再劣化した資本主義—グローバル化・新自由主義・「貯蓄=投機」社会

再劣化した資本主義—グローバル化・新自由主義・「貯蓄=投機」社会

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この記事は「資本主義」解説シリーズの第三弾完結編です。

一度はマトモになり、多くの人々の生活を豊かにし、首尾よく社会主義を下した資本主義が1970年以降、再び劣化していった理由を解説します。

資本主義という語の基本的な意味を解説した第一弾
資本主義が一度マトモになり社会主義に勝てた理由を解説した第二弾

も合わせてご覧ください。

さて、資本主義が劣化した理由は、それがマトモになった理由をひっくり返したものです。

なので、まずは第二弾の記事で論じた「資本主義がマトモになった理由」を復習し、その後、それをひっくり返して「資本主義が劣化した理由」を明らかにしましょう。

目次

資本主義がマトモになった四つの理由を復習する

第二弾記事の明らかにした資本主義がマトモになった理由は以下の四点です。

  • 農村の過剰人口が枯渇する「ルイスの転換点」が突破され、人手不足から労働者の賃金に上昇圧力がかかったこと。
  • この圧力に対応するため、ベルトコンベア方式による大量生産を中核とする「フォーディズム」が形成され、労働者の賃金上昇と生産性向上との好循環が形成されたこと、つまり、「大量消費=大量生産」社会への道が開かれたこと。
    また、大恐慌の経験を踏まえ、政府が財政支出を通じて需要を支えつつインフラ等を整備するべきであるという「総需要管理」政策を掲げるケインズ経済学が主流となったこと。二つを合わせて成長に必要な需要の創造と供給の充実の双方に道筋が開かれたこと。
  • 社会主義の挑戦を受けた資本主義が、労働者を繋ぎ止めるために社会保障を充実させた福祉国家を形成せざるを得なかったこと。
  • 人手不足、「大量生産=大量消費」、政府による需要創出、国家への奉仕への見返りとしての社会保障の提供、その全てを極限まで推進する結果となった「総力戦体制」の経験

人手不足の圧力のもとでの生産性向上によって可能になった労働者の賃金上昇が、労働者による大量消費を可能にし、大量消費に支えられた大量生産がさらなる生産性の向上と賃金の上昇を可能にする。こうして供給と需要が両方とも高まっていく急速な経済成長が生じ、それをケインズ主義と福祉国家が側面からサポートする。

萌芽的に形成されていたこれらの動向が「総力戦体制」へとなだれ込み、「総力戦体制」のもとで完成へともたらされたのです。戦後から1970年ごろまでの先進国の高度経済成長は、この一連の仕組みが持っていたポテンシャルを実現し、その果実を収穫する時代でした。

資本主義が再び劣化した理由

戦争から一世代が経過し、戦後システムのポテンシャルが汲み尽くされる

資本主義の劣化は、戦争から一世代分の時間が経過し、この一連の仕組み、戦後システムとでも呼ぶべきもののポテンシャルが組み尽くされ、先進国の高度成長が完遂された1970年ごろに始まりました。

この頃には、フォーディズム型の大量生産で生産される耐久消費財、三種の神器と呼ばれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫、3Cと呼ばれたカラーテレビ、車、クーラーがほぼ普及を終えました。また上下水道、電気、ガスといった生活インフラ、道路や電車といった交通インフラも一定の普及を見ました。これに伴い需要が頭打ちとなり、経済成長の停滞が時代の基調となります。

オイル・ショックとスタグフレーションによるケインズ経済学の失墜

一方で、このころの先進国を不意に(といってもある意味では必然的に)襲ったのがオイル・ショックです。第四次中東戦争をきっかけに石油価格が数倍に高騰、先進国社会はこのためコスト・プッシュのインフレに見舞われます。

このインフレに対し、ケインズ主義的福祉国家の体制のもとで力を高めてきた労働組合が強力な賃上げを要求。石油のコスト由来の物価上昇に賃上げで対応すると、その賃上げのコストを吸収するためにさらなる値上げが行われ、その物価上昇に対して…という、いわゆる「賃金・物価スパイラル」を通じた高インフレが持続することとなりました。

一方でインフレ、他方で実体経済は停滞して不景気。これがいわゆるスタグフレーションで、これにケインズ経済学は対応できないとされたのです。というのも、ケインズ経済学では財政支出で需要を増やせば好景気だがインフレ、逆にそれをしなければ不景気だがデフレというのが前提だったからです。不景気なのにインフレというのは想定外だったのです。

