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この記事では2020年の日本政治に起きた事件、大西つねきの「命の選別」騒動を、大西に共感的な(=発言自体は批判するものの基本的に好意的な)立場から振り返ります。
「命の選別」騒動とは、2020年の7月、れいわ新選組の党首である山本太郎が出馬した東京都知事選の直後に勃発した騒動です。大西の「(高齢者の)命、選別しないとダメだと思いますよ」という発言が問題とされ、大西と当時彼が属していたれいわ新選組に批判が集中、一定の紆余曲折を経て、大西がれいわ新選組を除籍される結末となった事件です。
なぜ、5年も前の小事件を振り返るのか?
5年も前の、しかも政界の大事件というほどでもない騒動を振り返る理由は二つあります。
私が積極財政派になったきっかけを回想するために
一つ目は個人的なもので、この騒動の中心人物である大西つねきが、ある意味で本研究所がはじまるきっかけとなっているからです。
いまこんな研究所を運営している私が、MMT的な思想やいわゆる積極財政派の議論に初めて触れ、それに感化されるきっかけとなったのが、2019年のれいわ新選組の参院選、そのなかでもとりわけ大西の発信なのです。その意味で、この記事は本研究所の起源を訪ねるものなのです。
日本の積極財政論のヘゲモニーを右派が握ったきっかけの一つとして
二つ目は社会的なもので、この騒動は、日本の積極財政派のなかで政治的な左派よりも政治的な右派の存在感が圧倒的になる一つのきっかけになったかもしれないという点で、政治史的に重要な出来事だということです。
左派積極財政のれいわから、その随一の理論家だった大西が抜けたことで、積極財政論の理論化と発信が、私が21世紀の京都学派の右派と呼んでいる面々(藤井聡・中野剛志・西田昌司・安藤裕の四天王と京都とは関係ないが影響力の大きい三橋貴明)に実質的に独占されることになったように思われるからです。
2019年に結成された左派積極財政のれいわ新選組を、2020年結成の右派積極財政の参政党が2025年に一気に抜き去っていたことは、この独占の帰結だと私は考えます。
以下では、
- 第二節で2019年の私の個人的な「れいわ新選組や大西つねき」体験を振り返り、
- 第三節で2020年の「命の選別騒動」を徹底分析し、
- 第四節で積極財政の右派優位を加速させたという、騒動の政治史的意義を論じ、
- 最後に第五節では「だから中道積極財政だ」という結論に辿り着きたい
と思います。
2019年の参院選―れいわ新選組と大西つねき
私が現実政治にそれなりに真面目に関心を持つようになったのは2019年の参院選からでした。それまでも政治思想や政治哲学、また現実の政治史などについて適当に齧ってはきていましたが、この時までは特に強く支持する政党や勢力などを見出せていなかったのです。
それが変わったのは、2019年の参院選を前にして山本太郎がれいわ新選組を旗揚げした時からです。このとき同時にネット上の動画が選挙に大きな影響を持ち始めたように思います。いまにつながる流れの起点です。
私自身、以下のような動画を通じて、当時れいわ新選組に「興味」を持つようになりました。久しぶりに見ても、社会の疎外された人々を代表することから生じてくるものとしての政治家的な情熱についていえば、山本太郎は間違いなく本物であるように思います。
しかし、単なる「興味」を越えて、私がれいわ新選組を支持するに至ったのは、山本の情熱によるというよりはむしろ、当時、同党の候補者だった大西つねきの存在によります。私には大西の語る話が非常に新鮮だったし、今後の日本と世界の真の改革の方向性を示唆しているように思えたのです。とくに以下の動画の1:24:00以降に語られている「お金の仕組み」の話です。
