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近年、「脱成長」ということがしばしば語られます。これについて私たちはどう考えるべきでしょうか。
この記事では、この課題への準備として、原理的な経済学的思考を遂行し、そもそも経済成長とは何かを根本的に明らかにします。
そのことを通じて、脱成長論の意義と限界が確定されるでしょう。
経済成長とは何か?—衰退経済・定常(脱成長)経済・成長経済
さて、そもそも経済成長とは何でしょうか?
ジャガイモ経済モデルを導入する
このことを考えるために、経済成長の原モデルとして、ジャガイモしかない、いわばジャガイモ経済を考えましょう。
一つのジャガイモを種芋として埋めると、そこから五個のジャガイモが収穫できるとしましょう。
いま手持ちのジャガイモが三個あるとして、これを埋めると十五個のジャガイモが収穫できます。
この十五個をどうしましょうか。これが経済学のいわゆる消費と貯蓄の選択の問題です。
私はその十五個すべてを消費してしまうこともできます。それで私はお腹いっぱいになれますが、これが破滅的な選択であることは明らかでしょう。来年には埋めるジャガイモがなく、私は飢え死にするしかなくなるのです。
あるいは、私は十二個を消費することもできます。所得のうちで消費しなかった残りが貯蓄ですから、残りの三個が貯蓄です。この貯蓄ジャガイモは、そのまま投資であり、来年には生産を可能にする実物資本となって、また十五個のジャガイモを生み出すでしょう。これをずっと続けていくと毎年十五個のジャガイモを収穫できます。
ここで投資とは、生産を可能にするモノ(生産手段)を調達する行為のことです。実物資本は生産手段の別名で、生産を可能にするモノ自身を意味します。
あるいはまた、私は九個だけ消費することもできます。この場合は残り六個が貯蓄であり、来年に向けての投資(実物資本の確保)であって、来年には三十個のジャガイモが収穫できます。そうしたら、二十一個を消費しても、まだ九個も残り、さらに翌年には四十五個も収穫できるわけです。
ジャガイモ経済から経済成長の三類型へ—衰退経済・定常経済・成長経済
さて、これらが経済成長の原モデルであるということの意味は、もはや大体明らかでしょう。
最初の十五個全部消費してしまうのが、生産の基礎となるもの(「種芋=実物資本」としてのジャガイモ)を食い潰して生産力を失い衰退していく衰退経済のモデルです。
二番目の常に三個を貯蓄するのが、ずっと同じ量の生産を繰り返していく定常型経済・脱成長型経済のモデルです。
そして、最後の「貯蓄=投資=実物資本」を増やしていくのが、どんどんと生産量が増していく成長経済のモデルです。
もちろん、現代経済はジャガイモ経済ほど単純ではありませんが、本質は変わりません。
衰退経済のあり方を考えてみましょう。既存の生産力(実物資本)をすべて消費者向けの消費財の生産に使ってしまえば、その生産力を支えているインフラや生産設備等(実物資本)は劣化していくままとなり、いずれ消費財の生産すらままならなくなるでしょう。
定常型・脱成長型の経済では、消費財向けの生産が中心となり、インフラや生産設備等、企業や国家の投資向けの資本財の生産は、劣化した分を補う程度となるでしょう。先の例でずっとジャガイモが三個だったように、同程度の実物資本(生産のために使われるインフラや設備)が維持されるわけです。
成長する経済では、消費財向けの生産は相対的に抑制され、インフラや生産設備等、企業や国家の投資に対応するための資本財の生産に重点が置かれます。この投資によって、将来的により多くの生産が可能になります。ここでは、いますぐに消費財を求めるよりも、消費をいっとき我慢して将来のより多くの消費を可能にするほうが、社会全体として望ましいと考えられているのです。
貯蓄からみる経済成長
これを貯蓄という言葉から語り直してみましょう。問題は人々が自分たちで作り出したもののうち、どれだけを即座に消費したいと思うか、それともそうしないで貯蓄するかです。
貯蓄ゼロで全部消費すると衰退社会となります。消費を重視して貯蓄は少なめにし、そうすることで投資を生産設備等の資本を維持できる程度に抑えるなら定常・脱成長社会になります。消費を控えて貯蓄を多めにし、それで余った生産能力を生産設備等の実物資本を拡大するための投資に使えば、どんどんと生産量が増える成長経済となります。
