「21世紀の政治経済学」の最初のスケッチ

この記事は「21世紀の政治経済学」の全体像の最初のスケッチを与えるものです。

それはさしあたり歴史編・理論編・政策編・政治編・思想編の五つの部門から構成されます。

時間のない方はこちらの3分要約記事をご覧ください。

目次

歴史編―資本主義の三つの段階を識別する

歴史編は資本主義の歴史を素描します。それは三つの段階に分けられます。(1)ルイスの転換点以前の初期資本主義、(2)ルイスの転換点の突破以後、フォーディズムとケインズ主義的福祉国家で特徴づけられる資本主義の黄金期、(3)1970年以降に始まる新自由主義的グローバリゼーションのもとにおける初期資本主義への先祖返り、です。

(1)ルイスの転換点とは、都市・工業への人口流出が進み、農村の過剰人口が枯渇する時点です。それ以前は、農村の過剰人口の存在のため労働者の賃金が上がらないので、社会に分厚い中間層が存在しません。そのため購買力、すなわち需要が少なく、工業化による生産・供給能力の増大に需要が追いつきません。それが1870年代以降の帝国主義の背景となっていました。植民地という仕方で市場の確保としたわけです。また、この論理のために、工業生産力が向上しルイスの転換点を突破する直前に、生産力と購買力とのギャップが最大化し、それが1929年からの世界恐慌の背景となったと考えられます。ここであらわになった需要不足が、帝国主義を市場を囲い込む保護主義・ブロック経済へと発展させ、相対的に植民地を持たない、いわゆる後発近代国家(日独伊)の対外進出を引き起こして、それが第二次世界大戦に繋がったわけです。

(2)第二次世界大戦後は、農村の過剰人口の枯渇によって労働者の賃金上昇が始まりました。そのコスト増を吸収するために、企業はさらなる生産性の向上に努めなければなりません。一人の労働者の生産量が増えれば、賃金が増えても企業は利益を確保できるからです。また労働者の増大した購買力に対応する大量生産も、生産性の向上を可能にしました。そして、生産性の向上はさらなる賃金上昇を可能にします。製造業において、ルイスの転換点突破に起因する賃金上昇から生産性向上へ、そして労働者の賃金上昇が可能にした「大量消費=大量生産」から生産性向上へ、そして生産性向上からさらなる賃金上昇へというフォーディズムの好循環が生まれ、先進国では程度の差はあれ一億総中流的な傾向が生じたのです。政府も総需要管理や社会福祉政策を行うケインズ主義的福祉国家という形で、このシステムを支えました。

(3)1970年にこの体制が絶頂を迎えると、続いて新自由主義的グローバリゼーションの体制が生じました。グローバリゼーションとは農村の過剰人口の再発見です。新興国という新たな農村、新たな過剰人口が発見されたのです。企業の投資は新興国に向かい、製造業が海外に移転します。これが(1)と同様に過剰人口の存在によって、先進国の中間層に解体圧力をかけます。このため中間層は不安から消費を抑制するようになります。また富裕層はそもそも消費性向が低いのです。彼らにとって消費は飽和しており、追加的な消費よりも資産の増加の方が喜びが大きいからです(後述の小野理論)。先進国では、この本国での消費の弱さもあり、グローバリゼーションのなかで投資がますます新興国に向かって、消費と投資のダブルの要因による総需要不足が生じます。そこで長期化する金融緩和のためにバブルとバブル崩壊が起きてバランスシート不況が生じれば、消費も投資もさらに下押しされることになる。これがより一層の中間層解体を進めるのです。あとは悪循環ということになります。

理論編―主流派経済学の崩壊を見届ける

理論編は主流派のマクロ経済学の崩壊を見届ける作業です。私はここではあえて「解体」とは言いません。主流派経済学は時間の経過とともに勝手に崩壊していくでしょうし、私たちの第一の仕事はその崩壊を見届けることなのです。

主流派のマクロ経済学の中核は市場における価格メカニズムの作用を通じた完全雇用の達成の想定です。主流派の均衡財政論は、この市場の完全雇用という想定から導かれます。市場が実物リソースの完全な利用を自然に達成するのであれば、確かに政府が収入以上の支出をし、財政赤字を出す理由は存在しません。財政赤字を出し、民間から奪った購買力以上の購買力を民間に対して行使しても、民間に利用されるはずのリソースを横取りするだけです。