いまの視点で振り返ると、大西の立場は政府通貨発行論であって、「借金を通じてお金を発行する信用創造」の廃止論です。それは公共貨幣論や肯定貨幣理論と呼ぶこともできます。肯定貨幣(Positive Money)というのは、裏面に借金というネガティブなものが張り付いていない貨幣という意味です。私はこの立場をMMTと引っ掛けてPMTと呼んでも良いだろうと思います。Public Moneyであれ、Positive Moneyであれ、PMですから。
PMTは、現代の貨幣システムはお金が借金を裏面としてのみ存在しうる「債務貨幣システム」だという理解をMMTと共有します。MMTは「債務貨幣システム」はそのままに、本来はそれに拘束されないはずの政府の力を解き放ち、その解き放たれた政府の力でもって経済をマネージしようと考えます。それに対してPMT(政府通貨発行論や信用創造廃止論)は「債務貨幣システム」自体の撤廃を主張するというよりラディカルな立場を取ります。
私は、経済財政政策の議論は、「債務貨幣システム」の現実を前提としつつ、それを支えるメカニズムとしての信用創造を容認するMMTか、信用創造自体を批判的に見るPMTかという水準で議論されるべきだと思っています。根本にある貨幣観のレベルで間違っている従来の主流派経済学は、現代の現実に即しているという意味で正しい貨幣観から再出発して自らの体系を総点検すべきです。
れいわ新選組が船出し、レイの『MMT現代貨幣理論入門』の翻訳が出てMMTの本格輸入もなされた2019年から早くも6年が経ったにも関わらず、いまだにMMTやPMTが世間の言説の主流になっていないことに、私は世界の知的惰性の強さを感じます。それはある特定の考えを学び、その考えを表明することで地位を得てきた人々が、その考えを変えるわけにはいかないことから作りだされる惰性でもあるのだろうと思います。見解の変更が自己否定に直結してしまう事態、それが知的惰性を生み出しているように思うのです。
このような世界の知的惰性こそが、希望が最終的には世代交代にしかない所以ですし、日本と世界の将来に危機感を感じて、私も微力ながら発信を始めた所以でもあります。
以上が私の「れいわ新選組と大西つねき」との出会いの個人的な振り返りです。この出会いのおかげで、私がはじめて明確な意思と確信をもって投票することができたのが2019年の参院選でした。もちろん、比例「大西つねき」です。
2020年東京都知事選と「命の選別」騒動の徹底分析
さて、こうして私は最終的には大西経由でれいわ新選組支持者になったのですが、大袈裟にいえば、試練はすぐに次の年にやってきました。それが、2020年7月の東京都知事選前後の「命の選別」事件という大西の除籍騒動です。
それは大西のYouTube動画内での発言が「命の選別」を肯定するものとして批判の対象となり、結果として大西が除籍されることとなった騒動です。
「命の選別」発言の元動画と関連動画を発掘する
問題の発言と、それに対する大西の弁明の動画をまずは掲載したいと思います。大西のもとのライブ配信動画自体は騒動を受けて削除されています。以下では、四つの動画を掲載します。
一つ目は、問題とされた「命の選別」発言の1分半ほどの切り抜き動画です。これはおそらく騒動当時もっとも拡散された動画(そのものかはわかりませんがが、少なくともそれに近い範囲を切り取った動画)です。
二つ目は、騒動全体をざっくり振り返っている動画です。特に4分20秒ごろから10分15秒ごろまでの6分間ほど、大西のライブでの発言のより長い切り抜きがあって、発言の流れの全体像が掴めます。
三つ目は、削除された大西のライブ配信をハイライト的に引用しつつ、その全体の流れを紹介してくれている動画です。
四つ目は、この騒動の最後を飾る大西による弁明の記者会見の主要部分の切り抜き動画です。
以上の動画に基づきつつ、この発言の真意を再構築した上で、その問題性を考察したいと思います。
大西「命の選別」発言を批判しつつ、その最良の可能性を取り出す
大西は何を言っていたのか?