新自由主義の反撃と消費社会アノミー

新自由主義による供給サイドの復権と福祉国家の侵食

このいわばケインズ主義の死角、その隙に乗じて反撃を仕掛けたのが市場競争を重視する新自由主義的な経済学です。これはある意味で伝統的な主流派経済学で、ケインズが需要こそが経済の制約になっているとしたのに対して、新自由主義は供給こそが経済の制約になっていると考えます。インフレなんだから増やすべきは需要より供給だというのは一定の説得力がありました。

だから新自由主義は供給の強化を考えるサプライサイド(=供給側)経済学であって、供給の強化は市場による競争を通じた効率化で可能になるとします。だから、その政策手段は減税による労働意欲の喚起、企業の自由な参入その他の活動を妨げている規制の緩和などに始まり、緊縮財政によって公共事業や福祉を削減し、企業や人々を市場競争へと積極的に晒していくことなどから成ります。

しかし、ちょっと考えてみると、やはりサプライサイド経済学、市場競争に企業や人々を晒すことで「生産性=供給能力」を高めることが必要だという議論は奇妙です。というのも、どうみても先進国は以前に比べて圧倒的に豊かになっており、モノが溢れているからです。

技術的な革新について考慮するとき、需要側がネックか、供給側がネックかという対立において、徐々に需要制約説が優位となるのは理の当然なのです。しかるに、耐久消費財の需要が一巡し、需要制約がまさに再び問題になってきたときに、「供給制約が重要だ!」と叫び出したのが新自由主義なのです。

当時、確かにインフレではありました。しかし、それは需要全般に対して供給全般が不足しているからではなく、石油という一部の製品が経済外的な要因で値上がりし、それが起点となって「賃金・物価スパイラル」が生じていただけに過ぎません。

新自由主義の勝利の要因としての消費社会アノミー

では、新自由主義の圧倒的な勝利の背景には何があるのでしょうか。新自由主義の勝利の理由を私は消費社会アノミーと名付けたいと思います。ここでアノミーとは「規範の不在」が生み出す不安や不安定のことです。何を信じて生きればいいか分からない状態やルール無用の無法地帯への恐怖と言ってもいいでしょう。

これはダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』にもっともよく表現されています。ベルによれば、資本主義は文化的に矛盾しています。

すなわち、資本主義は一方で生産・供給・労働面において、生産性を高めるべく「プロテスタンティズムの倫理」のような強烈な勤勉の文化を要請し、かつまた養成します。他方の消費・需要・余暇面において資本主義は、大量消費を促進すべく刹那的で快楽主義的な文化を要請し、かつまた養成します。

ここに矛盾があるのですが、大量生産が可能になり、供給が需要を上回るようになると、足りない需要をいやましに喚起するべく後者の刹那的で快楽主義的な倫理が優位するようになってくるのです。こうして勤労倫理という資本主義の基盤が掘り崩されていくとベルは主張するのです。

実際、1970年ごろから「消費社会論」というのが流行しました。需要が旺盛でモノを作れば飛ぶように売れた時代には、供給こそが経済成長の制約であり、だからこそ「生産」が社会の中心でした。生産の方が偉かった。しかし、需要が飽和してしまうと、経済を制約するものは需要となるわけで、生産よりも「消費」が社会の中心となっていくわけです。消費が主導権を握るのです。このことの反映が「消費社会論」の隆盛です。

しかるに、この消費社会がアノミー、規範の不在に由来する不安や不安定を引き起こしたのです。まさにベルが表現しているように、消費の文化とは刹那主義・快楽主義であって、規範の不在そのものであるように見えます。それで社会は崩壊しないのか?自分で自分を「これでよい」と評価する価値基準をどう調達すればいいのか?

