新NISAの罠。「貯蓄から投資へ」が日本を貧しくする本当の理由

新NISAの罠。「貯蓄から投資へ」が日本を貧しくする本当の理由

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実は、新NISAが日本を貧しくするかもしれないこと、知っていますか?

「貯蓄から投資へ」という耳触りのいい言葉の裏には、日本を貧しくするカラクリが潜んでいます。

このことを説明するために、この記事では現代社会における「投資」の意義を徹底的に考察していきます。

目次

企業の「実物的投資」と個人の「金融的投資」を区別する

さて、まず大切なのは「投資」の二つの意味を徹底的に区別することです。

すなわち、主に企業が行う「実物的投資」と主に個人が行う「(株・ゴールド・ビットコインなどへの)金融的投資」の区別です。

この二つが同じ語で呼ばれ、しばしば混同されていることは非常に問題です。両者の本質はまったく異なるからです。

企業が行う「実物的投資」の意義:需要でありかつ将来の供給力を生み出す

さて、主に企業が行う前者の「実物的な投資」とは、サービスやモノの(更なる・より効率的な)生産のために、企業がさまざまなサービスやモノを購入することです。工場で動かす機械を買ったり、飲食店のキッチンの設備を買ったり、工場そのものを建設したりすることです。

この実物的投資には二重の意義があります。第一に、それ自体が実際にサービスやモノを購入する「需要」であり、そのサービスやモノの提供者にお金が渡って雇用と所得を生み出します。そして、第二に、このサービスやモノの購入は、その企業自身がそれらを使って更なる生産をするために行なったものであり、社会全体のサービスやモノの「供給」能力を増強する行為です。

個人が行う「金融的投資」の意義:金融市場でお金がグルグルする

個人が投資をするというときに主にイメージされる「(株・ゴールド・ビットコインなどなどへの)金融的投資」はどうでしょうか。それには上記の二つのどちらの意義もありません。そこではお金は基本的に金融市場にとどまり続け、お金と株・ゴールド・ビットコインなどの金融商品が交換され続けるだけなのです。

たとえば、Aさんがはじめお金を持っており、Bさんがビットコインを持っている。Aさんがビットコインを買い、Bさんがお金を受け取る。次のフェーズでは、今度はBさんがAさんからビットコインを買い、Aさんがお金を受け取る。こういうビットコインとお金の行ったり来たりが起きるだけなのです。

ゴールドやビットコインはともかく、株については、何かそれに投資をすることでその株を発行している企業にお金が渡って事業に役立てられる、つまり、先の「実物的投資」が生まれるかのように誤解している向きもありますが、基本的に事実ではありません。

というのも、私たちが株を売買できるのは基本的に中古市場であり、そこではその企業本体とはほとんどなんの関係もないところで、株の中古転売が行われているだけだからです。もちろん、新株発行やIPO(株式上場)の際には企業から新品の株式が発行され、その販売代金は企業に渡って「実物的投資」に活用されますが、その額は極めて少ないのです。

実際、各種データによれば、日本株の売買総額(=中古売買総額)は年間1500兆円程度、それに対して実際に企業にお金が入る株式の新規発行は年間兆円前後、また企業から株主にお金が渡る配当や自社株買いが年間30兆円前後とされています。

企業が2兆円のお金を得るために、その750倍もの中古売買がなされており、そもそも企業から出ていくお金の方が企業に入っていくお金より15倍も大きい。これが日本の株式市場なのです。

もちろん、ある企業の株を買うことや株の中古売買をすることが企業にとって全く無意味というわけではありません。ある企業の株価が高ければ、企業が新たに株式を発行して資金調達する際、あまり多くの株式を発行せず(=既存の株の価値をあまり薄めず)、十分な量の資金を調達できます。また、中古売買が活発で、株がすぐ売れる(=流動性が高い)し高く売れるという事情があればこそ、起業直後に投資するエンジェル投資が活発になり、新興企業が生まれやすくなるということもあるでしょう。

しかし、それにしても、上記の各種数字は事実であり、動かせません。企業は新たに株式を発行して資金調達などほとんどしていないし、株式市場は企業がお金を得る場ではなく、お金を吐き出す場になっているというのが現実なのです。