ポイントは、結局、消費を我慢して貯蓄した分しか、生産力を拡張する投資には使えないということです。私たちが自分たちで作ったものを全部消費しないからこそ、投資のための生産余力が残るわけです。
ジャガイモ経済ならぬ、現代経済特有の構図を明確化する
ジャガイモ経済と現代経済の違いを考えてみましょう。ジャガイモ社会では、主体がたった一人しかおらず、生産物がジャガイモという非常に単純なものだったために、ジャガイモを消費しないで残す貯蓄が、そのまま次の生産のための投資であり、生産を可能にする実物資本でした。
現代経済では、企業がさまざまなものの生産を行い、私たちは企業で労働者として働くとともに、消費者として企業が生産したものを消費します。そして、これらの活動すべてをお金が媒介します。そこに生じる現代経済ならではの構図を明確化していきましょう。
企業がフル稼働して100万円で売れる商品を作るとき、売上を先取りする形ではありますが、原材料の仕入れ、労働者の賃金、企業自体の利益として100万円の所得が生まれています。
単純な想定として、今回はこの100万円が全て賃金として労働者に支払われるとしましょう。
この労働者が100万円の給与から一切貯蓄をせず、全部消費に回すとすると、100万円の商品は売り切れます。このとき貯蓄はなく、また消費財以外を生産する供給余力もありません。これは衰退経済です。直近はいいかもしれませんが、いずれ生産設備が劣化して、いま作れる100万円分の消費財も作れなくなっていきます。
続いて、この労働者が20万円を貯蓄して80万円を消費するとしましょう。すると、消費者向けの商品(消費財)は80万円分しか要りませんから、100万円分の生産能力のうち20万円分は企業・国家向けの、将来の生産・供給に役立つ商品、生産手段という意味で実物資本となる商品、つまり、資本財ないし投資向け商品を生産する余力があるということになります。
すなわち、生産能力100万円分のうち、80万円分は食料や生活雑貨や家電などの消費財・耐久消費財に充てられますが、20万円分は道路建設や工場に設置される製造機械等の生産に充てることができるわけです。
今回は仮に、この20万円分が企業がその生産設備(実物資本)を維持するのにちょうど必要な生産量だとしましょう。これを企業が購入することが投資です。古典的な経済学では、ここで企業は労働者の貯蓄20万円を銀行を通じて借り入れて投資を行うとされます。
もちろん、これは銀行から誰かが借金をするときにお金が創造されるという「信用創造」の現実を無視した議論ですが、そこに含まれている真理は、労働者の貯蓄と同じ分だけ企業の投資がなければ、生産物の売れ残りが生じてしまうということ、そして逆にインフレを引き起こすべきでないとすれば、労働者の貯蓄の分だけしか企業は投資をするべきではないということです。
所得のうち消費されず貯蓄に回る分は、消費財によって使い尽くされない生産能力の余剰に対応しているため、売れ残りがないようにするには、その貯蓄の分だけ企業が投資しなければなりません。また逆にその分までであれば、企業が投資をしても、限られた生産能力に対して過剰な購買力が殺到するということにはならないので、特にインフレ的ではないわけです。
この貯蓄の20万円分、それが可能にする投資の20万円分が、既存の生産設備(実物資本)を維持するのにぴったりの量であれば、将来にわたってずっと同じだけの生産が可能な定常経済・脱成長経済が実現します。
あるいは、ここで実物資本の劣化分を補修するのに必要な生産が20万円分だとするなら、貯蓄が20万円より大きい場合、実物資本の拡大や洗練が可能です。貯蓄が40万円分あれば、投資40万円分を引き受ける生産能力があるわけですから、現にある実物資本の劣化分を回復するのみならず、それを拡大したり、より洗練したりして、将来的により多くの、あるいはより高度な生産が可能になるわけです。これは成長経済に対応します。
私たちの現在地—「貯蓄=投機」社会としての現代社会
さて、以上を踏まえて、ここで私たちの現在地について考えてみましょう。多くの記事で論じている通り、私は小野理論の影響を受けて、現代社会を「貯蓄=投機」社会として把握しています。
小野理論が語る「貯蓄」の意義の転換