まず、問題の「命の選別」発言は、よくある「寝たきり高齢者の延命治療は無駄だからやめろ」的な文脈でなされています。ただ、大西は政府通貨発行論者として、通俗的な財政制約を否定する立場ですから、最初の動画内でも明言されているように、その論拠は「医療費」「社会保険料」等々のお金の問題ではありません。問題はお金ではなく実物資源であって、この場合、高齢者を介護する若者の時間と労力です。
こうして大西は、「寝たきり高齢者の命」と「若者の時間や労力(=自由)」を対立させ、前者を最優先して、後者をそれに必要な限り無制限に動員するべきではないということを主張しています。ということはつまり、医療・介護のための人員が不足する可能性があるわけで、その場合には、「寝たきり高齢者」のなかで、延命治療等々をすればもう少し生きられるにも関わらず、それが行われないため死んでしまうという事象が生じるでしょう。これが「命の選別」だというわけです。
寝たきり高齢者は介護する若者の自由を奪っていない
ただ、大西がここでやや感情的になって(いるように私には見えます)主張している背景にあるイメージは、実はここで語られているような「寝たきり高齢者」と「それを介護する若者」ではないと思われます。
そもそも、別に介護する若者は徴兵制のように強制的に徴用されて強制労働に従事させられているわけでもなく、職業選択の自由のもと介護職についているか、家族との人間関係のなかで介護をしています。
もちろん、職業選択の自由は形式的なものに過ぎず、さまざまな事情から嫌々やっているとか、家族の介護も世間体のために嫌々やっているといったことだってあるわけですが、そのような場合でも、諸般の事情を考慮した上で、究極的にはやりたいからやっているとは言えるわけで、「寝たきり高齢者の命」のために介護をする「若者の自由」が犠牲にされているという語り口は成り立たないと思うのです。
真の背景としてのコロナ禍における若者の自由の剥奪
では、どういうことなのでしょうか。結論を言えば、この語りの背景にあるイメージは、最後の大西の記者会見からも分かる通り、2020年7月の発言時点で決定的に重要だったコロナ禍のイメージでしょう。
コロナでの死者は圧倒的に高齢者が多く、かつコロナの蔓延を防ぐために様々な(実質)強制的な措置が行われました。自分たちは重症化リスクはほとんどないにも関わらず、学生は、学校に通えなかったり、行事や学校生活がさまざまに制限されたりといった被害を受けたし、若者たちのしたいこともさまざまに制限されました。ここでは確かに「高齢者の命」と「若者の自由」の対立とでもいうべきものが存在したのです。
そして、一つのポイントは、この二つの対立のうちで、当時は前者を優先することが議論抜きに実際に選択されていたということです。もちろん、当時はまだリスクがほぼ高齢者に偏っているとは断言できる状況ではなく、この観点はいささか後知恵的とは言えるかもしれませんが、それにしても、ある程度はこのように言えるでしょう。この騒動の時期は最初の緊急事態宣言が解除され、コロナの実態も少しわかってきて、ある意味ではコロナ政策の問い直しに適した時期でもあったのです。
大西がしたかったのは、「高齢者の命」と「若者の自由」の対立において、まともな議論なしに前者を優先させることが決定され、それに基づく各種行動制限が継続されているという状況に対する異議申し立て、あるいは問題提起だったのでしょう。そこにこそ大西が許せないと感じて感情的になったポイントもあったように思うのです。修学旅行の中止や部活の大会消滅など、若者の『二度と戻らない時間』が、高齢者の安全のために一方的に犠牲にされていた当時の空気感を思い出せば、大西の苛立ちにも一定の理はあったはずなのです。
もしそれが正しくコロナ禍の政策の問題として提起されていたならば…