以上から明らかな通り、主流派マクロ経済学の解体は市場における完全雇用の達成を否定することにより成就します。それは供給能力に対して、需要を構成する消費や投資が追いつかないことを示すことです。ただ、先に述べた通り、「解体」は二次的で、一次的なものは「崩壊」です。つまり、時間の経過(人類の進歩と言ってもいいでしょう)とともに生じる供給能力の向上によって、需要はそれに追いつかなくなり、現実が市場における完全雇用の達成の想定を否定していきます。この現実にぶつかって主流派のマクロ経済学は自ずと崩壊するわけです。私たちはこの状況を後追い的に理論化することにより、この「崩壊」を後づけるだけです。ここで「解体」はこのような意味でのみ語り得ると思われます。

私は、このうち消費不足については小野善康の小野理論を基礎に置きます。それによれば、豊かな社会において消費需要は飽和し、人々はお金を使って消費をするよりも、お金が増えることの方に喜びを感じるようになります。消費への欲求を資産選好が上回るようになるのです。

他方、投資不足についてはリチャード・クーの「マクロ経済学のもう半分」の議論を活用します。それによれば、第一に、グローバリゼーションにおいて「追われる国」となった先進国では、企業が、人件費が安く結果として利益率が高い発展途上国での投資に注力するため、先進国では投資不足が常態化します。さらに第二に、それで投資を促そうとして行われる金融緩和が十分な効果をあげられないまま長期化するなかでバブルを生み出し、そのバブルが崩壊すると、債務超過に陥った企業と家計がバランスシートを改善しようと債務返済に走り、どれほど金利を下げても投資が十分に増えない状況に至るというのです。

以上に挙げた消費不足であれ、投資不足であれ、それが発生して総需要不足が生じると、労働力が余って失業や低賃金労働が広がっていきます。これが人々の所得を減らし、人々は将来不安から消費を減らして貯蓄に走ります。すると消費が見込めない企業も投資を抑制します。こうして総需要不足がさらに総需要を不足させ、いわゆるデフレ・スパイラル的な「長期停滞」が生じることになるわけです。

豊かな社会、グローバリゼーション、金融緩和の長期化が生むバブルの崩壊によるバランスシート不況、そしてデフレ・スパイラル。こういった事情から生じる長期停滞状態が、現代の先進国の経済の基調に他なりません。このもとでは労働力が余ることによる失業や低賃金労働の蔓延により中間層が解体されていきます。これが供給能力の過剰という豊かさが根本原因となる「豊かさのなかの貧困」、いやもっと逆説的な「豊かさゆえの貧困」なのです。

次の政策編で言及するMMTは貨幣の希少性という前提を解体しました。これは需要の希少性が存在し得ないことを意味します。政府の通貨発行により需要不足は解消可能なのです。残る課題は現代経済の検討によって、供給そのものの希少性という前提を疑問に付していくことでしょう。第一次産業も第二次産業も高度に機械化され、自動運転が実用化されつつある現代、事務作業もAIによって効率化され、消費がますますデジタルなものに移行していく現代において、供給力不足、限界費用逓増、右上がりの供給曲線といった前提が果たしてどこまで妥当するのか、こちらを検討することで、私たちはあらゆる希少性の思考を打破していかなければなりません。それは供給能力の過剰性を示して上記の議論をさらに強化するのみならず、希少性の学としての主流派経済学の完全な終焉を告示する思考となるでしょう。

政策編―MMTとBIだけが問題を解決できる

政策編の基本はMMT(現代貨幣理論)とBI(ベーシック・インカム)です。

こちらの記事で詳述したとおり、現代の貨幣システムはMMTが記述している通りに作動しています。というか、MMTとはそれを現実通りに記述しようとしたものにすぎません。すなわち、貨幣は政府の決定に起源があり(主権貨幣論)、中央銀行(日本では日銀)によるマネタリーベースレベルの信用創造と民間銀行によるマネーストックのレベルの信用創造によって発行されます(信用貨幣(論)の現代的形態としての銀行貨幣)。ここで信用創造とは銀行が資産(主に借り手の借用証書)を引き受けることによって、その資産と同額の負債として銀行預金を発行することを意味します。

信用貨幣は負債ないし借用証書であり、その根拠はその借用証書に対して何が交換に返済されるかに存します。銀行預金という信用貨幣の根拠は日銀券との交換です。では、日銀券とその根本にある日銀当座預金の根拠はなんでしょう?それでできることは実質的には国債を買うことと税金を払うことだけです。国債は将来の日銀当座預金を得る権利だから、それを買っても日銀当座預金と日銀当座預金を交換しているだけです。