新自由主義は、経済学であるよりも、むしろこのアノミーに対応するための道徳的説教なのです。それは供給こそが経済の制約になっているという事実的な主張に基づく科学なのではありません(明らかにそれは大局的には事実ではありません)。新自由主義は、供給に結びついた古い道徳、勤労道徳を再び強弁することに本質があるのであって、これが消費社会アノミーに直面した人々にとって鎮静剤として機能したのです。ここに新自由主義(と主流派経済学)の強みがあるのです。

新自由主義と経済学のマッチポンプ

しかるに、私たちはここにマッチポンプ的な傾向をみてとらざるを得ません。

消費社会アノミーは勤労倫理の崩壊に一切の規範の不在を見て不安に陥り(発火)、それに対して新自由主義による勤労倫理の再説教が安心を与えてくれました(消火)。しかし、そもそもこの不安は「勤労倫理=規範の全て」という等置に由来します。そうでなければ、勤労倫理がなくなったところで規範全体が崩壊することはないからです。そして、この等置を正当化ないし前提してきたのが、他でもない主流の経済学であるように思われるのです。

経済学の主体とは「合理的経済人(ホモ・エコノミクス)」であり、その行動原理は自己利益の最大化です。このエゴイスティックな主体は、しかし、「神の見えざる手」によって他者の利益に奉仕させられます。市場経済では、自己利益を追求しようと思えば、他者に奉仕するしかないからです。お金を稼ごうと思ったら他人がお金を払いたいと思うものを供給するしかないということです。こういうわけで、エゴイズムの主体が社会に奉仕するのは、この「神の見えざる手」によってのみであって、それはすなわち「勤労倫理」によってのみであるということになるのです。

これが経済学と新自由主義のマッチポンプです。まず人間を自己利益の最大化のみに専念する合理的経済人だとして非道徳的な存在としたうえで、そのような人間に可能な唯一の規範として市場経済における「神の見えざる手」に対応する勤労倫理だけを置く。こうして経済学がまず火種を作っておいたことで、社会は勤労倫理の崩壊がすなわち規範全般の崩壊であるかのように思い込んで消費社会アノミーを発火させます。そうすると、経済学が出てきた再び勤労倫理を唱えて、この火を鎮火するというわけです。

いずれにしても、勤労倫理の終わりが倫理一般の終わりとならないよう、私たちは経済学とは別の主体概念を練り上げる必要があるでしょう。

ニクソン・ショック/管理通貨制アノミー/財政赤字の神話

また、消費社会アノミーと同時期にほとんど同じような機能を果たしたものとして管理通貨制アノミーがあります。金本位制ロスといってもいいでしょう。政府の通貨発行権に歯止めをかけていた金本位制と固定相場制が、ニクソン・ショックと呼ばれたドルとゴールドとの交換の停止によって、最終的に崩壊したのです。それまでは米国政府はドルに対してゴールドを交換する約束をしており、ドルとの固定相場制を採用していた各国は自国通貨とドルを交換する約束をしていました。政府の通貨発行に歯止めをかけていたその約束がどちらも崩壊してしまったのです。

こうして管理通貨制度が始まったわけですが、それは金本位制・固定相場制という財政規律の崩壊であり、この規律の不在が再びアノミー的な不安を生み出します。主流派経済学の流儀で、政治家は票を最大化する合理的経済人とされ、もし財政規律という制約条件がなければ、政治家は最大限の票を買うべく無限に財政支出を行うだろうというわけです。無限の財政支出の帰結は、ゴールドと交換されなくなったお金に生じる高インフレないしハイパーインフレでしょう。なんといっても無限ですから。ブキャナンの『赤字の民主主義』やハイエクの『貨幣発行自由化論』がこのアノミーの最大の表現です。

このアノミーを鎮めるために、それまでは一定程度の常識となっていたラーナー由来の機能的財政論(通貨発行権を持つ政府にとって財政収支の帳尻合わせは無意味であり、財政は経済を良い状態に保つことだけを目標に管理されるべきという主張)は封印され、何はともあれ「税収の範囲内に支出を抑えるべき」だという均衡財政論の神話、すなわち「財政赤字(=悪)の神話」(ケルトン)が、まさにその根拠を最終的に失ったがゆえにこそ、捏造されたのです。

社会主義の崩壊と、農村の過剰人口の再発見としてのグローバリゼーション

以上が1970年代に起きたことだとすれば、すでに1970年代には始まりつつあった別の動向が1990年代以降にさらに顕著に姿を表してきます。

すなわち、一つにはソ連の崩壊と東欧社会主義圏の完全な解体です。1970年代には資本主義社会の自由と豊かさの優位が明らかになりつつありましたが、90年前後の社会主義の崩壊で、その答え合わせが行われたのです。これで資本主義は社会主義というライバルに対抗して労働者に配慮する必要が一切なくなりました。福祉国家の基盤の一つが失われたのです。