大西の発言が「このように議論のないまま決定され多くの人に強制されているコロナ政策」への異議申し立てという形で行われていたならば、大西の発言がこれほど批判され除籍となる事態には至らなかったでしょう。この問題提起であれば、それは明らかに議論に値する問題であり、その議論のなかで、若者を含めた全体の行動制限を緩めつつ、感染が心配な高齢者は自粛するといった妥協案に至ることもできたはずなのです。
ただ、実際の発言は、この背景をなす感情とイメージとは微妙にズレた文脈で行われてしまいました。すなわち、「寝たきり高齢者の命」と「介護する若者の自由」という(先に述べたようにもっともらしさのない)文脈で。
「高齢者・障害者の命」と「若者の自由」という対立の虚妄性再論
この文脈のズレと「命の選別」という言葉が致命的でした。れいわ新選組では、前年の選挙の結果、木村・船後の重度の障害を抱えた二人が議員となっており、介助者なしには生きられない二人にとって「介護で若者の自由が奪われるから命の選別が必要だ」という議論の立て方は、受け入れ難いものだっただろうことは想像に難くありません。すなわち、「コロナ禍」から「寝たきり高齢者」へズレた文脈は、さらに「介助なしには生きられない重度障害者」へとズレていくことになったのです。
あえて、このズレたあとの文脈で考察してみましょう。先に指摘したのは「介護される高齢者・障害者の命」と「介護する若者の自由」という対立自体の虚妄性です。介護者は別に強制労働に従事させられているわけではありません。仕事だからと嫌々やっている人でも職業選択の自由のもとでやっているのだし、介護を天職だと思ってやりがいを感じている人だっているはずです。
この対立が本当に今後問題となるとすれば、以下のような事態です。介護職の仕事が給与ややりがいやその他の面で魅力的と思われなくなり、必要な定員が確保されません。そのため現場が崩壊し、高齢者や障害者が見殺しにされています。これを解決するため、日本では徴兵制ならぬ徴介護者制が導入され、若者は介護職に強制的に従事させられるようになったのです…。
こうなる前にいくらでも対処の方法はあるでしょう。人手不足となれば、省力化の工夫がなされるでしょうし、それはいわゆる生産性の向上によって同じ予算規模のもとでも給与のアップを可能にします。それでもまだ人が集まらなければ、予算措置による給与のアップが行われるでしょう。それにしても社会的な限度は存在しますが、その限度への距離は相当に大きいはずです。
こういった事情を考えるとき、「介護される高齢者・障害者の命」と「介護する若者の自由」という対立を持ち出して、「命の選別」を語ることについては、存在しない問題を持ち出す、あるいは少なくとも問題を針小棒大に語ることによって「介護される高齢者・障害者」の尊厳を無用に脅かすものとして、やはり非難に値しますし、当事者の怒りは当然のことでしょう。
大西が批判されるのは仕方ない、しかし…
こういうわけで、私としては大西が批判されるのは仕方ないと思いつつも、そこには文脈のズレという大西自身の責めに帰すべきものではあるものの、おそらくは当人にとっても不本意であるような失敗、その意味では不幸なすれ違いもあったように思うのです。
しかも、この発言がこれほどの大問題になったことには、さまざまな不幸な巡り合わせもあったように思います。次項では、この様々な背景について分析しましょう。
「命の選別」騒動の背景①山本太郎の都知事選出馬が生んだハレーション
この発言の騒動化の背景には以下の三つのことがあったと思われます。
第一は、2020年の都知事選への山本太郎の出馬が左派陣営に生んだハレーションです。左派陣営が広く一致して共産党系の弁護士の宇都宮健児を擁立していたところに、山本太郎が後から出馬を決めたのです。
このことが左派陣営に大きな反発を引き起こしていました。都知事選直後に生じた「命の選別」騒動は、そのタイミングからして、このような反発が燃料になっていたと思われます。
「命の選別」騒動の背景②れいわと大西のコロナ禍への構えの違い
第二に、れいわの主流派と大西はコロナ禍に対する構えがそもそも異なったことです。