だから、この信用貨幣を外部へと繋げ、外部からそれを支えているのは、納税のみなのです。信用貨幣はその外部にあるものとの交換によって支えられます。日銀当座預金の外部への通路は納税のみです。だから税金が現代貨幣の究極の通用根拠なのです(租税貨幣論)。マルクスではないですが、「彼らはそれを知らないが、それを行う」。現代国家に生きる人々は租税貨幣論を知らないが、貨幣を受け取ることにおいて、日々、租税貨幣論を生きているのです。

さて、国債は日銀当座預金でしか買うことができず、日銀当座預金は日銀しか発行できません。だから、国債発行は究極的には常に財政ファイナンスです。私は明示的財政ファイナンスを支持します。なぜかといえば、今行われている実質的財政ファイナンスを明示的財政ファイナンスとしないことによって、金融機関ないし富裕層に利払いを行うという不要なコスト(余分な購買力の創出)が発生しているからです。国債を日銀が引き受ければ、このような利払いの必要はなくなります。

MMTからすれば税は財源ではなく、支出は明示的財政ファイナンス等の通貨発行によって行えばよいということになります。究極的な財源は、民間の需要によって使われていない余剰の供給能力です。だから、理論編におけるマクロ経済的な需要不足の論証は、実はMMT的な政府の財源論を構成しているのです。現代においては総需要が慢性的に不足する。それは政府が赤字支出をする財源を持っていることを意味します。

私は理論編で供給能力の過剰を指摘しました。それは小野やクーの理論にさしあたり依拠していますが、最終的には供給曲線の右肩上がり(限界費用逓増)というミクロ経済学的な認識を解体することによって、その議論は完結するのだと思われます。このもとでは需要を増やし供給を減らしていく政策が要求されていくわけですが、その強力な方法がBI(ベーシック・インカム)に他なりません。BIは労働供給を減らしつつ、財やサービスの需要を増やすことで完全雇用を達成します。

現在のMMTの主流は、インフレへの警戒からBIに批判的でJGP(雇用保証プログラム)を選好しますが、供給過剰が進みインフレよりデフレの方が徐々に恐るべきものとなっていくなかで、いずれBIによって一人一人が労働したいと思う時間を減らすことによってのみ、完全雇用が現実的に達成可能だという状況になるでしょう。BIによるいわば完全生存の保証によってのみ、完全雇用が達成可能だという時代が来るはずです。

私は左派積極財政と右派積極財政を区別します。右派積極財政は主に供給能力の強化を目指し、財政は主に供給能力強化のための投資に用いられる。右派は経済成長を志向すると言ってもいいでしょう。左派積極財政は人々の生活水準の維持向上を目指し、財政は主に福祉サービスや人々の消費購買力を支えるために活用されます。BIは左派的です。供給能力が不十分であるうちは右派積極財政と経済成長が正当化されますが、それが十分なものとなっていくにつれて、既存の供給能力を人々の生活を支えるために公平に分配することを目指す左派的なものに重心を移していくことができますし、またそうしなければならないでしょう。

また、右派積極財政の局面においては、財政制約というこれまでの政策がとらわれてきた偽の制約を取り払い、真の制約は物理的な供給制約であることを明白にすることによって、政府の政策はこの物理的な供給制約の除去や緩和に集中すべきことを明白にすべきです。食料やエネルギーなどの生活必需品の供給能力の強化、医療や福祉や建設などあらゆる分野における省力化の推進、地球の環境的な限界への配慮とそれを乗り越えることへの創意工夫には、まさに文字通り「お金を惜しむ」べきではないのです。これらの目標に対してであれば、政府にとってお金は全く惜しくないはずです。惜しいのは人々の労力であり、有限な実物資源なのですから。こういった点の改善が十分に進むことにより、左派積極財政への局面転換も可能になるでしょう。

政治編―もはやカウンター・カウンターエリート戦略しかない、のか?

政治編は現代の政治情勢を認識します。歴史編で資本主義の第三フェーズとして扱ったグローバリゼーションと新自由主義の時代は初期資本主義の焼き直しであり、供給過剰・需要不足による労働力余りゆえの失業・低賃金によって中間層の没落が生じます。

初期資本主義時代の最終期(供給能力が十分に向上したこの時期にこそようやく供給過剰の問題が本格的に生じ得た)に位置する1929年以降の政治過程においては、需要不足を解消するため、各国は保護主義・ブロック経済に走り、植民地を持たない強国は市場確保のために対外進出の必要性を感じることになりました。

