【要約的書評】横山昭雄『真説 経済・金融の仕組み』—MMTへの過渡期の一冊

今回の記事は、日銀出身の経済学者、横山昭雄氏の2015年の本『真説 経済・金融の仕組み』の書評です。

この本を一言でいえば、「片目だけ開いて、まだ寝ている本」です。つまり、半ば目覚めかかってはいるものの、まだ寝ている、そういう過渡期の一冊なのです。

これは、MMT派貨幣論を受け入れている私の立場からはそう見えるということです。

本書は、主流の経済学の金融認識の誤りを完全に自覚し徹底批判しているものの、その財政認識の誤りは踏襲してしまい、結果として、結局は主流の経済学と同じ構造改革論へなだれ込んでいきます。本書は、金融については正しいが、財政については間違っており、結局、主流派と同じ結論に達してしまっているのです。

私はMMT派の貨幣論、その金融や財政の認識が遠からず経済学の主流になるだろうと思っています。その立場からは、このような内容を持つ本書は既存の主流派経済学からMMTへの移行の過渡期の書物だと位置付けられるのです。

以下、このことを少し詳しくみていきましょう。

目次

本書の開かれた目:金融認識における信用貨幣論の徹底

MMT派貨幣論は、国家こそが貨幣の究極的な供給主体だとする「主権貨幣論」と、貨幣の本質を「譲渡可能になった借用証書(=支払い約束・債務)」にみる「信用貨幣論」とをある仕方で節合したものです。

信用貨幣論は、貨幣の本質を借用証書に見る延長線上で、現代においては銀行から誰かが借金をする際に銀行の「支払い約束・債務」という形で発行される「銀行預金」こそが貨幣の中心を占めており、したがって現代の貨幣は銀行融資により「信用創造」という形で発行されるのだと認識します。

さて、本書の優れた点は、著者がこの「信用貨幣論」を徹底している点です。著者はまず「信用創造」を、何かモノ的な現金を出発点に据える又貸し説ではない、いわゆる万年筆マネー説の仕方で説明します。お金はモノではなく、いわば銀行貸出において創造される情報なのです。

そして、そこからさらに「日銀がマネタリーベースを供給すると、それの貨幣乗数倍マネーストックが増える」というような間違った「外生的貨幣供給理論」を徹底批判します。そして、企業や家計の資金需要に応えて銀行が融資を行うことで貨幣が発行されマネーストックが増加し、それに応じて金利を維持しようとする日銀の操作によって受動的にマネタリーベースが増えるのだという「内生的貨幣供給理論」を説得的に提示するのです。このあたりは今後も参考にしたい記述に溢れています。

本書の閉じられた目:財政認識における無根拠な財政危機論への転落

他方、本書の残念な点は、金融に関しては誰よりもはっきりと目覚めている著者が、まだ財政に関しては眠っており、ポスト金本位制の現代においては「主権貨幣論」が妥当していることに気づいていない点です。

著者がはっきり分かっているように、現代の金融システムでは借金でしかお金が生まれません。だったら、もし民間が借金をしないなら、お金が存在するためには政府が借金をするしかないというのは明らかでしょう。そして、政府は究極的には通貨発行権を持っている以上、政府の借金にはそれ自体には何の心配もないのです。つまり、政府の借金は必要であり、そこにはそれ自体では何の問題もありません。

これにまだ気づいていない筆者は、「内生的貨幣供給理論」でもってアベノミクスの第一の矢である「大胆な金融緩和」の根拠の薄弱さを首尾よく批判したあと、第二の矢である「機動的な財政出動」については通俗的な財政危機論から尻込みしてしまい、結果、第三の矢の「民間投資を喚起する成長戦略」に駆け込んでいきます。構造改革による生産性向上だけが、日本の状況を改善できる抜本的な対策だという量産型の構造改革主義者になってしまうのです。

矛盾する現状分析と処方箋:「低圧経済」に「構造改革」?