大西は自由を第一に考え、死はもともと避けられないのだから、死を必要以上に恐れるのではなく、有限な生を自由のもとでいかに充実させるかだけが重要だと主張してきました。その観点から、コロナ死を過度に恐れて自由を制限し、結果として生の充実そのものを破壊してしまうのは本末転倒だと主張していたのです。大西は過度な自粛を嫌い、マスクもほとんどしていなかったといいます。
この考えが「命の選別」発言の背景にも通底していることは明らかでしょう。確かに大西は「命の選別」という言葉を安易に使うべきではなかった。しかし、そこで内包されていた、延命治療などでただただ死を避け命を長引かせるのではなく、「もともと有限な生をどう生きるか」を考えることが大切だという問いかけには、やはり一定の価値があるように私は思います。
他方、日本の左派の主流は生命尊重の観点から、自粛にもマスクにも極めて積極的だったように思います。そこにはコロナで命が奪われやすい高齢者を「弱者」とみなしたことも影響しているのでしょう。れいわの主流もその流れの中にあり、コロナ禍における自由の制限に積極的だったのだろうと思われます。
このため、もし問題が先に述べたようなズレた文脈ではなく、本来の文脈で提起されたとしても、大西とれいわ主流派との溝は埋まらなかった可能性があります。大西の排除は、れいわ内部の路線の純化の過程であり、コロナ禍を経て炙り出された考え方の違いの自然な帰結だったのかもしれません。
「命の選別」騒動の背景③「寛容な野合」から「左派への純化」というれいわの変化
第三に、れいわの方向性が左派路線への純化へと変化しつつあったということです。それは具体的にはいわゆる「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ・PC)」化です。
ポリティカル・コレクトネスとその問題点①—ヒューマニズムへの遠い道のり
ポリティカル・コレクトネスとは、こちらの記事で詳しく論じた通り、1970年代以降の左派政治の主流を形成したアイデンティティ・ポリティクスの発展形です。それはアイデンティティ・ポリティクス的に擁護されるべきとされている特定のマイノリティ的な諸属性(女性・外国人・障害者…)に対する言及を、かなり広い範囲で「政治的に正しくない(politically incorrect)」「許されざる差別」として認定し、矯正しようとします。
一般にPCの問題点として、第一に、その「許されざる差別」の認定範囲が広すぎる、あるいはむしろその認定範囲が恣意的であること。第二に、発言者と発言対象の属性ごとに評価が異なり、ダブル・スタンダード的であること。つまり、女性や外国人に対する言動は厳しく取り締まられるが、おじさんや日本人については何を言っても良かったり、男性の言動は厳しく取り締まられるが、女性の言動はそれほどでもない等のことがあること。第三に、キャンセル・カルチャーなどという仕方で、発言者の社会的地位を剥奪しようとするなどの私刑的なものに発展しがちなことが挙げられます。
私も特定の生得的ないし不可抗的な属性に否定的な評価を結びつけるという意味での差別には当然に反対ですが、以上のような問題点を抱えるPC化が、それが主に対象とするマイノリティ的な諸属性の境遇がアイデンティティ・ポリティクス的なものの成果もあって改善してきたところでこそ、先鋭化していったようであることは、やはり良くはなかったと思います。
PCのダブル・スタンダート性はある意味で当然なのです。というのも、アイデンティティ・ポリティクスは、普遍主義的な人権と称するものが、実は自国民男性といった特定の属性にしか本当は適用されていないという現実の偏りに対して、その普遍主義の真の普遍化を目指して、そこから排除された特定の属性の権利を強調するものだったからです。それは現実が偏っているからこそ、その反対に偏った立場を取ることでしか、目指す成果を達成できなかったのです。