小野理論が明確化しているように、先進国の経済が高度成長期を終え、成長経済から成熟経済に移行するとともに、「貯蓄」の持つ意味が根本的に変化しました。
成長経済において「貯蓄」は正義です。というのも、私たちが所得のうちの幾らかを貯蓄し、そうすることで既存の生産能力の全てを消費のために占有しないことによって、生産能力(実物資本)を拡張するための投資に対応する生産余力が残され、将来により多くの生産と消費が可能になるからです。モノやサービスの生産能力が根本的に足りてない状況では、貯蓄が可能にする投資とそれによる生産増大が人々を実際に豊かにする唯一の方法です。
他方、成熟経済では状況が異なります。そこでは多くの人(特にお金持ちの人)のモノやサービスへの欲求は基本的に飽和しており、むしろ、お金が増えることの喜びの方が大きいのです。小野理論では、消費への欲望は消費が増えると飽和していくのに対して、お金への欲望は、もちろん、お金が増えれば減っていくものの、どこまで行ってもゼロにはならないと考えます。モノに関しては本当にもう要らないという領域があるのに対して、どんなお金持ちでもお金が増えれば増えるだけ嬉しいのです。
これは、おそらくかなりの人がモノを買うことより、証券口座の残高が増えることにニンマリとしているような現代の記述としてかなり妥当性があるように思われます。現代において、お金の増加は、消費では得にくい、自分の能力の証明、自分の価値の証明として機能しているのです。それは一種の点数として機能し、どこまで増えても意義を失わないのです。TOEICや共通テストと違って、満点のない青天井のテストなわけです。
この成熟経済では、成長経済よりも所得の多くの割合が貯蓄に回されることになりますが、これは将来の生産の拡大につながりません。というのも、その貯蓄に対応するだけ、企業による生産能力の拡大のための投資が行われるには、将来の売上につながる見込みが必要ですが、そのような消費需要は見込み難いからです。というのも、人々の貯蓄が将来の消費のために行われているなら、貯蓄は将来の消費需要となりますが、現代の貯蓄はお金を増やすため、いわば貯蓄のための貯蓄として行われているので、将来の消費需要として見込むことができないからです。
「豊かさゆえの貧困」という現代の根本問題
こうして生じるのが、貯蓄の分だけ投資が生まれない1状況であり、消費と投資の和である需要の不足により生産・供給能力が余ってしまうという事態です。これが問題なのは、この供給能力の重要な部分を占めるのが人間の労働力であるからです。すなわち、供給能力が余るとは労働力としての人間が余ることであって、その帰結は失業や低賃金労働なのです。
この構造により、現代社会においては、私が「豊かさゆえの貧困」と呼ぶ不条理が生じます。すなわち、モノやサービスの供給能力が有り余っているという「豊かさ」によってこそ、供給能力の重要部分としての労働力が余ってしまって失業や低賃金労働が発生し、結果として一部の人々は貧困状態に置かれるという不条理です。私はこの構造の累進的な強化によって現代の先進国でいわゆる中間層の没落が生じていると診断しています。
「消費社会」の流産と「貯蓄社会」の誕生
また私がこの社会を「貯蓄社会」、さらには「貯蓄=投機」社会と名づけているのは、いわゆる「消費社会論」を意識することによってです。
1970年ごろ、先進国のいわゆる高度成長が終わりました。それは家電や自動車のような耐久消費財が一定の普及を見、またそれらの前提となる上下水道や電気やガスや道路や電車などのインフラの整備が一定レベルに達した段階です。工業生産力は非常に高まり、耐久消費財の普及によって需要は一服しています。
ここで供給過剰の問題の問題が生じたのです。もはや経済成長の制約は需要であり、だからこそ主導権を握るのは生産ではなく消費であって、いかにして消費需要を引き出すか、それが経済の決定的な問題となったのです。こうして1970年ごろには生産社会から消費社会への移行ということが盛んに語られたのです。
さて、生産と消費は確かに対義語です。しかし、私たちの所得の使い道ということでみれば、消費と貯蓄が対義語です。最初の対に従い、生産社会が消費社会に変わった直後、後者の対に従って、実は消費社会は流産して貯蓄社会になったのではないか、そう私はいいたいのです。