また、中間層の没落は既存の政治勢力への不信感につながり、急進的な右派と左派が躍進するが、社会の中心を占める中間層が没落する際には、普遍主義的でもっとも恵まれない立場から立論しがちな左派よりも、外部の敵を認定して、そこから本来の私たち(=一般国民)の生活を取り戻すという右派的な立論が優位しがちです。これが急進的な左派と右派の競り合いにおいて、左派の共産主義に対して、ファシズムと呼ばれる民族主義的・権威主義的体制を最終的に勝利させたと考えられます。

現代もこの状況に酷似しています。新自由主義的なグローバリゼーションによる中間層の没落は、先進各国で既存のエリートへの信頼を低下させ、急進的な右派と左派を伸長させています。ただ、普遍主義的なためにグローバリゼーションを正面から批判できず、また普遍主義的な立場から、もっとも弱いとされる特定の弱者(女性・外国人・障害者…)に肩入れしがちな左派は、国家主義・民族主義によってグローバリゼーションを正面から批判し、不法移民に象徴される外部の敵を想定しつつ各国における「普通の人々」を堂々と肯定しようとする右派に対して旗色が悪いようです。

極右ないし右派ポピュリズムの台頭が先進各国で著しく、一種の保護主義的傾向が高まりつつある所以です。それは外国への攻撃的・挑戦的な姿勢にも転化しかねないでしょう。

この経路を逆転させ、100年前と同じ轍を踏まないために重要なのは、国家は不足する需要をいくらでも通貨発行によって補完できるという、MMT + BIの政策論の採用です。MMT + BIにより豊かさゆえの貧困による中間層の没落を防ぎ、需要を奪い合う保護主義的な傾向を押し留めることが、かつては世界大戦に繋がったような国際的な対立の激化(あるいは少なくとも先進自由民主主義国の自壊)を抑止する(私の知る限り)唯一の方法です。皮肉をこめて言えば、各国政府が、供給能力と需要とのギャップを埋める責務を放棄しながら、財政「再建」を志向すればするほど、財政ならぬ世界の方は破滅に近づいていくのです。

既存の政治家・官僚・学者・知識人・メディア人などのエリートは頼りにならないように思われます彼らはこれまで主流派経済学という、「事実に基づかない」「フェイク・ナレッジ」(ビル・ミッチェル)を信じ込んで政策を遂行してきており、今更、その誤りを自覚し、改めることは困難でしょう。それは反省し改めるには、すでにあまりに多くの被害をもたらし過ぎています。真面目に反省しようものなら自らの罪の重さに押し潰されるでしょう。だから彼らは最期まで主流派経済学という「事実に基づかない」デマを撒き散らし続けるのではないかと思います。私たちとしては、彼らのメンツより、現在と未来の人類の幸福の方が重要であるというだけのことです。

しかし、状況がこうだとすると、私たちは、左右両極で急進しつつあるポピュリズムと結託するカウンターエリートの側に立たざるを得ないのかもしれません。そのうちでも、先に述べた理由により、有望なのは右派でしょう。ただ、右派のカウンターエリートの危険な点は、それこそ100年前のファシズムへの道をそれがたどりかねないことです。

それを防ぐ唯一の道は、繰り返しになりますが、最終的にはMMT + BIによる中間層没落の抑止であり、そうして現実を改善することで外国(人)等々の外部の敵の想定が大局としては疑似問題に過ぎないことを気づいていくことです。

マネーはノーコストで製造可能であり、本当に作るのが難しいのは財やサービスですが、それが足りないという話はほとんど聞いたことがありません。聞く話はお金が足りないという話ばかりなのです。だから現時点でも皆が満足する分配は可能です。パイは十分に大きいのです。そのことに気づいていくこと。そのようにして、カウンターエリートの側に立ちながら、このような気づきを通じて、その運動が孕むファシズムや対外的攻撃性への傾向をその内側から反転していくこと、この意味でのカウンター・カウンターエリート戦略しか私たちにはもはや残されていないのかもしれません。

そう考えたとき、いわゆる極右ないし右派ポピュリズム政党の評価は、その経済財政政策認識によって決定的に左右されるます。旧来型の右派のような新自由主義的・リバタリアニズム的な小さな政府路線は論外です。それは需要不足の状況を悪化させ、さらなる政治の不安定化にしかつながり得ません。

そうみると日本は相対的にいい位置にあるといえそうです。さまざまな立場が野合して一貫性を欠くトランプ政権や、論外の緊縮ネオリベAfDなどとは異なって、参政党に代表される日本の右派ポピュリズムは、右派の安倍晋三が左派的なマクロ経済政策を採用した歴史的経緯の流れを受けて、ある程度以上にMMT的だからです。日本の右派ポピュリズムの支持層の一部には排外主義的傾向やネオリベ的なものの残滓その他の危険な傾向が認められるとはいえ、その政策にMMTが埋め込まれている限りでは、その最良の部分から、そのような悪しき傾向を根源的に反転させる可能性も同時にそこにあるはずです。