だからそれはたとえばヒューマニズム(人間主義)でなく、フェミニズム(女性主義)なのです。フェミニズムは、当時のヒューマニズムがマスキュリニズム(男性主義)に過ぎないと見抜いたからこそ、自らフェミニズムという偏った名前を採用したわけです。
ただし、PC化の問題は、それが先にも述べた通り、現実の偏りの方が、少なくとも法律・制度面である程度以上に改善されつつあるなかでこそ、残っている日常道徳的な面の改善を目指すということで先鋭化されていったことにあったと思います。現実の偏りの是正があったからこそ、PCの方の偏りが何か悪しきダブル・スタンダード的なものと映りやすくなっているのです。
この反PCの動きに対しては、こちらも先の記事で論じた通り、PC的に対象外とされている「先進国自国民男性」の一部の境遇が、グローバル化のなかで劣化してことも燃料になっていました。そういった人々からすれば、「俺たちも困っているのに、左翼の連中は女性や外国人ばかり持ち上げて、俺たちを悪者扱いしている!」というふうに見えてしまったのです。
本来、このような左派は現実の偏りの制度的な是正とグローバル化における現実の変化に合わせて、PC的に自らの偏りを先鋭化させるのではなく、特定の属性の苦境ではなく人々全般の苦境の改善を目指す、普遍主義的なヒューマニズムの方へと徐々に重点を移していくべきだったのです。
ポリティカル・コレクトネスの問題点②—左派の不寛容、右派の不寛容
ポリティカル・コレクトネスの問題点は、その「許されざる差別」認定が恣意的で広範囲に渡り、さらに社会的地位の剥奪などを目指すキャンセル・カルチャーに発展すると、それが過度な不寛容に傾くという点です。この不寛容さに関しては、右派と左派も同じく問題を抱えています。
右派の場合、基本的な世界認識は内と外の区別です。右派にとっては内部が善、外部が悪です。だから右派的な不寛容は外部の余所者に向かいます。典型的にはターゲットは外国(人)であり、外国(人)に味方するように見える左派がその排撃の対象になります。
左派の場合、基本的な世界認識は上と下の区別です。左派にとっては下が善、上が悪です。だから左派的な不寛容は上位の権力者に向かいます。典型的にはターゲットは政治権力者ですが、アイデンティティ・ポリティクスではそれが自国民男性であって、これらに味方するように見える右派もその排撃の対象になります。
自分たちのつもりとしては、右派は内の味方をし、左派は下の味方をしているのですが、反対側の立場から見ると、右派は上の味方をし、左派は外の味方をしているのだと見えるわけです。ここに左右のすれ違いがあります。
さて、このように右派にも左派にも独特の不寛容があるわけですが、この両者の極限に右派全体主義と左派全体主義が存在します。
右派全体主義を代表するナチスは彼らにとって外を象徴するユダヤ人を悪とすることで、そのユダヤ人を絶滅させようとするという巨大な悪を実行しました。他方で左派全体主義を代表するスターリニズムのソ連や毛沢東の中国、あるいはクメール・ルージュのカンボジアは、彼らにとって上を象徴する富農や知識階級を悪とすることで、それらを虐殺するという、これまた巨大な悪を実行しました。
もちろん、私たちはこのどちらも避けるべきです。ポリティカル・コレクトネスの先鋭化としてのキャンセル・カルチャーはこの左派全体主義の方向性に1/8歩くらいは踏み出しているのではないかと私には思えるのです。確かにスターリニズムと比べれば、その暴力性には天と地ほどの差があるものの、「自国民男性」のような、要するに「普通の人々」を上とみなしているため、そのターゲットが極めて広い点で問題は小さくないと思うのです。
れいわ新選組の「寛容な野合」から「左派への純化」への路線変更
さて、以上を踏まえて、「命の選別」騒動の背景にあったれいわの路線変更を読み解いていきましょう。
れいわは2019年の発足時と参院選では「寛容な野合」路線をとっていたと言えます。「れいわは右でも左でもない」と主張し、それこそ大西のような単純に左派とは言い切れない人々も包含していました。