そもそも、生産社会が終わるほどの生産力があるのであれば、人類はその生産力を使い尽くすべく大いに消費するべきでした。そして、もし働ける人全員がフルタイムで働くという意味での完全雇用を達成した場合の生産力を使いきれないのであれば、それが「豊かさゆえの貧困」という不毛につながらないように、ワークシェアリングや、労働力の脱商品化(直接給付とうによる労働と生存の切り離し)によって、労働とそれによる財やサービスの供給そのものを減らしつつ、人々の所得を保証するべきでした。
消費しきれないほどあまりに多く生産できてしまうのであれば、生産のための労働時間を減らして、消費のための余暇時間と購買力を増やすという仕方で、生産(供給)と消費(需要)のバランスをとるべきだったのです。真の意味での消費社会への移行を可能にする制度変革が必要だったのです。
しかし、そうはなりませんでした2。結果として生じたのは慢性的な供給過剰であり、要するに失業と低賃金労働であって、その傾向を助長するグローバリゼーションのもと、かつて先進国で見られたいわゆる分厚い中間層は解体圧力に晒されていきます。
こうして生じるのは、富裕層は小野理論的にもはや消費が飽和して貯蓄に励み(だからこそもっとお金持ちになり)、中間層は将来不安から貯蓄に励み、最後に、失業や低賃金労働を強いられる、それより下の階層では存分に消費する余裕もないという状況です。これでは供給過剰が解消されず、ますます中間層を解体していく失業と低賃金労働が広がっていくわけです。
「貯蓄=投機」社会という倒錯
以上が消費社会ならぬ貯蓄社会の基本論理ですが、その進化系が「貯蓄=投機」社会です。これはすなわち、今日、貯蓄というとき、その主な手段は銀行預金ではなく、株やゴールドやビットコイン(や不動産)などの金融市場になっており、貯蓄はいまや金融的な投資になっているということを意味します。そして、私はこの金融的な投資を、企業が生産設備のために行う実物的な投資と区別するために、「投機」と呼ぶことにしています。
この「貯蓄=投機」社会の問題は、貯蓄社会の論理にしたがって、貯蓄が積み上がり、それがますます投機として金融市場に流れ込み、金融市場で行ったり来たりを繰り返していく中で、上述の株やゴールドやビットコインといった金融資産がどんどん値上がりしていくことです。
これは銀行預金の金利が非常に高いことと機能的に等価であり、それによって投機としての貯蓄はますます有利になります。それは「利上げは預金金利の上昇を通じて貯蓄を有利にすることで消費を抑制する」というのと同じ論理で消費を抑制してしまうのです。この過程を通じて、富裕層は金融資産価格の上昇でますます豊かになり、中間層もこの上昇に釣られて、ますます「貯蓄=投機」に走る。それが消費を抑制し、実体経済の需要はますます冷え込んで、中間層の足元に失業や低賃金労働への落とし穴がいや増しに増えていくわけです。
本来であれば、「本当に重要なのは私たちの生活に必要なモノやサービスの供給能力だけであり、みんなの働きでそれが維持されている限りで財政危機も年金問題も存在しない」ことを政府が宣言して、人々が安心して消費できるようにすべきなのに、現実の日本政府は財政危機や年金問題を進んで喧伝して、老後の安心も自助努力だというノリでNISAを拡張し、この「貯蓄=投機」社会を煽っています。
これが今の日本、そして世界の現在地なのです。私にはそれはどこまでも「倒錯した世界」であるように思われます。
「貯蓄=投機」社会論から考える経済成長—不要な成長、必要な成長
この「貯蓄=投機」社会論という現代社会認識を踏まえると、経済成長について何が言えるでしょうか。
経済成長の不要性と必要性
成長経済におけるような、将来の消費需要であり、かつ今は投資を受け入れる生産余力を作り出すものとしての貯蓄の終焉、そして成熟経済における、確かに投資のための余力を作り出すものの、将来の消費需要でないがゆえに投資を喚起しないものとしての貯蓄、お金を増やすためだけの貯蓄、いわば貯蓄のための貯蓄の登場は、一方で、もはや経済成長が不要であること、そういって言い過ぎであれば、それは喫緊の課題ではないことを示唆します。
結局、経済成長の意義とはモノやサービスの生産の増加であり、それにより人々がより多くのモノやサービスを享受できるようになることです。もし人々がモノやサービスをもはや欲していないのであれば、経済成長など不要です。
