積極財政は構造改革を不要とするか?維新より国民民主を選ぶべき理由

今回の記事では、「積極財政」と「身を切る改革」「構造改革」の関係を考えてみます。前者は国民民主党、後者は日本維新の会と関係が強い言葉だと思います。

この記事の具体的な問いは「積極財政」は「身を切る改革」を不要とするのかどうかです。私の回答は「否」です。本記事では、この理由を説明しつつ、それでもいまは「積極財政」を優先すべきだと主張します。

時間がない方は以下の簡単要約版をご覧ください。

目次

この記事の概要

第2節では、「積極財政」と「身を切る改革」という言葉の今の日本の政治状況における位置付けを考えます。それは「減税」志向という共通点を持っているものの、その「減税」の意味づけは大きく異なることを確認します。

そのうえで、第3節では、「積極財政」が「身を切る改革」を必ずしも不要とするわけではない三つの理由を追求します。それは①インフレ率という財政制約、②労働力の有限性、③分配の公平性の維持の必要性です。

その上で第4節では、三つの理由が重要な意味を持つのは供給能力がフル稼働(完全雇用)になった場合のみなので、「積極財政」による好景気あってこその「身を切る改革」だという順序は譲れないことを説明します。結論として、日本維新の会と国民民主党なら、後者を支持するべきことを主張します。

日本政治における「積極財政」と「身を切る改革」―同じ「減税」でも背景は違う

「積極財政」といえば、右から左への順序でいうと参政党・高市自民党・国民民主党・れいわ新選組が主張しています。他方の「身を切る改革」といえば日本維新の会の代表的な主張です。

さて、「積極財政」の基本的な主張は、政府は「財政赤字」「国の借金」を過度に問題視することなく、景気刺激や産業政策、あるいは生活支援や社会保障などに積極的に財政出動を行うべきだというものです。

他方の「身を切る改革」は、政治や行政の無駄をカットすることで、お金を節約しようという主張です。積極財政とは逆に政府支出の削減を志向するものです。

この違いのため、国民民主などの積極財政派の政党と維新は「減税」で一致しているものの、その目指すところは大きく異なっています。

維新の「減税」は「身を切る改革」による政府支出の無駄の削減とセットでしょう。「身を切る改革」で出費を削ったから、収入減となる「減税」ができるのですし、「減税」は「身を切る改革」を強制する推進力となりうると考えているはずです。

他方の国民民主などの積極財政派であれば、減税と政府支出の削減はセットではないし、セットにしてはいけません。もちろん、代替財源も論外です。減税は一つには景気対策の手段であり、民間のお金を増やして景気を活性化させることが目的です。だとすると、減税と同じ分だけ政府支出を減らしてしまったり、代替財源などといって増税をしたりしたら、意味がありません。そうすると民間に流れるお金の総量は増えないからです。

さて、こう考えると疑問が湧いてきます。それなら「積極財政」は「身を切る改革」を不要とするのでしょうか?実際、積極財政派は、公務員や保育士や介護士の給与など国が決定できる給与の増額を主張することが多いし、「身を切る改革」を含む「新自由主義」「構造改革」などの政策パッケージを目の敵にすることも多いのです。

私は「積極財政」が「身を切る改革」を一概に不要とするものではないという立場です。次節ではこう考える理由を述べていきましょう。

「積極財政」が「身を切る改革」を不要にしない理由―インフレ率・労働力の有限性・分配の公正性

さて、最近の積極財政派は、政府が企業や家計のように税収の範囲内で支出をしようとやりくりをする「均衡財政」に固執することは無意味で、政府の財政制約は、政府がお金をあまりに大量に支出しすぎた結果として生じる高インフレ以外にはありえないと考えています。

政府は、財政赤字や政府財務残高の大きさなどのいわゆる財政指標は気にせず、ただインフレ率だけに注意を払って、完全雇用やインフレターゲットや成長戦略や経済安保など目標とする経済の状態を実現するためにやるべきことはなんでもするべきなのです。

財政は望ましい経済状況を実現する「機能」の点からのみ評価されるべきだという「機能的財政」の方が「均衡財政」よりも適切な考え方なのです。「経済あっての財政」ではなく、「経済・経済・経済」なのです。

この観点から、政府はほどほどの好景気状態を維持するような財政出動の規模を確保するべきです。それは間違いがありません。

しかし、他方で、このことは政府が「身を切る改革」で無駄の削減をしなくて良いということは意味しません。なぜでしょうか。理由は三つあります。

第一の理由は、やはり高インフレを引き起こしてはならないという点で、財政出動の総量は限定されていることです。であれば、無駄は削減するに越したことはない。それをより有意義な支出に回すべきです。

第二の理由は、労働力は有限である以上、その無駄遣いは望ましくないことです。これはインフレという制約が、究極的には供給能力の制約であるという点に関わります。インフレが生じるのは、実際に供給される財やサービスに対して、実際に支出されるお金の量が多すぎる場合です。

だから、積極財政派としては、支出されるお金の総量をコントロールすることに加えて、実際に供給される財やサービスが増えていくようにすること、供給能力の強化を考えていかなければいけません。