しかし、参院選を経て、「寛容な野合」路線は「左派への純化」路線へと徐々に移っていったと思われます。そこで重要な役割を果たしたのは参院選の結果でしょう。れいわは参院選の比例区で特別枠を活用して、重度の障害を持つ木村・船後両氏を議員として当選させるという結果を得ました。このことが結果として、れいわ主流のポリティカル・コレクトネス左派路線への純化を準備したと思われるのです。
今回の事件の過程を見れば、確かに大西にも大いに問題はあるものの、その真意をしっかりと紐解いていけば、そこには有意義な問題提起も含まれていたはずだと私は思います。穏やかな議論の場さえあれば、それを引き出すことができたはずなのです。それができなかったのは、ポリティカル・コレクトネスとキャンセルカルチャーの論理がれいわ内で即座に動き出したからだと思うのです。
それは、参院選の結果が生み出したれいわ内部の路線の変化が生み出した土壌が、第一の背景で指摘した外側からのPC的攻撃と共振した結果であるように思われるのです。それによって、いささか性急な形で一方的なレクチャーによる大西の思想矯正と、それを受け入れないがゆえの除籍という処分が下されることになったのです。
私は右派的な不寛容にも左派的な不寛容にも反対です。どちらも何かを悪と認定することで自身を過度な不寛容という悪に向けて動機づけてしまうという点で問題を抱えています。もちろん、右派的な不寛容よりは左派的な不寛容の方が理があるという主張は理解できます。確かに「外国人=悪」より「差別者=悪」の方が説得力があるのです。
しかし、問題はPCはその差別者認定そのものをマイノリティ属性かマジョリティ属性かによっていわば「差別的」にダブル・スタンダードで運用することを特徴としていることです。この差別的な運用の正当性が、これまで述べてきたような現実の変化とともに、失われつつあるのです。
左派はアイデンティティ・ポリティクスとPCという特定の属性の人々の苦境への焦点化から、属性に関わらずすべての人の苦境の改善を目指すヒューマニズムへと転換するべき時期が来ているのです。積極財政はそのための有力な方策です。
大西の除籍という結末は、私にはれいわが「積極財政というヒューマニズム」ではなく「特定の属性の苦境を特権化し、多くの普通の人を潜在的に「強者=悪」とみなしかねないポリティカル・コレクトネス」を選んだ結果だと見えたのです。
大西の除籍と同時に、私がれいわ新選組の支持をやめた所以です。
この事件の歴史的な意義について—右派が積極財政論の主導権を握る
この事件の歴史的な意義については、れいわ新選組の経済ブレーンと言いうるポジションにあり、日本の左派積極財政論のリーダー的な存在である立命館大の松尾匡の総括が参考になります。
そもそも松尾は、この騒動の一つのきっかけとなった山本太郎の都知事選出馬には反対だったのだといいます。その理由は以下のようなものです1。山本が出馬すると、宇都宮擁立でまとまっていた左派は「左派を分裂させるのか!」と反感を持ちます。そして宇都宮側としては、自らと山本との違いである山本の反緊縮の部分を批判することが合理的になります。その結果、左派のなかで反緊縮が言いにくくなり、「反緊縮シーンから左派的な影響力が引くと、極右的な影響が強まる」。「新自由主義の犠牲になって生きづらさを感じているたくさんの人たちは、反緊縮シーンに極右しかなければ、極右を選ぶ」。
この松尾の懸念は、単に山本が出馬するだけで起きる事象についての懸念でしたが、現実には、この懸念よりもさらに悪いことが起きたと言わざるを得ません。すなわち、それがれいわ新選組メンバーで唯一、積極財政派の理論家と呼べる存在であった大西の除籍に至る「命の選別」発言騒動です。
松尾も2、「大西つねきさんは私と同じく日本における数少ない政府貨幣論者で、これについての日頃の啓蒙・宣伝活動には常々心強く思っていました。れいわ新選組の経済政策も、大西さんがいるなら安心だと思っていました」と大西を評価していたのですが、この騒動の結果、「反緊縮運動における左派・リベラル派の影響力が減退し、極右的な影響力が増すのではないかという危惧」について、「私の危惧した方向が、ますます進行したような気がします」と総括しています。
