1500兆円なので、緊縮財政による政府債務の完済は、いささか大袈裟にいえば、「円」の完全消滅を意味しかねないのです。

もちろん、政府が債務を減らす分、民間が債務を増やせばいいわけですが、政府が債務を減らせば、貨幣量が減少してデフレ的になるわけで、債務の実質負担が増していくデフレのなかで、わざわざ民間が債務を増やすことはあり得ないでしょう。さらに、政府の莫大な債務と民間の莫大な債務、どちらが社会を不安定化するかといえば、それは間違いなく後者なのです。民間は貨幣を発行できず、借金をきっちり返す必要があるからです。

以上から、財政均衡論・緊縮財政論の無効性は明らかでしょう。

このように「均衡財政論」が無意味であり、無条件な「緊縮財政論」が荒唐無稽であるとすれば、政府の財政運営は指針を失います。それは何を目標とし、どんな規律でもって自らを律すればよいのでしょうか。

新しい財政規律としてのインフレ率

新しい財政規律を考える上での出発点は、そのときどきの財やサービスの生産量に対して適切な貨幣の支出量が存在するということです。生産される財やサービスの量に対して、それを買おうとする貨幣による支出が多過ぎれば、財やサービスの供給に対して需要が超過し、物価が上昇します。つまり、インフレが生じます。他方、貨幣による支出、供給に対して需要が過小となり、物価は下がります。つまり、デフレが生じます。

そして一般に、経済にとっては年率2~4%前後の物価の緩やかな上昇が望ましいとされます。これには、この程度のインフレ率のときに労働を含む財やサービスの需給が適度に逼迫して失業率が低い水準に落ち着くことに加え、ある程度のインフレ率がないと基本の金利水準が低く、すぐにゼロ金利制約によって金利の引き下げによる景気浮揚政策が機能不全に陥ること、また物価が上昇し貨幣価値が目減りしていくことが、債務負担を軽くし、また貨幣を財やサービスに替える行為である消費や投資を促進するという形で、前向きな経済活動への後押しになること、といった事情があります。

このことを逆転させると、デフレでは需要不足によって失業率が高止まりし、ゼロ金利制約により金融緩和の景気浮揚効果がすぐに失われ、貨幣価値の上昇により、債務負担が徐々に重くなり、将来の値下げを見込んで消費や投資も抑制されることが分かります。前向きな経済活動が失われるのです。

なかでも最悪なのは、デフレは貨幣価値の上昇、すなわち、商品価格の下落であり、資本主義社会では人間も労働力という商品の一種ですから、デフレ下では人間そのものの価値が下がることです。デフレは人間の価値が貨幣の価値に従属する拝金主義社会を生み出します。デフレ放置やデフレ誘導は、人間の尊厳に対する犯罪的行為と言わざるを得ません。

そもそも、せいぜいが「紙切れ」か「(銀行システム上の)電子データ」にすぎない貨幣自身には何の価値もなく、その唯一の価値は、それが回転することで実物的な財やサービスが確実に、そしてより豊かに、生産され流通していくことですから、重要なのは貨幣を回転させることです。その点で貨幣価値が少しづつ目減りすることで、貨幣を手放すこと、貨幣が回転することを促すインフレの方が、経済の状態として本質的に望ましいのです。「金は天下の回りもの」という言葉は事の本質をついています。

現代の「金融資本主義」の問題の一つは、貨幣が回転する先として、実際に財やサービスが生み出され、人に活躍の場が与えられる財・サービス市場ではなく、ただ金融資産がやり取りされて、その価格が上下するだけの金融市場の存在が大きくなってしまっていることです。このためインフレ下でも、財やサービスのやり取りが活発化して景気が上向くのではなく、ただ単に金融資産価格だけが上がって格差が拡大するという可能性が高まってしまっています。

さて、話を戻して、こうして望ましいインフレ率と、それを実現する貨幣の支出量が存在することを認めると、必要なのは家計や企業の借り入れによる民間の「信用創造」と政府の「通貨発行」(国債発行による信用創造)でもって、適切な量の支出を確保することです。したがって、現在の政府の支出の量が適切かどうかは、望ましいインフレ率が実現しているかどうかによって測られます。すなわち、インフレ率が財政規律となります。