「貯蓄=投機」社会論—「貯蓄から投資へ」という出鱈目について

経済と経済成長の基本の仕組み—貯蓄と投資の関係性

ここで経済の基本的な仕組みを理解しておきましょう。

企業が100万円で売れるモノを作り出せるとき、その売り上げを先取りする形で、原材料費、労働者の賃金、企業の利益などなどとして、合計100万円の所得が生まれています。

単純化のために、この100万円がすべて労働者に賃金として支払われるとしましょう。この労働者が100万円の所得をすべて消費に回すとすれば、企業が作り出した100万円分のモノは売り切れます。

このことは、企業は労働者が消費者として購入するような消費財を作ることで手一杯であることを意味します。食べ物や生活必需品や家電や車を作ってキャパオーバーというわけです。

これは長期的には経済の衰退を招きます。というのも、モノを生産するのに必要なモノ、つまり、資本財の生産を行う余力が存在しないからです。これでは長期的には消費財も生産できなくなります。

続いて、労働者が20万円を貯蓄するなら、消費財は80万円分で十分です。すなわち、企業の100万円分の生産能力のうち、80万円分を消費財に振り向けるだけでよく、残りの20万円分は余力となっています。

企業がこの20万円分の余力を活用して、自らの生産に役立つ資本財を購入するのが、上で述べた企業による「実物的投資」に他なりません。この20万円分が企業の既存の生産設備(実物資本)をちょうど維持できる分であれば、経済はずっと同じだけの生産を続けられる定常状態に入るでしょう。

20万円が実物資本の現状維持に必要な量だとしましょう。もし労働者の貯蓄が40万円あれば、その40万円分の余力を企業の投資が利用することで、企業は実物資本の拡大強化が可能です。それは次期の生産量を増加させます。これが成長する経済の仕組みです。

伝統的な経済学では、貯蓄と投資の関係を「労働者が貯蓄したお金を企業が銀行を通じて借りいれ、そのお金でもって投資を行う」と考えますが、これは銀行からの借入によってお金が生み出されるという信用創造の現実に反した誤った描写です。

なので、私としては貯蓄と投資の関係は「労働者の貯蓄に対応して生じる生産余力を企業の投資が活用する」という関係である捉えています。

この関係は、労働者の貯蓄の分だけ企業の投資が行われなければ、モノや人が余って売れ残り(やデフレ)が生じるということを意味しますし、逆に労働者の貯蓄の分を超えて企業の投資が行われれば、モノや人が不足してインフレが生じるということを意味します。

成熟経済における「貯蓄」の根本的な変質と「豊かさゆえの貧困」

小野善康の小野理論が明確化しているように、先進国の経済が高度成長期を終え、成長経済から成熟経済に移行するとともに、この「貯蓄」の持つ意味が根本的に変化しました。

成長経済において「貯蓄」は正義です。というのも、私たちが所得のうちの幾らかを貯蓄し、そうすることで既存の生産能力の全てを消費のために占有しないことによって、生産能力(実物資本)を拡張するための投資に対応する生産余力が残され、そうして可能になる生産能力の拡張によって、将来により多くの生産と消費が可能になるからです。

みんなそれぞれに欲しいモノがあって、その需要に対してモノやサービスの生産能力が根本的に足りてない状況では、「貯蓄」が可能にする投資とそれによる生産増大が人々を実際に豊かにする唯一の方法です。

他方、成熟経済では状況が異なり、「貯蓄」は経済を停滞させます。そこでは多くの人(特にお金持ちの人)のモノやサービスへの欲求は基本的に飽和しており、むしろ、お金が増えることの喜びの方が大きいのです。小野理論では、消費(モノ・サービス)への欲望は消費が増えると飽和していくのに対して、お金への欲望は、もちろん、お金が増えれば減っていくものの、どこまで行ってもゼロにはならないと考えます。モノに関しては本当にもう要らないという領域があるのに対して、どんなお金持ちでもお金が増えれば増えるだけ嬉しいのです。つまり、彼らは貯蓄に走るのです。

これは、かなりの人がモノを買うことより証券口座の残高が増えることにニンマリとしているような現代の記述としてかなり妥当性があるように思われます。現代において、お金の増加は、消費ではなかなか得にくい、自分の能力の証明、自分の価値の証明として機能しているのです。それは一種の点数として機能し、どこまで増えても意義を失わないのです。TOEICや共通テストと違って、満点のない青天井のテストなわけです。