私もこの総括に賛成です。なぜなら、n=1の議論ではありますが、その後の私は大西の居なくなったれいわ新選組の支持を止め、実際に松尾のいうところの「極右的な影響力」(私が21世紀の京都学派の右派と呼んでいる人々の影響)のもとに置かれることになったからです。というのも、そういう人たちしかネットで積極財政論を発信していなかったからです。もちろん、松尾がいうところの「極右」に影響され、そこに一定以上の共感を持つ私としては、極右という言い方は強すぎるとも思うのですが。
いずれにしても、最初に述べた通り、左派積極財政論のれいわ新選組を、私が21世紀の京都学派四天王の一人とみなしている安藤裕などの右派積極財政論を取り込んだ参政党が、一気に抜き去っていったことの遠い背景の一つは、この「命の選別」騒動にあるというのが私の見立てなのです。
結論:だから中道において積極財政の立場を確立しなければならない
さて、本稿の意図の一つは、本研究所の起源を訪ねることでした。というのも、れいわ新選組と大西つねきの2019年の発信が、私が積極財政派に転じたきっかけだったからです。
その後、この「命の選別」騒動で大西がれいわを除籍されることによって、大西支持者だった私はれいわ支持をやめ、結果、松尾のいう「極右的な影響力」のもとに置かれることになりました。
私の判断では、れいわによる大西除籍は、れいわが本来向かうべき道だった「積極財政=ヒューマニズム」よりも、いまや間違った方向性であるPCを優先してしまった結果です。この点で左派積極財政のれいわは問題を抱えています。みんなの苦境を改善すべきなのに、PCはそのみんなのうちに無用な分断を生み出してしまいます。
他方で、いまや右派積極財政論を代表する参政党だって問題がないわけではないでしょう。表舞台に登場するに従って穏健化してはいるものの、その支持者には、それこそ右派的な不寛容としての排外的な傾向も見受けられますし、いわゆる陰謀論の傾向だってあるでしょう(私は、陰謀論も危険だが、権威主義はもっと危険だという立場ですが)。
だからこそ、本研究所は中道において真に積極財政的な立場を確立することを目指しているのです。中途半端な積極財政ではなく、MMTを踏まえた真の積極財政を、それが現に花開いている左右の両極ではなく、ど真ん中の中道において確立すること、それがこの研究所の目標なのです。
補足:現在の大西つねきについて
最後に大西つねきについて少し述べておきます。私はその後も今にいたるまでときおり彼の朝のYouTubeライブを視聴しています。「債務貨幣システム」関連等、経済についての話は、荒削りではあるものの未だに参考になるなと思う一方、れいわを離れて後は精神世界色・スピリチュアル色を強めているようで、この点では私はついていけないというのが正直なところです。
現在の日本の政治地図でいえば、中心に自民と立憲、その少し外側に国民と維新があって、そのさらに外側にれいわと参政があります。この外側にテレビの壁があるといっていいでしょう。いま大西はこのテレビの壁の外側で「無所属連合」として戦っています。私もいまだに大西個人はうっすら応援するスタンスですが、「無所属連合」はあまりに色々と怪しげな要素が入り込み過ぎており、彼の今の活動が実を結ぶのか、実を結ぶべきなのかについてはなんとも未知数としか言いようがないというところです。
- 以下の「」内の引用は次の松尾のエッセイからのものです。「20年7月8日 一応太郎出馬反対したんだけどやっぱり黒幕にされて涙」 ↩︎
- 以下の「」内の引用は次の松尾のエッセイからのものです。「20年7月18日 大西つねきさんの発言をめぐって」 ↩︎


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