そもそも、結局は供給される財やサービスの総量が、国民が「経済的に」享受できる豊かさの総量に他なりません(もちろん、世界には「非経済的な」享受もあります)。このことは先に述べた「有意義な支出」の有意義性を考える指針ともなります。

こういうわけなので、もし「働かない公務員」「無意味な仕事をする政治家」「公金にたかって楽をする企業・団体」のような存在がいるとしたら、そこに政府がお金を支払うことは労働力の無駄遣いに当たる。

というのも、そういった人たちに対する仕事に見合わないお金の流れが断ち切られれば、その人たちは他の場所でしっかりと働いて有意義な財やサービスを供給できる可能性があるからです。

この意味で「身を切る改革」は、その改革が本当に無駄なものを削減している限りで、相対的に意義の乏しい仕事に従事する人を減らし、相対的に有意義な財やサービスを生み出しうる労働力の余剰を生み出すという意義があります。

第三の理由は、分配の公正性が維持されることが重要だということです。先にも確認したように、実際に供給される財やサービスは有限です。誰かに政府がお金を支給するということは、その人にお金という、財やサービスへのアクセス権を与えるということで、それはその分、他の人からそれらへのアクセス権に干渉するということを意味します。というのも、このアクセス権同士が財やサービスへのアクセスを巡って争いあって生じるのがインフレだからです。

そういうわけで、誰にどれくらいお金を渡すかという「分配」は無視できない問題で、有意義な仕事を行なっている人にその働きに応じてお金を渡すのが理想であることは論を俟たないでしょう。

仕事の有意義さに報酬の量が対応することという意味での「公正」さが維持されることは、それ自体重要であるだけではなく、有意義な仕事をしようという動機づけを支える役割を果たします。

逆に言えば、この公正さが失われ、有意義な仕事をしていない人に報酬が支払われることは、有意義な仕事をしようという動機づけを失わせ、社会全体の供給能力を損なうことにつながりかねないのです。これは積極財政派の良しとしないところです。

以上の三つが、積極財政だからといって「身を切る改革」が不要というわけではない理由す。お客さんに評価され、お金を払ってもらって、儲けることができるか、そういう根本的な制約が無駄や怠慢の削減を強いる民間企業と異なり、この制約が欠けている政府には、それなりに「身を切る改革」を意識しなければならない理由があるのです。

結論―なぜ維新よりも国民民主を支持しなければならないか

ただ、急いで付け加えなければならないのは、この三つの理由が重要になるのは、供給能力に対する需要の不足がなくなり、全ての働くことができ働く意志がある人たちが働いている状態としての「完全雇用」が達成されている場合、つまり供給能力がフル稼働している場合のみだということです。

というのも、そうでなければインフレではなくデフレ圧力が生じており、財政出動の総量制約を心配する必要はありません。また労働力が余っているので「労働力を無駄にしてはいけない!」という状況にはなっていません。さらに、供給能力に余裕があるので、誰かに財やサービスのアクセス権を与えることが、他の人のそれを奪うことにはならない可能性が高いのです。

そういうわけで、直近の日本の状況ではそこまで気にする必要はないのですが、今後、日本で積極財政が実現されるとすれば、いずれ「身を切る改革」はそれなりの重要性を持つ課題となってくるでしょう。

しかし、あくまで順番は「積極財政」からの「身を切る改革」で、この順序は揺らがないし、譲れません。

それは先に述べた通り、「積極財政」で供給能力のフル稼働が達成されてはじめて、「身を切る改革」が意味のあるものになるからであることに加え、そもそも「積極財政」で好景気を達成しない限り、「身を切る改革」はおそらく政治的社会的に不可能だからでもあります。

人が「既得権益」に特にしがみつくのは、一つには「既得権益」を失ったときに身をおくべき次の居場所がない場合でしょう。デフレや不景気とは、モノが余り、人が余り、だから人の居場所がない状態です。デフレは「身を切る改革」にとって最悪の状況で、そこで無理に身を切っても政府支出の減少と失業に対する人々の不安によりデフレを悪化させることにしかなりません。これが結局、失われた30年において、ずっと言われながらも「構造改革」「身を切る改革」が遅々として進まなかった理由に他なりません。

逆に好景気ならば、人手不足で引く手数多ですから、「身を切る改革」もさほどの抵抗を受けないし、そもそもそんなことをしなくても、有意義で報酬の高い仕事への労働力移動が生じるでしょう。好景気のもとでは「身を切る改革」や「構造改革」は半ば勝手に達成されるのです。

もちろん、好景気下でも職業を変えることには独特の痛みや苦労が伴いえます。それでもデフレ下よりは何倍もマシであることは間違いありません。

以上のような次第ですから、「身を切る改革」を看板としている維新は、予算制約の厳しい地方政治出身だから仕方がないとはいえ、まだ国政を論じ国政に携わるのに必要なマクロ経済的な視座を持ち得ていないことには、私としても異論はありません。

これがイデオロギー的にあまり右でも左でもない、いわゆる第三極政党では、「身を切る改革」の維新ではなく、「積極財政」を謳っている国民民主が伸びなければならない所以ですし、また実際に伸びている所以でもあるのでしょう。

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