政府としては、民間の経済活動の状況に合わせて、適切なインフレ率を実現するべく、財政金融政策を遂行していくことになります。その政策手段は、金利操作を行うことで民間の「信用創造」の量に間接的にある程度の影響を与えることができる中央銀行の金融政策と、「通貨発行」による貨幣供給と「税」による貨幣回収によって直接に貨幣の支出と流通量をコントロールする財政政策です。

もちろん、インフレ率を財政規律として具体的にどう機能させるかという実行上の問題は存在します。それが現実的に困難であるという指摘もあります。しかし、現に実行されている財政均衡主義が原理的に間違っていることを考えれば、この新しい財政規律が実行上の問題を抱えているにしても、そのことは、この新しい原理を却下する理由にはならないでしょう。むしろ、この新しい原理を実行するためののより具体的な制度の検討と、その制度の実施を通じての改善を要求するだけです。

原理的に間違っており、これまでほとんど守られたこともなく、逆に本当に守ろうとすると、(第3節で説明するデフレ・レジーム下にある)現代社会においては社会を解体へと向かわせるであろう「財政均衡主義」と、実行上の困難さが想定されるものの原理的には正しい、この新しい原理であれば、後者を選ぶのが当たり前なのです。この実行上の問題を云々することで新しい原理を全体として否定しようとする人には、ではあなたが提案する財政規律はなんなのか?と問い返さなければなりません。

こういうわけで、新しい「常識」においては、政府はインフレ率が2~4%に達しないうちは、金融政策による金融緩和に加えて、積極的に財政赤字を出す「積極財政」を実行しつつ、他方でインフレ率がそれを上回らないように、状況に応じて適切に金融の引締めと財政の緊縮(累進課税等による自動調節を含む)を行うという政策指針が、正当化されることとなります。

2025年現在、総合CPIでみるインフレ率は3%前後で推移しているため、この点ではより詳細な検討が必要となりますが、私の理解によれば、現代は次節で説明する「デフレ・レジーム」のもとにあり、政策の中長期的な基本的な構えは「積極財政」とするべきです。また直近の政策の方向性云々とは関係なく、以上の議論を踏まえておくことは、非本質的な「財源」論などに拘泥せずに、正しい政策議論をするために必要不可欠なことです。

以上の議論は、MMT(現代貨幣理論)と呼ばれる理論の根幹部分を私なりに語り直したものです。それは、1971年のニクソン・ショックで金本位制が完全に終わった後の管理通貨制度に対応した貨幣理論です。その貨幣論の部分は、国家が貨幣を発行し(貨幣国定説・主権貨幣論)、それを流通させるためにこそ税金を課し(租税貨幣論)、そもそも貨幣の本質は信用(債務・借金)にある(信用貨幣論)といったポイントによって構成されます。

MMTは現代の貨幣システムの現実を説明する貨幣論に加えて、「政府はインフレを引き起こさずに完全雇用を達成するべきだ」という政策規範とそれに適うとされる「就業保証プログラム(Job Guarantee Program)」などの具体的な政策提案をも含んでいますが、それは以上の貨幣論から直接に正当化されるとは思われないので、私はそれまで無条件に採用しようとは思っていません。しかし、以上に語り直された貨幣論の部分については、現代社会の根本事実として認めるべきだと考えています。

MMTについて深く知りたい方は以下の二つの記事をご覧ください。

以下、第3節と第4節では、以上の議論に関連する二つの論点を扱います。第3節では現代の先進国が置かれている状況としての「デフレ・レジーム」、第4節では真の財政制約としての「供給能力」について論じます。

「インフレ・レジーム」から「デフレ・レジーム」への転換

論点の一つ目は、先進国は基本的にいわばインフレ・レジームからデフレ・レジームに転換しているということです。

ここでいうインフレ・レジームとは、家計は借金をしてでも欲しいものがあるというほど消費需要が旺盛で、それに対応して企業も借金をしてでも投資したい事業機会を多数抱えており、結果として、民間の貨幣支出が多く、信用創造が活発で貨幣供給量も増えていき、経済が全体として需要超過気味、常にインフレ圧力がかかっている状態です。