その良き可能性を引き出すこと、そこにカウンター・カウンターエリート戦略への希望があります。私自身は中道であり、あくまで中道として生きていきたいと思っていますが、私が支持できるような経済学が異端的なものとして、社会の中心から排除され、いわゆる左右のポピュリズムにおいてしか生きていない以上、現実の政治的選択としては、このような方向性しかないのではないかとも思うのです。

思想編—ポストモダン:未完のプロジェクト

最後の思想編は以上の議論の全てをより広い思想的な文脈の中に位置付けます。その議論は「ポストモダン:未完のプロジェクト」とでも名付けられるものとなるでしょう。

カエサルとブルータスとオクタヴィアヌス—歴史的出来事の反復について

これはどういう意味でしょうか。私は先述の小野理論を「貯蓄社会」の理論と位置付けています。かつて1970年代から80年代にかけて「消費社会」論というものが盛んに論じられました。それまでの「生産社会」に対して、生産の反対語である「消費」へと社会の重点が移ったというわけです。

高度成長以前、モノは足りず人々の消費意欲は旺盛でした。重要なのは生産であり、生産しさえすれば、モノは飛ぶように売れていきました。もっと生産する、そのためには人々は生産されたものをすべて消費するのではなく、貯蓄を行い、より多くの生産を可能にする投資のために資源を取っておかねばなりませんでした。1個のイモから10個のイモができるとして、生産された10個のうち5個だけしか消費せず、5個を貯蓄しておけば、それが投資となって、次の年には50個のイモを生産できるのです。このときに重要なのは生産のためにがむしゃらに働くことであり、将来のより多くの消費のために、消費そのものを我慢し貯蓄することです。

高度成長が終わると、人々の消費意欲は飽和し始めました。いまや重要なのは、生産でも、より多くの生産をするための投資でも、それを可能にする「消費の我慢」としての貯蓄でもなく、消費そのものです。もはや、将来の享受のために我慢して働くことではなく、享受そのものが焦点化されなければなりません。それが「消費社会論」の核心にあった確信でした。それまた、一直線に「進歩」を目指し称揚し、我慢しながらがむしゃらに働いてきた「近代」が終わるのではないか、「ポストモダン」が来るのではないかという当時の議論の核心にあった確信でもあったのでしょう。人類が進歩して自らを解放し完成させるという近代の「大きな物語」が終わりつつあったのです。

しかし、「ポストモダン」は「未完のプロジェクト」なのです。なぜでしょうか。「消費社会」は流産し、「貯蓄社会」が生まれたからです。それがいわゆる市場原理主義的な新自由主義の介入の結果であり、それがヘゲモニーを握った結果です。高度成長が終わり、需要が飽和しつつあり、まさにその需要をどう管理するかがこれから重要になってくるときに、新自由主義的なサプライサイド経済学が台頭し、供給をどう伸ばすかが重要だと言い始め、供給を伸ばす市場競争を促進すべく、民営化、規制緩和、減税を推進し始めたのです。

この結果が需要不足による経済停滞の長期化です。労働力は余り気味となり、失業や低賃金が常態化しました。競争がいわば人為的に激しくされ、多くの人々が不安から消費を我慢して貯蓄に励むようになります。それがさらに需要不足を生むという理論編で述べたデフレスパイラル的な悪循環が始まったのです。この流れには労働者の力を弱める二つの事態、グローバリゼーションの進展と社会主義圏の崩壊も大いに寄与したことでしょう。

このポストモダンの流産は、明らかに時代の流れに逆行しており、反動的です。私たちは、おそらく、ここにヘーゲルが述べたような歴史の反復の論理を見るべきなのでしょう。ローマが帝政に移行するのも一筋縄ではいきませんでした。皇帝としての地位を初めて手中に収めつつあったカエサルはブルータスに殺され、オクタヴィアヌス(アウグストゥス)によるカエサルの反復でもって初めて帝政は確立したのです。簡単に言ってしまえば、ポストモダンな消費社会はカエサルであり、新自由主義はブルータスであり、MMTはオクタヴィアヌスでしょう。

それにしても、なぜ新自由主義は勝利を収めたのでしょうか。新自由主義論で定評があるデイヴィット・ハーヴェイは新自由主義をブルジョア階級によって仕掛けられた階級闘争だと位置付けていましたが、問題は、なぜそこで少数に過ぎないブルジョア階級が勝利したのかです。私は、新自由主義の勝利の理由は道徳、モラルの問題に求められると思います。

