『純粋理性批判』を中心にカント哲学を分かりやすく入門的に要約・まとめ

『純粋理性批判』を中心にカント哲学を分かりやすく論理的に要約・まとめ

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この記事では『純粋理性批判』を中心に、カントの哲学を分かりやすく論理的に要約し、その歴史的意義を明らかにします。

目次

カント哲学の背景—大陸合理論とイギリス経験論、それぞれへの共感と違和感

カントは、カント以前の大陸合理論とイギリス経験論を総合することで、いわば近世哲学の歴史に終止符を打ち、それによって近代哲学とでも呼ぶべきものを創始したとよく言われます。これは大枠で正しい説明でしょう。

実際に見たり聞いたりするという「経験」をこそ認識の源泉とする経験論について、カントは、一方で正当な認識というのは確かに「経験」から始まるだろうと思って賛成していました。他方で、「経験」だけに依拠した認識は「これまではずっとそうだったけど、これからのことは分からない」以上のものにはなり得ず、そこでは「これまでもこれからもずっとそうだ」という必然性が得られないことに不満を持っていました。カントは数学や物理学のような学問の必然性を信じていたからです。

経験ではなく理性を用いた推論をこそ認識の源泉とする合理論について、カントは、一方でそれが必然的な認識というものを可能にしてくれる点では魅力を感じていました。他方で、それが経験とは無関係に、つまり見たことも聞いたこともないものを認識してしまう点に危うさを見ていました。カントは神を信じていましたが、それを必然的なものとして認識できるとは思っていなかったのです。

このようにカントは、デカルトによって近世哲学が創始されて以来、並行して発展してきた二つの哲学的な潮流、大陸合理論とイギリス経験論のそれぞれに共感と違和感の両方を抱いていたのです。

この状況に対して整合的な立場を打ち出そうとしたカントの試みが、そのいわゆる超越論的哲学、あるいは超越論的観念論に結実することになります。これはどんな立場だったのでしょうか。

経験的認識の必然性の確保―『純粋理性批判』の前半

経験的認識に対する「私の認識能力」の寄与とコペルニクス的転回

カントは「経験」が常に「私の経験」でしかあり得ないことに注目しました。私たちがどんな経験をするにせよ、それを私たちは「私の経験」として捉え返すことができます。

だからなんだというのでしょう。もし私たちが外界をそのまま映す鏡のような存在であったなら、経験が私の経験であったからといって、どうということもないでしょう。

しかし、カントはそのように捉えませんでした。「経験」が「私の経験」であることは、「経験」は「外界」と「私」との合作であることを意味すると考えたのです。

すると、どういうことになるでしょうか。「外界」から私たちが受け取るものに関しては、確かに、「これまではそうだった」以上のことは言えません。しかし、「経験」のうちで「私」の側に属すること、私の側の条件、私の認識能力に由来する部分はといえば、経験において、「これまでもこれからもずっとそうだ」という必然性を持ちうるのではないでしょうか。その条件は、あらゆる経験に先行して、経験をそもそも可能にするものとして存在しており、そういうものとして、すべての経験に通底して埋め込まれているものだからです。

経験に対する認識能力の積極的関与という、この着想こそ、カントのいわゆるコペルニクス的転回の核心です。認識とは、鏡のような存在として私たちが外界を正確に写しとることではありません。そうではなくて、私たちの認識能力に合った形で、あるいはそれによって加工された形で、外界が私たちに対して立ち現れるということなのです。カントの有名なキャッチフレーズ曰く、認識が対象に従うのではなく、対象が認識の条件に従うのだというわけです。

「現象」と「物自体」の区別

このこととの関連で、カントは有名な「物自体」と「現象」の区別を導入します。

カントによれば、経験は外界そのものではありません。それは外界が私たちに対して、私たちの認識能力に合った形で「現れた」ものです。これが「現象」です。経験とは現象なのです。他方で、私たちの認識能力に対して現れたのではない外界、私たちと無関係な、それ自体としての外界を考えることができます。これが「物自体」です。

私たちは物自体を経験できません。私たちが何かを経験する際、私たちはそれを私たちの認識能力を通じて経験するのであって、その何かはそのことによってすでに「現象」になってしまうからです。「経験」とは「物自体」の経験ではなく、物自体の私たちに対する表れ、「現象」に過ぎないというわけです。