第二次大戦後にいま先進国と呼ばれている国々が体験した高度経済成長期は、そのような時代でした。そこでは政府の財政が均衡志向・緊縮志向を持つことは合理性がありました。ここで政府が財政赤字を出しながら支出しても、それは需要超過を激化させてインフレを加速させ、民間が利用したい資源や労働力を実質的に横取りすることになるからです。いわば、実物レベルのクラウディングアウト(民間需要の追い出し)が起きるのです。このような時代には、基礎的なインフラ整備など、需要に対して不足している供給能力全般を支えたり強化したりするような公益性がない限り、政府の支出は抑制的であるべきです。

しかし、1970年から1990年のあたりで、電気・水道・ガス・道路・鉄道といった基本的なインフラ整備がいったん終わり、近代的な住宅や、自動車・家電などの耐久消費財の需要が一巡すると、このインフレ・レジームは終焉を迎えました。それには人口動態の変化も関わっていいます。少子化と高齢化が進行したことも、需要を押し下げ、デフレ・レジームへの転換を引き起こしています。

このデフレ・レジームにおいては、大々的なインフラ整備の需要もないし、消費も飽和しつつあり人々も全体として見れば借金してまで消費をしようとはしません。人々の消費意欲が低ければ、売上の見通しが立たないので、企業も借金をしてまで投資をしようとしません。結果、民間だけで見ると新規の借金に対して借金の返済が優位し、貨幣供給量が減っていきます。少なくともインフレ・レジーム下より、その傾向が強いのです。そして、この過小需要が、物価の下落、貨幣価値の上昇、すなわち、デフレをもたらし、このデフレが、さらに上記の需要過小化のプロセスを加速させます。

このレジーム・チェンジに対応する形で、本来は均衡財政と緊縮財政を止め、2%から4%のインフレ目標までは財政赤字を出す拡張的・積極的財政政策に転換するべきでした。インフレ・レジームでは基本的な姿勢として緊縮財政が正当化されますが、デフレ・レジームでは基本的な姿勢は積極財政となるべきなのです。

そもそも、デフレ期というのは、政府にとってはボーナスステージなのです。デフレとは、さまざまな財やサービスを供給する能力を民間需要が使い尽くしていないことの結果であって、政府はその能力を政府支出によって動員し、さまざまな公共的な目的を実現できたはずなのです。

しかるに、日本は、この30年間、基本的には財政均衡論・緊縮財政論を採用して、このボーナスステージを使いませんでした。少なくとも、使い切りはしませんでした。

ここで使い切らなかったというのは、ある程度までなら使いはしたからです。その結果が、もちろん、1000兆円の国債残高です。基本的な構えとして財政均衡論・緊縮財政論を採用しつつも、日本政府には国家と国民を破滅させないために最低限必要な理性は残されていたのでしょう。

民間の貨幣供給の停滞、民間の経済活動の停滞は、税収の減少を通じて必然的に財政に赤字化の圧力を加えます。この30年間、日本政府はこの赤字化圧力の中で無理に財政を黒字化するところまでは行かず、いくらかは赤字が出るにまかせたことで、致命的な「信用収縮」、「円」の消滅、破滅的なデフレは一応は防がれたのです。

しかし、これも全て財政均衡論・緊縮財政論のもとで行われたため、そこでの財政赤字はあくまでも渋々であり、ギリギリ必要な最低限度でした。その証拠に、この30年間、日本では景気が少し上向くと、積極的な財政出動をやめ、消費税を増税するなどの緊縮財政を繰り返してきたのです。そんな態度では、デフレ・レジームの反転することはできません。日本は30年間、デフレ・レジームの支配下にあったということができるでしょう。

その結果が、GDPの停滞ゆえの、債務残高対GDP比の高騰であり、それが世界一であるという現状です。そして、この数字でもって更なる緊縮財政が正当化されていくわけですから、もう目も当てられないというのが正直なところです。

次節では、この30年間のデフレ・レジーム下で何が起きてきたのかを考えます。

デフレ・レジーム論を深く知りたい方は、以下の二つの記事をご覧ください。小野理論とクー理論は、それぞれ現代経済における「消費の不足」と「投資の不足」を論じています。この二つを合わせると「需要不足の経済学」、つまり、デフレ・レジームの理論を構成することができるでしょう。

真の財政制約としての「供給能力」

デフレとは、物価の下落、貨幣価値の上昇です。物価が下がるのは、需要が供給に追いついておらず、財やサービスが売れ残るので安売りを強いられるからです。そこでは労働力としての人間も売れ残り、安売りされることになります。

