令和日本の「良識」を求めて—戦後リベラル左派の賞味期限切れの先に

令和日本の「良識」を求めて—戦後リベラル左派の賞味期限切れの先に

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今回の記事では、令和の日本において「良識」的とされる立場の再構築が必要であることを論じます。

目次

戦後「良識」の解体と、「良識」再生の必要性

令和の日本には「良識」の再構築が必要であるように思われます。

なぜでしょうか。

それは旧来型の戦後の「良識派」知識人と、その論調に同調するマスメディアの賞味期限が完全に切れたと思われるからです。

このことは世界的にはトランプ大統領の再選や、日本ではここ数年の政治過程において徐々にに明らかにされてきているように思われます。

日本においては、いわゆる「良識派」に属すると見られる人々のかなりの部分とマスメディアが、もはやまともな現実認識すらできず、対立する意見の人々は一顧だにせず、ただ昔に学んだ呪文を繰り返す程度のことしかできないことが露呈しつつあるように思うのです。

このことは、すなわち、現代の日本において、あるいは広く現代の世界において、「なにが良識的な見解なのか」、それについてのコンセンサスが消滅し、「良識」の位置が空白になっていることを意味します。

現実自身が大きく変容するなかで、「良識」、あるいはもっと広く「常識」と呼ばれるものが激しく動揺しているのです。

ここで「常識」と「良識」を区別しておけば、「常識」は現在の社会のあり方、つまり、現実を前提として、それに適合的な知識の体系であるのに対して、「良識」は、その中でも「良い」部分ということで、「常識」に根差しつつも、現実の社会のあり方をより「良い」方向に方向づけるような知識の体系だと考えることができるでしょう。

このような定義からして明らかなように、「良識」は、現実をより良くしていこうという「革新」、もっと最近だと「リベラル」と呼ばれている立場と相性がよく、実際、「良識派」知識人とは、これまで基本的に革新ないし左派リベラル系の立場をとる知識人のことでした。

だから、「良識」の位置の空白化、「良識派」知識人の賞味期限切れとは、すなわち、旧来の戦後左派リベラルの立場の失効を意味します。

その立場は、先の「良識」の定義に反して、先に述べたように、もはや現在の社会や世界のあり方に適合せず、過去に学んだり考えたりした呪文をひたすら繰り返しているにすぎないように思われるのです。それは現実をより良い方向に向かわせるどころか、ただ現実に置いていかれているだけなように見えるのです。

しかし、社会には良識に関わるコンセンサスが必要です。社会が円滑に機能するためには、まず第一に皆が共有する「常識」が必要です。しかし、それだけではありません。社会には、その動きを自然に任せるのではなく、それを意思的に方向づける「政治」が存在している以上、社会のより良い方向についての常識、すなわち「良識」も必要とされるのです。

いまや空位となった良識の位置に、新しい良識を構築すること。いま、そのことが求められているのです。

以下では、そのための準備の最初の一歩として、旧来の戦後型「良識」の構成要素を分析することで、新しい「良識」の立ち位置を探る出発点としたいと思います。

戦後日本の「良識」の構成要素を分析する

繰り返しになりますが、「良識」は、社会を良い方へ方向づける知識の体系です。それは現実に根差し、現実に適合的な知識の体系である「常識」の一部でありながら、そのうちの「良き」部分です。

こういうものとして、「良識」は「改革」を志向します。そしてより良きものを目指す「改革」は、悪しきものの顕現としての「失敗」から生まれることが多いと言えるでしょう。

このようなわけで、以下では、近代日本のいくつかの「失敗」から、「改革」を志向する「良識」が生まれてきたことを確認します。

非武装平和主義―反戦平和・憲法護持・国際主義

さて、近代日本の最大の失敗といえば、それがどのような意味で失敗だったのかは議論があるにせよ、やはりアジア太平洋戦争(大東亜戦争)であることは論を俟たないでしょう。

この失敗の反省から生まれたのが、反戦平和主義であり、戦争放棄を謳う憲法9条の護持であり、戦争を起こすような国家という代物を相対化しようとする国際主義です。これらを一言でいえば、非武装平和主義ということになるでしょう。

反資本主義―格差批判とエコロジー

続いて、日本に限らず近代世界全体の最大の成功の要因であり、またそうであることで大きな失敗の要因であったものが、資本主義です。

この失敗の側面から生まれてきたのが、格差批判とエコロジーでしょう。

先進国において、1970年頃までは、資本主義のシステムにおける労働者の困窮という格差批判と社会主義という解決策がメインテーマでしたが、先進国が高度経済成長を成し遂げ、労働者の一定の富裕化が達成されると、このテーマは下火とならざるを得ませんでした。

ここから二つの流れが生まれたのです。

一つは、(男性)労働者の一定の富裕化を踏まえて、格差批判の対象を、資本家と労働者との格差ではなく、男性と女性の格差、日本人と外国人の格差、異性愛者とLGBTQの格差…などなどへと移していく方向性です。これはさまざまな「属性(アイデンティティ)」を持つ集団の権利擁護の運動として「アイデンティティ・ポリティクス」と呼ばれます。

また、この流れは、先進国内の格差ではなく先進国と発展途上国との格差を問題化していく潮流にも派生しました。ポスト・コロニアリズムなどと呼ばれる植民地主義批判の潮流です。

もう一つは、地球環境への注目、エコロジーへの志向です。資本主義の無限の発展が、有限な地球環境を破壊し尽くしてしまうというわけです。日本では高度経済成長期の三大公害病を端緒として環境破壊の問題が注目されるようになり、現在では二酸化炭素による地球温暖化を脱炭素化によって食い止めようという問題設定が主流となっています。

合理性と普遍主義

最後に「良識」には、その基調として「合理性」と「普遍主義」が埋め込まれていることも考慮しましょう。

現状肯定に理屈はいりませんが、改革には現状の問題点の指摘と、改革案の提案、それらを積極的に正当化することが不可欠であって、そこで鍵になるのが主張の合理性です。

合理性は理性の働きであり、理性を持つ誰にでも納得されうるという触れ込みのものです。そういう「誰にでも」というものとして、理性と合理性は、普遍性への傾向、普遍主義的な傾向を持っています。

「良識」は人権概念を重視しますが、人権は、人間なら誰でも普遍的に持っているとされる権利であり、理性と合理性は、この普遍性を貫徹しようとします。

だから、旧来の戦後的な「良識」は、戦前の国家主義の反省もあって、人権概念を重視しつつ、その普遍化を志向しました。そこでは、民族や国家のような、どこまでいっても恣意性が残る区別を排することが理想とされたわけです。

国際主義的な反戦平和主義にしても、格差批判、すなわち平等化の対象をどこまでも広げていく傾向にしても、また、最終的には動物の権利まで考えるようなエコロジーにしても、その底流には合理性の重視から帰結する普遍主義が存在しています。

結語:令和日本の「良識」を求めて

新しい「良識」を求める前提は、旧来の「良識」の崩壊状態です。

とすれば、新しい「良識」を求めるにあたっては、以上のように分析された構成要素のそれぞれに関して、旧来の「良識」がいかに行き詰まっているのかの分析が必要とされるでしょう。

そしてまた、新しい「良識」はこれらの構成要素の全てに関して、自らの説得的な立場を打ち立てなければならないでしょう。そうでなければ、それは「良識」の継承であると名乗る正当性を持ち得ないからです。

今後は、この方向性において探究を進めていきたいと思います。

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