そしてまた1970年代ごろから始まっていながら、世界を分断した東西冷戦が終結したことで一気に加速した流れとしてグローバリゼーションがあります。グローバリゼーションの本質をひと言で言えば、農村の過剰人口の再発見に他なりません。

農村の過剰人口が枯渇するルイスの転換点が突破されることで、労働者の賃金に上昇圧力がかかり、それを起点に生産性の向上・賃金上昇・需要の喚起の好循環を生み出したのがフォーディズムの体制です。

この最初の人手不足の前提を崩壊させたのがグローバリゼーションであって、これ以後、先進国の労働者の賃金には下落圧力がかかり、生産性も需要も停滞します。先進国による需要の停滞は、さらに販路を海外に求める企業の海外進出を加速させ、グローバリゼーションのポジティブ・フィードバックが起動します。

以上のまとめと「貯蓄=投資社会」という倒錯

ここまでの議論のまとめ

さて、私は資本主義がマトモになり、一度はみんな(もちろん、現実は「大半の人々」止まりですが)の豊かさを実現し得た理由を、戦後システムに求めていました。

それは総力戦で完成された仕組みで、ルイスの転換点以後の人手不足に応じる形で、生産性の向上・賃金の向上・需要の創出の好循環を生み出したフォーディズムを根本として、需要不足を焦点化したケインズ経済学や、社会主義への対抗の意図も孕んだ福祉国家の試みがそれを側面からサポートした体制です。

この仕組みにより、電気ガス上下水道や道路や鉄道などの近代的生活の基幹インフラと自動車や各種家電などの耐久消費財が一気に普及し、私たちが現在知っているような近代的なライフスタイルが可能になったのです。

この仕組みを支える諸要素が全て反転することによって資本主義の再劣化が生じたことは、いまや上で論じたことから明らかでしょう。

戦争から一世代が経過し、この戦後システムを完成させた国家的な一体感の感覚は遠のきました。そこで近代的なライフスタイルが完成し、需要面で再びのボトルネックが生じて経済が停滞します。

そこに襲いかかったのが石油危機をきっかけとするコストプッシュ・インフレですが、労働組合の力の強さもあって、それは「賃金・物価スパイラル」を生み出してインフレが長期化します。このインフレと経済停滞の合わせ技としてのスタグフレーションにケインズ経済学は対応できず、需要ならぬ供給重視を掲げ、市場での効率化と労働意欲の向上の観点から緊縮財政を通じた福祉国家の解体を目指す新自由主義がヘゲモニーを握ります。

この福祉国家への風当たりは社会主義の解体によってさらに強まり、この解体が促進したグローバリゼーションは資本主義のマトモ化の第一歩だったルイスの転換点以前への先祖返りを可能にします。すなわち、農村の過剰人口を再発見するのです。こうして先進国は、賃金の下落圧力から生産性の停滞と需要の停滞が生み出される悪循環に入っていきます。

「消費・余暇社会」の殺害と「貯蓄=投資(投機)」社会の誕生

このような現代をいかに特徴づけるべきでしょうか。私はそれを「貯蓄=投資」1社会と呼びたいと思っています。この文脈での投資とは株式投資のような金融的な投資であって、投機とでも呼ぶべきものです。この「貯蓄=投資(≒投機)」社会が消費社会の流産によって生まれたのです。どういうことでしょうか。

生産社会から消費社会への移行は、経済成長の制約が供給側から需要側に移ったことで生じました。消費社会段階で実行されるべき政策は、需要を適切に維持することと、供給を調整することだったと私は考えます。

一方で需要不足を放置してはいけません。それはモノやサービスの売れ残りや投げ売りを生み出し、それは人間自体の売れ残りや投げ売りにつながります。失業や低賃金労働です。

他方で需要を無限に高めていくことも現実的ではないでしょう。人間の物的な欲望には限りがあるし、そんなに欲しくないものを押し売りしてもしょうがないし、地球の環境だって有限なものです。

だから、需要の何らかの頭打ちに合わせてどこかで供給も頭打ちさせていくことが必要です。問題は人間の売れ残りや投げ売りなのですから、このためには労働力の供給を減らしていけばよく、それはベーシック・インカムなどの直接給付による労働力の脱商品化(市場で売る必要性を低下させること)によって達成されます。