このようなデフレ状況の最大の問題は、供給より需要が少ないと、供給が少ない需要に合わせて収縮し、長期的に、財やサービスを作り出す力である供給能力が毀損されていくことにあります。

日本では、民間経済のデフレ・レジームへの転換に合わせて、政府が積極財政に転換して、政府支出でもって経済全体をインフレ・レジームに反転させることをしませんでした。

それで何が起きたのでしょうか。

たとえば、就職氷河期世代の人々には、就職市場で売れ残り、安定した職業について職業上の能力を向上させることができなかった人もいるでしょう。それは経済全体の供給能力を下げる結果になっています。

たとえば、大学関係の予算は削られ続け、日本の研究能力は下がり続けています。高度な科学技術や教育は、供給能力の基礎です。

たとえば、必要以上の公共事業の削減は、建設業者を倒産に追い込み、そこに蓄積されていた技術を失わせてしまいます。その一度失われた供給能力をもう一度形成するのは大変なことです。供給能力が細っているなかで、高度成長期に作られたインフラの劣化が著しくなっていくと、その適切な改修やリプレースを進めることができるのか、このままでは不安です。インフラこそ、供給能力の基盤なのです。

さらには、たとえば、デフレの中で労働力としての人間の値段である賃金も下がり続け、家族形成が困難になり、少子化が進んでいます。「人間」こそ、あらゆる供給能力の根本なのですが、新しい子供たちが生まれてくることができず、(私はこれは誇張されていると思っていますが)いまや人手不足が云々される世の中になっています。

要するに、日本はデフレ・レジームを放置することで、どんどんと供給能力を細らせてきたのです。

しかるに、この供給能力、実際に物やサービスを作り出す力こそ、最も大事なものなのです。インフレ率こそが唯一にして真の財政規律なのですが、インフレが生じるのは需要が供給を超えたときであり、供給能力が小さければ、少しの需要でインフレが起きてしまいます。とすると、財政制約はインフレ率なのですが、そのインフレ率を規定しているのは供給能力の大きさだということになります。(余剰)供給能力が、いわば真の意味での政府の財源なのです。

あるいは、国際的な通貨の信認についても考えてみるのもいいでしょう。円が日本国内で流通するのは、まず第一には日本に住む人は円で納税しなければならないからです。だから、日本に住む人は円を受け取ります。そうして、日本に住む人が円を受け取るから、日本に住む人が生み出すものを買いたい人も円を受け取ります。こうして通貨の信認が広がっていくのです。

外国の人の場合は、円で税を払う必要はありませんから、円を受け取るとすれば、それは日本に住む人から何かを購入するためです。国際的な円の信認を支えているのは、日本に住む人たちの供給能力に他ならないのです。日本が供給能力を支えるインフラや教育が行き届いた国であり続け、日本に住みたいと思う人が多くいるような住みよく愛される国であり続けることが、究極的には円の信認を支えています(もちろん、そもそも国際的な円の信認などにあまり依存しすぎないように重要なものは可能な限り自給すべきですが)。

ここまで考えてくると、これまでの30年間の日本の愚かしさが明らかになってきます。そもそもお金など政府にとってはどうでもいいものです。政府はお金を作れるからです。しかし、日本政府はこのどうでもいいお金のやりくり、支出と収入の帳尻合わせに汲々として、慢性的なデフレを放置し、それによって最も大切なものである供給能力、実際に財やサービスを作り出す能力が毀損され細っていくことを放置してしまいました。私はまだ円の信認が根本的に問題になっているとは思っていませんが、今後円の信認がもし揺らぐということがあるとすれば、そのこともこの放置の結果でしかありえないでしょう。

この30年の過程で失われた無数の可能性、その大きさは想像を絶するほどです。供給能力が失われるとは、それに関わって働く人のさまざまな活躍の可能性が奪われることであり、そこで供給される財やサービスを消費する人のさまざまな享受の可能性が奪われることです。その無数の可能性の剥奪、そこにこそ「失われた30年」の真の「失われ」があるのです。