しかし、急いで付け加えなければならないのは、このように純粋に小野理論的に消費が飽和して貯蓄に走っている人々は少数だろうということです。中間層は将来不安から消費を我慢して貯蓄に走っており、中間層以下の立場に甘んじている人々はそもそも十分に消費できてすらいないでしょう。まずはこの人たちが一定の満足に至るまで存分に消費できることが必要であり、その面での生産と消費の増加、経済成長は望ましいというべきでしょう。
医療業界の「直美」増加にみる現代社会の不気味な傾向
市場というものは、利益を稼ぐ企業を原動力しているため、購買力のある人々の需要にしか応えられません。近年の不気味な傾向は、このように購買力の格差が開いていくなかで、ますます生産力・供給能力の富裕層向けシフトが起きているように思われることです。
それを象徴的に表現しているのが医療業界の「直美」問題でしょう。研修医を終えると「直」で「美」容医療の病院に就職してしまう新人医師が増えているというのです。これは要するに富裕層向けのビジネスの方が儲かるから、そちらに供給能力がシフトしていくという現象であって、その帰結は富裕層向けでない事業の弱体化です。この例でいえば、普通の人々がお世話になる保険診療の供給能力が弱体化していくわけです。
日本の医療のように厳格に価格統制がされている場合、医師という供給主体が保険診療から自由診療の美容医療にシフトして、保険診療の供給能力が空洞化していきます。逆に、価格統制がなければ生じるのはインフレです。たとえば、ニセコでは外国人向けのホテルの従業員の給与が高く、他の職業に人が集まりにくいとされます。すると、他の職業も賃上げをせざるを得ず、それはさまざまなものの値上がりに波及していきます。
企業がますますお金持ちばかりを相手にし、普通の人々は相手にされなくなる。もちろん、いまでも普通の人々の相当の部分はお金が足りずに困っているわけですが、その人たち向けの供給がなくなったり、なくならないにしても価格がどんどん上昇していくとなれば、その問題性は現在の比ではないでしょう。
普通の人たちの「そこそこの暮らし」に照準を合わせた経済を
少し話が逸れてしまいました。ともあれ、この節で言いたかったことは以下の通りです。一方で、消費が飽和して貯蓄が積み上がるという富裕層に見られる事態は、経済成長がもはや重要ではないことを示唆します。しかし、他方で中間層以下は消費を我慢しており、これらの人々が一定の満足を得るところまで、その方面の生産と消費を増やして経済成長することは意義のあることなのです。
すなわち、あまりに高度なこと、最新のことを追求するよりも、むしろ普通の人のそこそこの生活に必要なものをまずは重視する経済が目指されるべきです。そこには画期的な技術革新などはいりません。いまでも普通に売られているものを、普通の人がそれなりに買えるようにすればいいだけです。日本がまず目指すべきは、そのようないわば「生活大国」でしょう。
そのために必要なことは、中間層以下の購買力を支えることであり、また将来への過度な不安を取り除くことです。繰り返しになりますが、「本当に重要なのは私たちの生活に必要なモノやサービスの供給能力だけであり、みんなの働きでそれが維持されている限りで財政危機も年金問題も存在しない」ことを政府が宣言して過度な将来不安を取り除くべきですし、将来不安以前にそもそも購買力が足りないところには政府が財政赤字を出して大胆な給付を行うべきです。
もちろん、何事も急激な変化は望ましくありませんから、徐々にそういう方向へと政策をシフトしていき、もしそれで経済のバランスがインフレ方向(モノに対するお金の過剰の方向)に崩れそうになれば、政策シフトを緩め、おそらくはこの過程で再びお金の最終的な滞留先となっている富裕層に課税して貨幣を除去することでバランスを回復するべきでしょう。しかし、この調整は漸次的な政策シフトのなかでその都度様子を見ながら実行するという仕方で問題ないはずです。
脱成長の問題点を考える—創意工夫の圧殺と衰退経済への転落
さて、こういうわけですから、私はさしあたり経済成長を肯定しますが、それは普通の人々の生活を充実させるという面での経済成長であり、中間層以下の消費を我慢している人々が、一定の満足を得られるまで存分に消費できるようにする、そのための生産と消費の増加による経済成長です。