ベーシック・インカムの給付額の調整により、適度に(モノ・サービス・労働力の)需要を増加させつつ、適度に(労働力の)供給を減少させて、需要と供給の一致、すなわち、働きたい人がみんな働けているという完全雇用の達成を目指すのです。これは消費の享受を肯定しつつ、余暇を増やしていく社会として「消費・余暇」社会とでも呼ぶべき構想です。

しかし、このような経路を歴史が歩むことはありませんでした。これはまさにヘーゲルが歴史の反復の必要性に言及したのと同じ理屈によってです。ローマを帝政に導こうとしたカエサルはブルータスに殺されざるを得ませんでした。人々がまだ帝政という新しいものを受け入れる準備ができていなかったからです。だから皇帝たらんとするカエサルの身振りがオクタヴィアヌスによって反復され、カエサルが個人ではなく皇帝という称号へと高められることで、ようやくローマで帝政がスタートできるのです。

これと同様に、「消費社会と管理通貨制」(カエサル)への移行は、先の述べた消費社会アノミーと管理通貨制アノミーという規範・規律の不在への不安を生み出し、それに乗じて「新自由主義の勤労倫理と均衡財政」(ブルータス)がこれを殺しにやってきたのです。

では、この新自由主義による消費社会の殺害はどんな社会を生み出したのでしょうか。それが私が「貯蓄=投資(投機)」社会と呼ぶものです。

需要の飽和こそが真の問題であったとき、新自由主義は供給制約が問題だと叫び、供給を増やすには市場競争による効率化だと主張して、緊縮財政による公共事業と福祉削減で企業や人々を市場競争に晒し、市場競争する企業の活動領域を押し広げるべく規制緩和(自由化)と民営化を押し進め、企業や人々の労働意欲を高めるべく減税を実行していきました。

これは需要が供給より少ないのが問題な状況に対して、供給をもっと増やせと言っているのですから、どう考えても逆効果です。その効果は、モノとサービスの売れ残りと投げ売り、ひいては人々の売れ残りと投げ売りであって、デフレと失業と低賃金の問題が深刻化していきます。

重要な点は、この新自由主義は福祉削減と減税をセットにすることにより、低所得層に厳しく高所得層に優しい政策を採用することです。だとしても、もし高所得層がその所得に見合う消費を行うなら、その富は大きな需要を生み出し、それが先のデフレと失業と低賃金の問題を緩和してくれるでしょう。富が豊かなところから貧しいところへ流れていく、新自由主義のいわゆるトリクルダウンが実現したでしょう。

しかし、根本的に高所得層の消費は飽和しており、彼らは資産や所得に見合うだけの消費はしません。そして、この時代に適合したマクロ経済理論である小野理論が想定するように、消費はすればするだけ飽和していきますが、お金はどれだけ貯まっても悪い気はしません。つまり、彼らはますます消費よりも「貯蓄」に傾いていきます。

とすれば、需要不足は解消されず、失業や低賃金に落ち込む人々が生み出され続けます。とすると、いわゆる中間層にしても、将来への不安から消費よりも「貯蓄」を優先しようとするでしょう。ここでも需要が停滞することになるわけです。

とすれば、繰り返しになりますが、需要不足は解消されず、失業や低賃金に落ち込む人々が生み出され続けます。これは供給能力が潤沢で、まさに豊かさを実現する力があるがゆえに、人手が余ってしまって低賃金や失業が生み出されるという「豊かさゆえの貧困」であって、どこまでも不条理な現象です。

しかも、問題なのは、現代の「貯蓄」、つまり「貯蓄社会」の「貯蓄」は不毛なことです。

かつての貧しい時代であれば、貯蓄は個人にとっては将来の大きな買い物に備えるもの、将来の需要でした。また社会にとっては既存の供給能力が消費財向けの生産に専有されずに、既存の供給能力をより大きな供給能力を作るための実物的な投資に指し向ける余裕を生み出してくれる行為でもありました。

だから貧しい時代の貯蓄は、より大きな供給能力が整備され、実際にその供給が行われ需要されるということ、つまり経済成長を可能にするものだったのです。

しかし、現代の「貯蓄」は不毛です。というのも、消費が飽和した富裕層の貯蓄は将来の消費が予定されないままに積み上がっているものですし、中間層の貯蓄も漠然とした将来不安に駆動されていて、合理的な計算が要請するよりも多く積み上げられています。つまり、それらは将来の消費を必ずしも予定していないため、企業はそれに応える供給能力を作る投資を行う意味が見出せません。また貯蓄が実物投資の余地を生むという点についても、そのような余分な貯蓄などなくとも、供給過剰の現代社会には既に存在しているのです。