「高圧経済」、そして「積極財政はヒューマニズムである」ことについて

以上の認識と整合的な政策体系は様々ありうると思いますが、ここでは近年、よく語られる経済政策である「高圧経済」を紹介しておきましょう。「高圧経済」とは、上記のデフレ下で起きたこと、過小な需要に合わせて供給能力が収縮していくことと、まさに真逆のことを政府の力で引き起こそうという政策です。

デフレ・レジーム下の先進国にあっては、民間経済だけでは借金をしてまで何かを買ったり(消費)、何かを事業を起こしたり(投資)しようとする意欲が足りず、需要過小がデフレを引き起こします。そこでは供給が需要に合わせて収縮していく縮小均衡が生じます。

ここに政府の出番があるのです。そもそも、需要が不足しており、使われていない供給能力、使われていない労働力がある状態は、政府にとってはボーナスステージです。そこで政府が支出を行い、供給能力を少し上回る程度にまで需要を高めます。そうすると大きい需要に追いつこうと設備投資による効率化などの生産性向上が進んで供給能力が高められますし、就業機会が与えられることが労働者にとっては後々の供給能力を高めるような訓練の機会となり、またそのような支出は国家としての供給能力を高めるようなさまざまなインフラ等の整備にも使うこともできます。

このような政策が、需要を高めて供給能力に高い「圧力」をかけることで、供給能力そのものの長期的な増大を図るものだという意味で「高圧経済」と呼ばれます。それは失われた30年とは反対に、労働する人の様々な活躍の可能性と、消費する人の様々な享受の可能性を、政府の力を用いて最大限に開花させようとする政策です。

日本は、この30年間、デフレ・レジームのもとで供給能力を細らせてきました。その最たるものが少子化です。人間の価値が下がる社会で、子供が生まれてくるわけがないのです。私は、このままの緊縮財政路線が続いたら日本は長期的に持続しないし、私たちの生活に必要不可欠なものの供給も怪しくなるような後進国(衰退先進国)化もありえないことではないと思います。

この予感こそが、全国民が古い「常識」をさっさと脱ぎ捨て、新しい「常識」の見地に立って、この縮小均衡を反転させる経済財政政策―要するに積極財政―への転換を図るべきだと、強く思う所以です。

財政均衡主義や緊縮財政は、政府にとって全くどうでもいい収支の帳尻合わせに拘泥して、本当に重要である供給能力、その根本にある「人間」を軽視してきました。それはデフレを生み出し、すべての価値の根源である人間を、それ自体は全く価値のない「貨幣」に従属させる拝金主義的な社会を作り出してきたのです。対する積極財政は、この「貨幣」の本質を「無」だと、より正確に言えば「プラスとマイナスに別れたゼロ」だと喝破することで、その背後にある実物にこそ焦点を当て、そのうちでも何よりも重要なものである「人間」をこそ徹底的に重視します。

いまや誰も覚えていない(?)20世紀フランスの哲学者サルトルの言葉をもじっていえば、この意味で、「積極財政はヒューマニズムである」ということができるでしょう。ここに私たちは「緊縮財政の拝金主義とは反対に」と付け加えても良いでしょう。そして、緊縮財政の拝金主義は、語の厳密な意味において、ニヒリズム(虚無主義)です。なぜかといえば、それが奉じているお金が、その本質において、「無」でしかないからです。

積極グマと暗渠づたいおじさんの余談—2024年から2025年の日本政治について

積極グマ

この記事の元の記事って、2024年の総選挙の直後に書いたんだってね。

暗渠づたいおじさん

うん、もともとは2024年の総選挙での国民民主党などの積極財政派の政党の躍進を受けて書いた記事だよ。僕自身は2019年の参院選、れいわ新選組がはじめて選挙に出たときに、そこで出馬していた大西つねきって人に影響されて、2019年から積極財政派だったんだけど、ようやっと積極財政への流れが本格化してきたかと嬉しくなって書いた記事だね。

一年前から僕の考えも進歩しているから、いまからゼロから書くんだったらこういう構成では書かないかなと思うけど、今回は構成はそのままに、流石にこれは違うよねという個別の箇所をちょくちょく直すに留めたよ。

積極グマ

オリジナルの記事も、積極財政への流れはもはや逆転することはない。この「常識」の転換についていこうという宣言から始まっていたけど、実際、その後も、2025年の参院選で積極財政派の躍進が目立ち、その流れで「責任ある積極財政」を掲げる高市政権が誕生したね。この「責任ある積極財政」については、どう思う?