しかし、それが成し遂げられ、それこそいまの富裕層がおそらくそうであるのと同様に、普通の人々も、それこそ小野理論が想定するような消費の飽和と貯蓄の相対的優位という状況に立ち至ったならば、もはや経済成長は重要ではありません。
「脱成長」について言いたい二つのこと
すると、その後は脱成長ということになるのでしょうか。大枠ではそう言ってもよいのでしょうが、私はここで二つのことを述べたいと思います。一つは衰退社会は避けなければならないということ、そしてもう一つは脱「成長」よりも、脱「成長強制」という言い方の方が適切であるということです。
衰退経済は避けなければならない
脱成長経済・定常経済とは、先にジャガイモ経済モデルで明らかにした通り、生産を支える実物資本は拡大せず、ただ劣化分が補われて現状維持がされるだけであって、そのように維持される実物資本が一定の消費財の生産を可能にし続けるという社会です。私たちはそのような一定の消費財を享受し続けます。
ここでもし実物資本の維持が適切になされなければ、いずれ消費財の生産が徐々に滞るようになり、私たちの生活は劣化していくでしょう。これが衰退経済です。
この衰退経済化は避けなければなりませんが、それもいうほどは簡単ではありません。この脱成長社会では人手は余っているでしょうが、しかし、実物資本の維持というのは単に人手があれば足りるというものではありません。それは人類のこれまでの全知識と全技術の蓄積のうえに成り立っているものであって、それらの知恵を適切に継承し、責任感をもってそれらを保全し活用する人々が必要です。
脱成長社会という、やはりいまの経済成長社会よりは緩んだ環境の中で、そういった人々をいかに確保するかというのは重要な課題です3。
このような課題を考えるとき、やはり脱成長という言い方は望ましくないようにも思われてきます。成長できないとなると、後退してしまうというのが人間の性であることは否定できないでしょう。すると、むしろ必要なのは脱「成長強制」なのであって、成長そのものを完全に放棄する必要はないし、するべきでもないように思われるのです。
「経済成長のマッチポンプ」を考察する
いまでも世間では「経済成長」の必要性が喧しく叫ばれていますが、そこにあるマッチポンプのような構造をまずは洞察しましょう。
なぜ「経済成長」が必要だとされているのでしょうか?それは十分に豊かでない人がいるからでしょう。
なぜ、彼らは豊かではないのでしょうか?彼らが必要とするモノやサービスを作る力が足りないのでしょうか?日本は、食べ物や家や自動車が不足しているのでしょうか?おそらくそうではないでしょう。本当にモノがないなんて話はコロナのころのマスクくらいしか聞いたことがありませんし、いつも店には商品が山積みに積まれているのです。最近のコメにしろ、本当にないわけではありませんでした。
確かに日本でも十分に豊かでない人がいますが、それは供給能力が足りないからではなく、十分に供給されているモノを買うためのカネをそういった人々が持っていないというだけの話にすぎません。そして、彼らがカネを持っていない理由といえば、まさに供給能力が需要に対して超過することによって、人間の労働力自体が余って、低賃金労働や失業が生まれているからに他ならないわけです。
にもかかわらず、十分に豊かでない人がいるからという理由で経済成長の必要性が主張されるとき、主に考えられているのは供給面の成長です。成長戦略の名の下に企業がさまざまな投資を展開しやすいような税制が取られたり、あるいは規制が緩和された特区が設定されたり、政府がさまざまな公共投資を行ったり、あるいはとにかくもっと懸命に働くことが奨励されたりします。
もちろん、投資はそのときには需要ですから、これは供給能力の過剰を和らげ、人々に所得をもたらすでしょう。しかし、投資は供給能力を向上させますから、投資が投資だけで終わり、そこで生まれた所得が「貯蓄=投機」に回るのであれば、結局は供給能力の過剰が深刻になるだけであり、「豊かさゆえの貧困」をより広範なものへと押し広げていくだけなのです。そして、それをみて「まだ十分に豊かでない人がいるから、経済成長が必要だ!」と主張されるわけです。