ここで重要なのがダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』です。ベルのいう文化的矛盾とは、資本主義はその発展のためには、供給面において、「プロテスタンティズムの倫理」のような、ガムシャラに働くことを正当化する倫理を必要とするけれども、その発展の目的を考えてみれば、需要面において、とにかく楽しめという刹那的で快楽主義的な倫理を育てざるを得ない。こうして資本主義は発展することによって自らの倫理的・文化的な基礎を掘り崩すというのです。

新自由主義は本質的には経済学というより道徳的説教であり、ブルジョア階級のみならず、この矛盾に潜在的な不安を感じていた人々、これまで自らが生きてきた倫理が覆されることをよしとしなかった人々、道徳の空位化に恐怖する人々に対して、昔ながらの労働倫理を再び説く道徳的な説教として広く受け入れられ、それによって勝利したのだと思われるのです。

これと興味深い並行関係にあるのが、まさに貨幣の領域です。1971年のニクソン・ショックによって、金本位制が最終的に崩壊し、国家に財政「規律」として課せられていたタガが完全に外れました。新自由主義の完全に無根拠で出鱈目な均衡財政論は、この金本位制の終焉による規律の空位化を抜きには理解できません。この時期より前には、むしろ、機能的財政論は常識に属していたのです。金本位制の終わりとともに空位となってしまった規律の座を埋めるために、新自由主義は均衡財政の神話、「財政赤字の神話(ケルトン)」を作りあげたのです。ここでも、問題は本質的に道徳的なもの、規律の不在と見えるものへの不安に対処することでした。

このような道徳的不安を考慮に入れなければ、ハイエクやフリードマンがあれほど頑張り、その言説がこれほど受け入れられている現状は理解できないように思われます。

これにどう対応するべきでしょうか。まずは先のローマ帝国のたとえ話に戻ることが重要です。ブルータス(新自由主義)はカエサル(ポストモダンな消費社会)を殺すことはできたものの、結局、オクタヴィアヌス(MMT)が反復的に回帰してきて、ローマは帝政へと移行します。この移行は客観的な条件、今回であれば、供給能力が過剰な豊かな社会という客観的な条件に支えられており、究極的には回避できないのです。

その上で、この規律の不在という道徳的な不安にいかに対処するべきなのでしょうか。まず重要なのは、この規律の不在という感覚が、そもそも資本主義とそれと結託する経済学が生み出していることを認識することです。すなわち、経済学はホモ・エコノミクスと呼ばれる自己利益の最大化を志向する利己的人間を前提とし、市場とはその利己的人間を他者に奉仕させる唯一の方法なのです。自己利益を最大化するためにお金を儲けたかったら他人に役立つことをしろ!というのが市場の命令であり、これにより市場は自己利益だけを追い求める諸主体から「神の見えざる手」によって利他的な行為を引き出し、またそれによって可能な限り最善の社会状態を引き出すというわけです。

こうして資本主義と経済学は人間を利己的主体とみなして、人間性から道徳性を取り払ってしまい、彼らに市場での競争という外在的な規律だけを与えます。こうすることで、市場での競争の除去が一切の道徳の不在となってしまうのです。

財政規律についても同様です。政治家を利己的主体とし、予算を使って有権者に利益供与を行うことで自らの得票数を最大化する存在だと単純化すれば、確かに予算制約の不在は無限の財政支出に繋がり、ハイパーインフレを引き起こすでしょう。ただ、問題はこの前提に潜む異常な単純化なのです。政治家を利己的主体だとするにしても、その行う合理的な最大化があまりに単純な論理に依拠し、全然合理的でないのです。

事態が以上のようであるとすれば、私たちのなすべきは経済学とは異なる主体の概念を練り上げることであり、人間性に内在的な道徳を再び発見し、活性化させることでしょう。それにより、資本主義と経済学が作り出してきた「市場競争の緩み」=「道徳の空位化」という恐怖の物語を乗り越えることです。

戦後日本思想の到達点を訪ねる—見田宗介と柄谷行人

ここで日本の思想に目を移してみましょう。戦後の日本の思想の到達点を代表する人物として、見田宗介と柄谷行人が挙げられることがしばしばあります。この二人の思想について考えてみましょう。