暗渠づたいおじさん

まあ、僕らのようなMMTの影響を受けた積極財政派からすれば、「責任ある積極財政」という表現は、緊縮財政派と妥協したというか、少なくとも、そちらに配慮したものであることは明らかで、手放しで肯定できるものではないよね。

実際、経済ジャーナリスト軽部謙介のアベノミクス三部作の最終作『アフター・アベノミクス』の186頁から187頁には、「責任ある積極財政を推進する議員連盟」の設立に関して、以下のような記述がある。

[2022年2月9日の設立総会で]共同代表の衆議院議員、中村裕之は「議員歴十年以下の若手で財政を勉強しようと企画した。積極財政派の講師にいろいろと教えを請いたい」と狙いを説明したが、財務省は「西田[財政政策検討]本部長の運営姿勢に対する困惑がある」という情報を入手した。
 西田は「一匹狼」的な議員だ。強面で押しも強い保守派の議員だったが、財政をめぐってはMMT理論を支持していた。そんな西田の姿勢には「あまりにMMT過ぎる」という声も起こってきた。要するに西田の運営を面白く思わない若手議員が自分たちで勉強の場を立ち上げたというわけだ。

僕らのようなMMTに影響を受けた積極財政派からすれば、自民党の議員で財政面でほぼ同意できるのは、西田昌司と、2021年に自民党を離れて今は参政党にいる安藤裕の二枚看板が鉄板で、城内実がそれに続くという印象があると思う。

識者だったら、根っからの積極財政派でMMTの紹介者でもある中野剛志や藤井聡にはほぼ同意できるけど、もともと金融政策重視のリフレ派で、徐々に財政政策にシフトしたような人たち、本田悦朗や高橋洋一となると、やはり意見の相違が大きくなってくるよね。

こういう人たちは、「政府の負債ばかりではなく、バランスシートの資産側も見ろ」みたいな議論をよくしている印象で、家計簿脳よりは断然マシだけれど、それでも結局は国家を企業のように捉えていて、思考がミクロ的であることに変わりないように感じるね。

あとはドーマー条件とか、政府(純)債務残高のGDP比とか、もちろん、プライマリーバランス黒字化よりは断然マシだけど、MMT派の機能的財政論をとってる立場からすると、それがどうして大事なんだろうとは思ってしまうよね。「経済あっての財政」とかね。機能的財政論からしたら「経済しかないよ」って話で。

なんか話が横滑りしている気がするけど、言いたかったのは高市政権の「責任ある積極財政」っていうのは、基本線として、MMT系より、このリフレ転向派に近いように感じるってこと。高市早苗首相自身もそうじゃないかなという印象があるね。

だから、まあ手放しでの肯定はできないけれど、逆に彼らが緊縮派との対立で前面に立って、緊縮派と対峙しながら少しづつでも物事を積極財政の方へ動かしてくれていっているとも言えるわけだから、僕らとしては、微力ながら、もっと徹底的な積極財政の立場から援護射撃をしていく、そういうスタンスでさしあたりはいいんじゃないかと思っているよ。

積極グマ

そうだね。「責任ある積極財政」でも緊縮財政よりは断然マシだし、それに加えて、経済財政政策担当大臣に城内実、日本成長戦略会議に会田卓司という配置は、その先に向けて、純粋に期待できる部分でもあるしね

暗渠づたいおじさん

経済財政担当大臣といえば、これまでも積極派と緊縮派の戦場の最たるものだった「骨太の方針」の担当大臣だものね。骨太の方針2022の時の攻防なんかは記憶に新しいよね。あのときは確か、積極派の安倍・西田と緊縮派の麻生・額賀で話し合ったあって決着させた後にに、333億円のキャップ問題、2021方針への参照の追加、「重要な政策の選択肢を狭めてはならない」の追加など激しい攻防があったんだよね。その後、安倍元首相が殺されちゃって、自民党内で緊縮派の巻き返しが強まったのが、ここ3年。その間、積極財政派は自民党の外から民意に浸透していって、この3年の反動をさらに巻き戻したのが高市政権が誕生したいまという感じだよね。何はともあれ、まずは来年の骨太の方針に注目だね。

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