注目すべきことは、おそらくはこの財政という盲点のために、著者は自分自身の日本経済の現状分析においても矛盾に陥っていくことです。著者は現代日本の現状を低圧経済と呼びます。この用語を著者は高度経済成長期のような高圧経済と対比する形で導入するのですが、この高圧環境を特徴づけるのは著者自身がいうように「需要超過」(p215)であるのに対して、なぜか著者は「低圧経済」を主に潜在成長率の低下という(需要側ではなく)供給側の要因で定義づけているのです。

これは明らかにおかしいでしょう。「高圧経済」が「需要超過」なのであれば、「低圧経済」は「需要過小」であり、その対策はまずは政府が財政出動によって需要を作り出すことであるはずです。おそらく、著者はこの財政出動を上記の誤った財政認識により嫌ったがゆえに、「低圧経済」という自らが使った言葉を正しく「需要過小」の意味で使うことができず、それを潜在成長率の低下という供給要因に横滑りさせ、それに構造改革的な解決策を充てることにしたのではないでしょうか。つまり、自分が採用できる解決策(×財政政策、○構造改革)に合わせて、問題認識を変えてしまった(×需要不足、○供給力不足)のではないでしょうか。

ここで、もう一つ著者に欠けているのが、強い需要こそが構造改革的なものも含む供給能力向上の推進力となるという視点、近年の「高圧経済論」「モダン・サプライサイド・エコノミクス」などで強調されている視点です。これが欠けているがゆえにこそ、著者はケインズ的な財政出動をその場しのぎの弥縫策として批判して、それではなくて根本的な構造改革が必要だだという話に持っていってしまいます。

しかし、需要が強いからこそ、生産量を増やすための投資が行われますし、また人手不足であればこそ、自動化を進めようといった生産性向上のための投資も起きえます。そして、投資こそが生産性を向上させる中心的要因です。人間がめちゃくちゃスピーディにレジ打ちをするとしたって限界がある。セルフレジを導入すれば、一人の人間が処理できる会計の量が爆発的に増えます。労働者個人個人の工夫や頑張りは重要であるにしても、生産性向上という観点からは、やはり機械やソフトウェアの投資のほうが重要です。

また、需要が旺盛で人手不足、どこでも引くて数多という時にこそ、斜陽産業に見切りをつけて成長産業に飛び込もうといった労働力移動も起きやすいのです。需要過小を放置したままの構造改革は、「既得権益にしがみかなければ立ち行かない」という人々の不安が強すぎて実行不可能か、それでも実行されるなら人々をますます不安にさせて財布の紐を固くして需要不足のデフレ不況を強化するか、そのどちらかの帰結しか生まないのです。これが失われた30年が30年になってしまった原因です。

2010年代のアメリカの長期停滞論の論争で話題になったように、逆セイの法則が妥当するのです。すなわち、「供給が需要を生み出す」というセイの法則、需要不足の存在を否定して、常に経済学を構造改革(供給能力の強化)へと偏らせるセイの法則は誤っているわけですが、そのある意味での逆、「需要の不足が供給の不足(少なくとも供給能力の向上の停滞)を生み出す」は正しいようなのです。

おわりに:批判的な内省の重要性

そういうわけで、本書は過渡期的な本で、ある意味で2015年という時代を象徴しているような本です。すなわち、金融政策の効果の低さには気づかれつつあるものの、まだ財政政策への懸念が強かった時代の本です。その時代の流れと平仄を合わせるように、著者の金融認識は徹底的に正しいものの、その財政認識はむしろ旧来型で通俗的です。

金融に関しては透徹した知性を見せる著者が、財政に関しては通俗的言説に毒されており、結果として本全体が矛盾に巻き込まれている様を見るとき、2020年代という時代の力のおかげで、こうやって10年前の本よりは何かが見えているつもりの私たももまた他の何かについては盲目なのではないか、何か旧来の常識に囚われているのではないか、そういった批判的な内省の大切さが身に染みます。それが本書の最大の教訓かもしれません。

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