ここには、貧しさを解消すべく経済成長を目指す供給強化の投資中心の施策が、その実、その貧しさを拡大させ、だから再び経済成長の必要性が強調されるという構造があり、それはまさにマッチポンプと呼ぶにふさわしいものです。この種の経済成長志向の政策自体が「豊かさゆえの貧困」という火事を起こし、その火事を消火するとの触れ込みで、再びその政策が売り込まれるからです。もちろん、それもより大きな火事を起こす結果に終わるわけですが。
これは、市場の均衡を前提とし、だから完全雇用を前提とすることで、経済成長の制約を常に供給側に見出す主流派経済学的な思考の帰結に他なりません。私が「完全雇用の神話」あるいは「(市場の均衡を主張する)神の見えざる手の神話」の解体が絶対に必要だと確信する所以です。
このような全体的な風潮は、いわば「成長強制」社会を構成します。経済成長を求める政策自体が以上のメカニズムでさらなる経済成長の必要性を正当化し、その経済成長を強調する風潮の中で、私たち自身もより懸命に働き(供給を増やす!)、より合理的に蓄財する(貯蓄=投機を増やす!)ことを奨励される。このことの全体が問題をより深刻化していくわけです。
これに対して、私は上で消費を我慢せざるを得ない状況にある人々の消費を可能にすることによる需要主導の経済成長の道と、その終着点について議論したわけです。
脱成長の問題点—人々の創意工夫の圧殺と衰退経済への転落
ただ、この終着点はあくまで脱「成長強制」であって、脱「成長」ではあるべきではありません。なぜなら、成長強制も強制的ですが、脱成長も強制的ですし、その強制は先に述べた衰退経済へとつながる類のものと思われるからです。
厳密に捉えられた脱成長はどうして「強制的」なのでしょうか。それは厳密な脱成長は実物資本の増加を許さないからです。それはある意味で個人の創意工夫を否定するのと同義であって、そもそも現存した社会主義のような強制管理経済でしか可能ではありません。
社会主義では「結果の平等」が実現されたため、豊かさを求めて競争するというモチベーションが失われ、結果として経済停滞が生じたというような物語がしばしば語られます。
このいかにもネオリベ的な競争肯定のためのストーリーに私は懐疑的です。なぜなら、これは社会主義のもう一つのイメージ、絶大な権力を持つ中央官僚や共産党幹部というイメージとまったく矛盾しているからです。絶大な権力集中は、巨大な格差を意味しており、その上位に上り詰めるための熾烈な競争があるはずでしょう。どうして、そこには競争がないということになるのでしょうか。北朝鮮は別にして、多くの社会主義国は少なくとも世襲制ではありませんから、そこに熾烈な出世競争があるでしょう。
では、社会主義の停滞の原因はどこにあるのでしょうか。思うに、一方では生産が市場(消費者)を見て行われるのではなく、中央司令で行われていたために、1970年代以降の資本主義にみられた消費社会的な多様性、それが生み出す楽しげな雰囲気を生み出せなかったことが一つの原因でしょう。一定の近代化が達成され、もはや進歩する方向性が消費社会的な記号的多様性に変化したときに、中央官僚ではそれに対応できなかったというわけです。彼らはそれに最も向いていない人種でしょう。
あと一つ、こちらが重要ですが、キャリアの単線性でしょう。社会主義は生産手段の国有が建前ですから、企業は基本的に国有であって、生産手段の私有はできません。それは個人が実物資本を調達して事業を勝手に始めることができないことを意味しています。傾向としては、国有企業で出世街道を外れたらおしまいであり、外に飛び出て自分なりにチャレンジするということが難しいわけです。
この生産手段(実物資本)の国有、生産手段の私有の禁止(あるいは厳格な管理)こそ、厳密な脱成長を可能にする唯一の道です。実物資本の増加を許さないためには、それを国家が管理するしかないからです。
脱成長のための生産手段の私有の禁止ないし管理においては、たとえば、会社での出世を諦めたサラリーマンが脱サラしてラーメン屋を勝手に開くこともできません(会社内の新規事業も勝手には不可です)。というのも、ラーメン屋を開くためには、その人がお金を投資して、建物や調理器具などの生産手段(実物資本)を調達し、それを私有して営業していくわけですが、それは実物資本を増やしており、そのラーメン屋が成功すると生産と消費が増えて経済が成長してしまうからです。厳密な脱成長経済では、ラーメン屋が潰れた時(国営なら潰れないので店主が引退した時)のみラーメン屋の開業が許されるのでしょう。そこは席の数が厳密に決まっており、席を増やすことができない社会です。