見田は上記の消費社会への転換をもっとも鮮烈に生き、もっとも深くから理論化しようとした思想家だったと言えるでしょう。上記のたとえでいえば、いわばカエサル的なポジションです。見田は未来の目標に向けて現在を従属させる生き方、その自らの目標に対して他者を従属させる生き方から、現在の享受を他者と共有する生き方への変化を理論化しようとしたわけです。これは明らかにこれまで述べてきた時代の転換と残る倫理的課題に対応しています。

見田の問題は、私のさしあたりの印象では、社会主義圏の崩壊を受け止めた末の資本主義への転向の経験の意義が重大すぎたがために、資本主義の反動化を十分に見ることができなかったように思われる点にあります。カエサル(消費社会)はブルータス(新自由主義)に殺されていたのです。この暗殺の結果、生産社会より断然に不毛な「貯蓄社会」が生み出されてしまいました。

生産社会では、我慢は確かに将来のより大きな享受のための我慢になっており、それで実際に将来の全体の生産量が増えうる状況だった、その我慢には意味がありました。消費を我慢する貯蓄が、企業の設備投資への実物的な余力を生み出したのです。他方、今日の我慢は将来のより大きな享受には必ずしも結びつかず、ただ不安やフェティシズムからお金という情報を蓄積しているだけですし、需要不足による人あまりによって、富裕層・中間層とそこからこぼれ落ちる人々の分断を作り出し、それを強化しているだけなのです。見田の理想、現在を他者とともに享受することのまさに反対物、しかも、生産社会におけるのと違って、まったく無意味なそれが生み出されているのです。

このことを見田は十分に見れていないように思われます。それは見田がある本質的な意味で昭和の思想家だったということなのかもしれません。日本が一億総中流を形成しつつバブルのなかで消費社会的な繁栄を享受し、社会主義が崩壊していくなかで終わっていった昭和の風景が、見田の視界に平成以後の反動の勝利を映らなくしてしまったのではないかと思われるのです。

したがって、結論はこうです。私たちは見田の思想の根本の方向性は引き継ぎつつ、見田があまり見なかった資本主義の反動化と、それに対処する資本主義の内在的転回を理論化する必要があるのです。もちろん、それが上でやってきたことです。

柄谷はどうでしょうか。先ほど見田の資本主義への転向ということを語りましたが、柄谷の特徴は転向の拒否でしょう。社会主義の崩壊、NAMの失敗を乗り越え、柄谷は独自の交換様式論を体系化しました。それによれば、現代は、資本=ネーション=国家の三位一体体制であり、それは資本が代表する交換様式C(商品交換)、ネーションが代表する交換様式A(互酬性)、国家が代表する交換様式B(略取と再分配)の結合体でもあります。これに対して狭い共同体的制約を乗り超え普遍化されたAとしての交換様式Dが回帰してこなければならないとされるのです。

さて、この資本=ネーション=国家の三位一体とは、柄谷自身も述べている通り、ヘーゲルがその『法哲学』で決定的な仕方で理論化したものです。簡単に言えば、ヘーゲルは勃興する資本主義的な市場経済を国家によってマネージできると考えたわけですが、『法哲学』批判から出発したマルクスは、それを不可能とみて資本主義を転覆する革命の論理を練り上げたわけです。

もちろん、柄谷はマルクスの側に立っています。それに対してMMT的な国家主義者である私はヘーゲルの側に立ちます。このことが私が「信用貨幣の弁証法」について語るときに意図していることの一つです。ヘーゲルの国家論には中央銀行がありません(当時、現在のような中央銀行はなかったので当然ですが)。私の「信用貨幣の弁証法」は、ヘーゲルの教えに従い(?)、「真理を実体としてのみならず主体としても把握する」ことを旨として、まさに実体である商品貨幣から、その子どもとして信用貨幣が生まれるというところから出発して、この信用貨幣がまさに主体として、さまざまな否定に直面しつつ、その否定を否定してより高次の形態へと展開していく弁証法的過程の論理的歴史を語りました。その形態展開の帰結が中央銀行制度であり、さらにはポスト金本位制の現代のMMT体制です。

かくして「信用貨幣の弁証法」はヘーゲルの国家論を補完するものであり、それをMMT体制にまでアップデートするものです。それにより国家による市場経済のマネージ力を強化するものであって、ヘーゲル自身が国内の需要不足による植民地主義の進展、そこからの戦争への流れを描いていたことに対して、その流れを断ち切るものです。MMT的な国家の構想は、柄谷の言葉でいえば、国家を交換様式Bから交換様式Aの媒体へと転化していくことを意味するでしょう。国家は(余剰の供給能力がある限りで、つまりその時々の労働のみならず、資本や技術や知識の蓄積を含めた人々総体の努力とその積み重ねの範囲内で)財政赤字を出す贈与的な主体となるのです。そこには柄谷の求めるDのような普遍性はありませんが、このような転化こそが戦争への流れを断ち切り国家間の対立を緩和する条件、普遍性への現実的な経路を作り出すのです。