こうして私は消費社会は流産して(あるいは殺害されて)貯蓄社会が生み出されたと診断します。この貯蓄社会の経済理論が、貯蓄社会の最先端をひた走る2日本で生み出された小野善康の経済学、通称、小野理論に他なりません。

そして、最後に付け加えたいのが、この「貯蓄」社会は「貯蓄=投資(投機)」社会へと進化したという点です。ここでいう投資(投機)とは、先ほどから出てきている、企業が設備等を導入する実物的な投資、すなわち、現に需要を生むと同時に将来にはより大きな供給能力を生み出すはずの実物的な投資ではなく、企業や個人が主に株式などを購入する金融的な投資(=投機)です。IPOや増資以外の通常の株式投資とは株式の中古転売に他ならず、そこではお金は企業に渡って実物的な投資を生み出すのではなく、金融市場で行ったり来たりするだけです。

さて、「貯蓄」社会が「貯蓄=投資(投機)」社会に進化するとはどういうことでしょうか。要するに貯蓄といっても銀行預金で置いておくのではなく、株式その他に「投資」するようになる社会になったということです。この貯蓄の投資(投機)への移行がさらに消費に対して貯蓄を優位にし、消費を冷え込ませます。というのも、古典的な経済学でいわれるような利上げと同等の効果を、この投資社会が恒常的に生み出すからです。

すなわち、古典的な経済学では、金利が上がれば貯蓄でお金が増えやすくなるので人々は消費を減らして貯蓄を増やすとされます。同様に「投資」でもって多くのリターンが見込まれるなら、その分だけ「投資としての貯蓄」の魅力が増し、消費は後回しにされるのです。

これがまさに現代社会です。需要に対して供給能力が超過しているため、人余りから低賃金労働や失業が生まれて、貧しさに苦しむ人々が生み出されます。その反対の極には、消費が飽和していて「貯蓄=投資(投機)」を通じてお金を増やすことの方に興味がある富裕層や、自らも低賃金労働や失業に陥るのではないかとの不安から消費を我慢して「貯蓄=投資(投機)」に励む中間層がいます。

こうして消費が弱く需要に対して供給能力は余っているわけですから、企業はそれをさらに強化する実物的な投資への動機を持ちません。積み上がった貯蓄も消費を予定したものではないので、企業としてはそれに応えようとする意味もありません。

このような社会で話題になる投資とは、企業や個人が手持ちのお金を銀行に置いておくのではなく金融市場に投入することであって、このような金融市場へのお金の集中が資産価格の上昇を生み出し、「投資(投機)としての貯蓄」をより優位にし、消費を冷え込ませていくのです。こうして需要が弱く供給能力が余っているという最初の条件が強化されるのです。

この傾向は、需要の弱さから中央銀行が金融緩和を続けざるを得ないことによって助長されます。結果として、一方には資産がどんどん膨らむ富裕層、他方には失業や低賃金労働に甘んじる貧困層というコントラストがますます濃くなっていくのです。

来るべきオクタヴィアヌスについて

以上がが私にいわせれば、人間の知識の進歩、つまり、科学や技術の進歩、そして生産能力の進歩に応じた正しい社会進化の方向を歩めなかった現代社会の末路なのです。「消費・余暇社会」(カエサル)が新自由主義(ブルータス)によって殺され、「貯蓄=投資(投機)社会」という一種の鬼子が生み出されてしまったのです。

私たちは、それゆえ、正しい道に戻るべくオクタヴィアヌスを招来させなければならないはずです。それは究極的にはベーシックインカムによって完全生存を保証し、その需給調整機能により完全雇用を保証することです。それを可能にするのは余剰の供給能力こそが真の財源であると主張するMMT派の機能的財政論でしょう。MMTとBIこそが、時代の正しい方向への進歩を完成させる私たちの時代のオクタヴィアヌスだと思われるのです。これが「21世紀の政治経済学」の主張するところです。

  1. 経済学で出てくる「貯蓄=投資」というISバランスの式とは関係ありません。 ↩︎
  2. 他国に対して相対的に高い日本の対GDP比政府債務残高がこのことを物語っています。MMTが言うように誰かの黒字は誰かの赤字であり、国民の貯蓄(黒字)が積み上がる分だけ、政府の赤字が積み上がっているのです。 ↩︎

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