このように脇道が塞がれた単線的システムがモチベーションを損なうということは明らかでしょう。人間、最初に選んだ道で必ずしも成功するとは限りませんし、そこで行き詰まりや挫折を感じることがあるでしょう。それが人生というものです。そこで別の道が用意されていることで人は人生へのモチベーションを維持できるのです。逆にそうでなければ、意欲のないままに会社に留まっている窓際族のような形で無気力が蔓延することになるのでしょう。厳密な脱成長は、このような現存した社会主義と同じ単線的システムを必要とし、それと同じような停滞を生み出すことになると思われるのです。
必ずしも社会のなかを一直線に歩むことのできない個人個人が、自らの思いと創意工夫に基づいて、大小様々な新しい事業を起こし、それを社会に問い、金銭的な成功や失敗という形でその答えを得るということ、そういう回路の存在は、生産手段の私有と営業の自由を基礎とする資本主義の最良の部分であり、今後も残していくべきです。
それが個人個人のモチベーションを維持し、社会の活力を維持する方法であり、それこそが先に述べたような衰退経済に陥らない道、つまり、人類のこれまでの蓄積を着実に引き継ぎ発展させていく人類の力を維持する方法だと思われるのです。人間は単に過去を継承するためではなく、何か新しいものを作るためだと思うからこそ、過去の成果を積極的に継承するのです。
脱「成長強制」経済への道
だから、取り除くべきは成長そのものではありません。取り除くべきものがあるとすれば、成長の強制であり、先に指摘したような「経済成長のマッチポンプ」のような誤った思考であり、いささか唐突かもしれませんが、信用創造という仕組みでしょう。この信用創造という仕組みこそ、「成長強制」経済の根本の仕組みだからです。
すなわち、お金が借金で生まれる信用創造という仕組みは、そこに利子が加わることで、すでにある借金が首尾よく返済されるためには、より多くの借金(=お金)が必要であるという仕方で、お金と借金がどんどんと増えていかなければならず、それに応じてモノやサービスもどんどんと増えていかなければならないという、マクロの経済成長を強制するような仕組みなのです。
逆にいえば、このお金と借金の増加が止まってしまえば、多くの人が借金が返せなくなって破綻し、それらの人々から受け取るはずだったお金を受け取れなかった人も破綻し…と、破綻の連鎖が起きて、経済が機能不全に陥るのです。
また、注目すべきは、お金を借金で生み出す仕組みはミクロにも成長強制システムとして機能しているということです。信用創造の意義は、即座にお金を生み出すことで資金調達を容易にし、起業や新規事業によるイノベーションを容易にすることだけではありません。それは事業の裏側に借金を貼り付けることで、事業に関わる人々に必死で働くことを強要し、その強制力によっても、イノベーションを促進してきたのです。
ただ、もはや生産力の拡大という意味での経済成長が重要でないとすれば、このような成長促進(強制)装置としての信用創造は不要であり、信用創造の完全な廃止(信用創造廃止論)、あるいはそこまでいかなくても政府をその枠から外すこと(MMT的な国債廃止論)を真剣に検討する余地があります。
このような成長強制装置の撤廃と「経済成長のマッチポンプ」の除去により、私たちはマクロな経済成長とミクロな個人的な経済成長を強制されることはなくなりますが、逆に厳密な脱成長論ならばそうでなければならないように、成長しないことを強制され、自分なりの新しい試みを独自に社会に問うことを禁止されることもありません。
脱成長ではなく、脱「成長強制」、そのあたりに21世紀の経済が向かうべき方向性があるように思われます。
- ということは、巡り巡って貯蓄もそれほどできなくなるのですが、議論が複雑になりすぎるので、今回はこの点は脇におきます。 ↩︎
- なぜ、そうならなかったのでしょうか?この問いに答える私なりの試みが「現代の主流派経済学とは「イワシの頭」なのか?経済学批判の哲学入門」の記事で提示した「消費社会・管理通貨制アノミーへの不安」論です。 ↩︎
- これはオルテガが『大衆の反逆』で危惧した問題の一つです。 ↩︎


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