具体的には何が経験に対する認識能力の寄与なのか—空間・時間とカテゴリー

カントはこうして、私の認識能力が働いて「物自体」を加工することで、私たちが普段実際に経験する「現象」が生成するという構図を考えます。では、ここで私たちの認識能力が行う加工とはどのようなものなのでしょうか。私たちの認識能力は経験に対して具体的にどんな寄与をしているのでしょうか。

カントはまず空間や時間は私たちの認識能力によるものだといいます。それは私たちの認識能力が持っている枠組み、カントが感性と呼ぶ、外界から情報を受け入れる能力の枠組みなのだというのです。私たちの感性は外界から受け取った情報を空間と時間という枠組みでもって整理するというわけです。

さらにカントは、カントが悟性と呼ぶ言語的・概念的な能力の寄与も認めます。カントがカテゴリーと呼ぶ、因果関係などの基本的な概念が、対象の成立、さらには経験(現象)の成立に関与しているのだというのです。私たちは「原因」と「結果」といった基本的な概念を用いて経験を構築するのです。

このように空間や時間、そしてカテゴリーなどの基本概念は、経験に先立っており(この「経験への先行性」のことをカントはアプリオリと呼びます)、経験を可能にするものであって、そういうものとしてあらゆる経験に通底しているのだとカントは主張します。

それによってカントは「これまでもこれからもずっとそうだ」という必然的な認識、たとえば、数学や物理学といったいわゆる科学的認識が可能になると考えたのです。というのも、数学を代表する幾何学は空間についての学であり、物理学は空間と時間のなかでの因果関係を記述するものだからです。

こうしてカントは、認識のターゲットを「経験(現象)」に絞ることで、正当な認識は経験に基づいているという経験論への共感を基本としつつ、それが必然的な認識を保証し得ないという難点を、私たちの認識能力が経験の成立そのものに寄与していることを想定することで克服します。

この克服の仕方には、理性的推論で必然的な認識を得ようとした合理論の伝統へのカントの共感が生かされていると言っていいでしょう。

だいたいここまでが『純粋理性批判』の前半の大半を占める「超越論的分析論」の内容です。

経験できないものは認識し得ない―『純粋理性批判』の後半

ここまででカントは経験論への共感から出発して、それに対する違和感を合理論への共感でもって乗り越えるという芸当をやってのけた。あとは合理論への違和感を展開するだけです。それが『純粋理性批判』の後半の大半を占める「超越論的弁証論」のテーマです。

そこでは理性的な推論が与えるとされる認識のうち、経験によって確かめられないものがことごとく、「認識」としては否定されていきます。不死の魂や、世界の始まりや限界、自由や神といったものが「認識できない」ものとされていくのです。

カントによれば、理性は根本的には推論の能力であり、だから前提の前提の前提の…と遡っていって根本的なものに至ろうとする性質を持ちます。それで理性は魂や神といったさまざまな「最も根本的なもの」に至ろうとします。しかし、カントは経験論へのコミットメントから、これらの認識の有効性を否定します。そういったものは経験のうちには現れないからです。

自由・魂・神の復活―『実践理性批判』の領域

しかし、そもそも人間の生は「認識」に尽くされるものではありません。ここからは主に『実践理性批判』の内容となりますが、人間の生には認識以外に実践というものもあるのです。人間は世界を眺めるのみならず、世界のなかで行為するのです。

神や自由や魂を「認識」としては否定したカントは、「実践」の領域において、これらを再び取り戻そうとします。それに役に立つのが、現象と物自体の区別です。

経験されるのは現象であり、そこにしか正当な認識はありません。ただ、経験の外部には物自体も存在します。それを私たちは認識できないわけですが、これをカントはある意味で逆手に取ります。物自体の領域に神や自由や魂があると想定しても、それを否定することはできないのです。だって、そこに何があるか、そして何がないかは、決してわからないのですから。

そういうわけでカントは、私たちが実践的にも生きているということから、神・自由・魂の存在を「要請」することになります。実践的生活、カントにとってその中核にある道徳は、私たちが自由な存在であることを前提としているのです。そして、私たちが道徳的に善くあるためには、道徳的に善くあることが幸福と一致することを保証する存在として神が必要であり、善に向けて無限に改善していくことができるように不死の魂が必要であるというわけです。