ニーチェ、ハイデガー、ヘーゲル、三者三様の「否定」との関わり

また私は柄谷の交換様式Dの語り方にも賛成しかねます。それは「外部」を宗教化する神秘主義、私の言い方では「否定の神秘主義」に陥っているように見えます。この点を私はニーチェ、ハイデガー、ヘーゲルの3者の関係によって考えることができるように思います。

「否定」ということとの関わりで3者を位置付けたいのです。

ニーチェは「ニヒリズム」の哲学者として、ある意味では「否定」の哲学者でした。ニーチェの理論化によれば、人が現世を絶対否定して、その彼岸に神のような理想を立てたのがプラトン主義からキリスト教に至る流れであり、逆に神というものが、このような否定操作の産物でしかないことが明らかになって結果がニヒリズムです。人間は、現世をまずは否定し、彼岸に価値の源泉を置いた。そのようにしていったんは全価値の根拠となった彼岸が、その実、空虚であることが自覚とともに、すべての価値が崩壊するニヒリズムが訪れる。私の理解によれば、ニーチェの解決は絶対的な肯定です。最初の現世否定がなければいいのです。それは否定を根こそぎ除去してしまうという意味での「否定の否定」であり、「力への意志」という、いささか無反省で独善的な匂いのする思想の淵源は、この一切の否定の除去にこそあったと思われるのです。

ハイデガーは「存在」の哲学者として、優れて「否定」の哲学者でした。ハイデガーは彼の求める存在と、存在者は違うのだという存在論的差異を執拗に論じましたが、そこで彼が考えていたのは、存在は無だということです。私たちの眼前にはさまざまな存在者がある。パソコンも、コーヒーも、机も、全部存在するもの、存在者です。それに対して存在は無です。というのも、無との直面こそが、それの反対物として、存在するということをもっとも鮮烈に理解させるからです。これがハイデガーが無との直面としての死への先駆なるものを重視した理由です。後期のハイデガーは、死への先駆などという積極的な語り口を改め、「存在=無」の到来をただただ待ち望むという姿勢に転じ、そのために存在者から身を引き剥がしておくという「放下」を推奨しました。このように絶対的な否定が到来するのをただただ待ち望むというのが、私がいう「否定の神秘主義」です。

ヘーゲルが「否定」の哲学者であることには異論はないでしょう。あるものに対して否定が到来し、その否定を否定することでより高次のあるものに至るという、いわゆる弁証法的な過程こそヘーゲルの代名詞です。ですが、決定的に重要なのは、この弁証法的な論理の根本を人間主体の構造のうちに見定めることです。ヘーゲルにとって、これはデカルト以来の西洋哲学の常識ともいえるでしょうが、人間的な主体とはまずもって絶対的な否定でした。そして、だからこそ人間はあらゆる否定を乗り越えることができます。人間的な主体はさまざまな否定に直面するものの、そもそもが絶対の否定であるがゆえに、その否定を否定し乗り越えることができるのです。そして、それが直面する否定とは自らの特殊性に対する否定ですから、否定の否定によるその乗り越えの過程とは主体の普遍化の過程、要するに主体の成長・発展過程そのものに他なりません。人間的な主体はまず絶対的な否定であることで、普遍化を運命付けられており、また普遍化の過程に耐えうるのです。

ニーチェ的な「否定の除去」、ハイデガー的な「否定の絶対化・神秘化」、ヘーゲル的な「否定と『否定の否定による成長・発展・普遍化の論理」。私からすれば、この中で選ぶべきなのがヘーゲルの立場なのは明らかです。それに対して、柄谷は「ハイデガー的、あまりにハイデガー的」です。かくして、柄谷は交換様式Dの到来を待ち望むのに対して、私としては、信用貨幣の弁証法過程、それ自体が結局、人間精神の弁証法過程に他ならないわけですが、その過程の終着点としてのMMT体制の適切な活用を志向したいのです。

そういうわけで結論はこうです。戦後日本思想の到達点に立つとされる二人、見田と柄谷は、それぞれ資本主義の現状肯定と資本主義そものの絶対否定とを代表しており、問題はその間、資本主義の内在的転回の論理が存在していないことです。21世紀の政治経済学は、まさにこの空白を埋めようと志向するものなのです。

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