これらは認識されるのではなく、必要な前提として要請されるのですが、この要請が否定されることはありません。なぜかといえば、繰り返しになりますが、物自体という不可知の領域があり、そこに何かがないことを誰も証明できないからです。

このように自由・魂・神の復活に、現象と物自体の区別が効いてくるわけです。このことに関連して、カント自身、信仰に対して場所を開けるために、知的な認識の領域を制限したと言っています。

「超越論的哲学」とは何か?—可能性の条件への問い

カント哲学のまとめの最後に、それがなぜ超越論的観念論や超越論的哲学と呼ばれるのかに触れておきましょう。

超越論的という言葉はいかにも仰々しいですが、これは「可能性の条件を問う」という意味です。カントは経験というものを、自明のもの、単に与えられたものとするのではなく、そのの可能性の条件を問うていき、それは物自体ではなく現象であって、そこに私の認識能力が関与していることを主張しました。あるいはまた、道徳法則があるという(カントにとっての)現実から出発して、それを可能にする条件として自由や魂や神を要請しました。こういった思考法において、カントの哲学は超越論的哲学と呼ばれるのです。

あるいは、その認識論的立場は超越論的観念論とも呼ばれます。これは「経験」は日常的な普通の意味では実在するものの、その「可能性の条件」まで考えると、それは実は物自体ではなく現象であり、その意味では私たちの認識能力が生み出す観念のような存在であるということを言っています。

超越論的観念論とは、要するに、この物自体と現象の区別、経験は物自体ではなく、その私たちに対する現れとしての現象でしかないと主張する立場です。

カント哲学の歴史的意義について—近代的認識のスタート地点

締めくくりにカント哲学の歴史的意義を考えてみましょう。

最初に述べたように、カントは近世哲学の二つの潮流を総合し、近代哲学を創始したと言われます。いかにしてでしょうか。

デカルトが、何かを主張する前に、まずは認識の正当性を徹底的に吟味するという認識論を開始し、そのなかで「我思うゆえに我あり」という思考するものとしての私を発見したことで近世哲学が始まりました。

デカルトの流れは、理性的な思考を重視する大陸合理論に繋がり、各人が理性的推論によって必然的な認識の体系を打ち立てていきました。それが語る認識の必然性は魅力的でしたが、神や魂など目に見えないものについても各々が自称必然的な認識を展開し、結果として論争が絶えない状況に至ります。対象が目に見えないので意見が対立しても合意のしようがなく、それぞれが独断的に認識を述べているような状況に立ち至ったのです。カントは大陸合理論の帰結を独断論だと見ました。

他方、イギリスでは経験を重視する哲学の流れがありました。認識は経験から、実際に目に見えるものからスタートしなければならない。事実ということをとても大事にする現代の私たちでも共感しやすい立場です。ただ、経験論の徹底はなんでも「これまでそうだっただけ、これからのことはわからない」という立場を帰結し、必然的な認識は存在しないという立場に行き着きます。カントはイギリス経験論の行き着く先は懐疑論だと見ました。

カントはこの二つの流れの悪いところを切り捨てて「良いとこ取り」を行い、そうして現代の私たちに普及している標準的な見方につながる基本的な思想の構図を描いたと言えるでしょう。

カントは、合理論からは認識の必然性という良い部分を受け継ぎ、しかし、経験を超えたもの(魂や神)についての独断的な主張は悪いものとして切り捨てます。経験論からは経験から出発するという良い部分を受け継ぎ、必然的な認識の不在という懐疑論は悪いものとして退けます。

こうしてカントは、カント以後の近代という時代を担うことになる「科学」を経験についての必然的認識として完全に正当化しつつ、それまでの世界を支配していた宗教については必然的な認識という地位を奪って実践的要請へと一歩後退させたのです。

ここから無神論への道が開かれていくのですが、この「科学への信頼」と「宗教への無神論的懐疑(といって強すぎれば不可知論)」、あるいはもっと一般的に「価値についての不可知論・多元論」が近代の基本的な立場だと言えるでしょう。

経験的な事実に基づく科学は絶対だが、何をするべきかといった価値や道徳や宗教は様々だというわけです。

この意味でカントは、近代の基本的な世界観、私たちがいま常識だと思っている世界の見方への最初の一歩を踏み出した存在なのです。

カント批判の記事に続く

以上がカント哲学の簡潔なまとめです。次回は、この理解に基づき、カントのどこが間違っていたのかを論じます。

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