こうして成熟経済では、成長経済よりも所得の多くの割合が貯蓄に回されることになりますが、これは将来の生産の拡大につながりませんというのも、その貯蓄に対応するだけ、企業による生産能力の拡大のための投資が行われるには、将来の売上につながる見込みが必要ですが、そのような消費需要は見込み難いからです。人々の貯蓄が将来の消費のために行われているなら、貯蓄は将来の消費需要となりますが、現代の貯蓄はお金を増やすため、いわば貯蓄のための貯蓄として行われているので、将来の消費需要として見込むことができないのです。

こうして、成熟経済においては所得に占める貯蓄の割合は増え、しかし、それに見合うだけの投資は生まれません。その帰結が売れ残りの発生であり、供給能力の余剰の発生です。供給能力の重要部分が労働ですから、これは人間が余ることを意味します。その帰結は失業であり、低賃金労働です。これはモノやサービスを生み出す力が多いという豊かさゆえに、人間が余って貧困に追い込まれるという「豊かさゆえの貧困」であり、現代社会における最も根本的な不条理の一つです。

「貯蓄=投機」社会という倒錯と「貯蓄から投資へ」という出鱈目

さて、このような(消費に対して)貯蓄が優位な社会を「貯蓄社会」と呼ぶことは正当化されうると思うのですが、私はこれをさらに「貯蓄=投機」社会として規定したいと思います。ここで投機とは、先に述べた(主に個人による)「金融的投資」のことです。(主に企業による)「実物的投資」と区別するために、「金融的投資」は「投機」として名前を分けようと思うのです。

この「貯蓄=投機」社会とは、今日、貯蓄というとき、その主な手段は銀行預金ではなく、株やゴールドやビットコイン(や不動産)などの金融市場になっており、貯蓄はいまや「金融的投資(=投機)」になっているということを意味します。

この「貯蓄=投機」社会の問題は、貯蓄社会の論理にしたがって貯蓄が積み上がり、それがますます投機として金融市場に流れ込み、金融市場で行ったり来たりを繰り返していく中で、上述の株やゴールドやビットコインといった金融資産がどんどん値上がりしていくことです。

これは銀行預金の金利が非常に高いことと機能的に等価であり、それによって「投機としての貯蓄」はますます有利になります。それは「利上げは預金金利の上昇を通じて貯蓄を有利にすることで消費を抑制する」というのと同じ論理で消費を抑制してしまうのです。

この過程を通じて、富裕層は金融資産価格の上昇でますます豊かになり、将来不安に苛まれる中間層もこの上昇に釣られて、ますます「貯蓄=投機」に走る。それが消費を抑制し、実体経済の需要はますます冷え込んで、中間層の足元に失業や低賃金労働という「豊かさゆえの貧困」への落とし穴がいや増しに増えていくわけです。

本来であれば、「本当に重要なのは私たちの生活に必要なモノやサービスの供給能力だけであり、みんなの働きでそれが維持されている限りで財政危機も年金問題も存在しない」ことを政府が宣言して、人々が安心して消費できるようにすべきなのに、現実の日本政府は財政危機や年金問題を進んで喧伝して、老後の安心も自助努力だというノリでNISAを拡張し、この「貯蓄=投機」社会を煽っています。

そして、この煽りのキャッチコピーこそ「貯蓄から投資へ」です。ここまで読まれた方なら分かる通り、それは「貯蓄から投機へ」を意味しており、それは実物的な投資には繋がらないという意味で、その実、「貯蓄から貯蓄へ」でしかありません。それは「豊かさゆえの貧困」という現代社会の不条理を悪化させることはあっても解決することはあり得ないのです。

これが今の日本、そして世界の現在地なのです。私にはそれはどこまでも「倒錯した世界」であるように思われます。

経済成長の意義とは結局のところモノやサービスをより多く生み出すことしかないのですが、それへの需要が富裕層においては飽和するなかで、一方の富裕層は消費に回されないために社会にとってはもちろん、本人にとっても実はさほど意味のないカネを積み上げ、他方の貧困層は、この需要不足経済の中で余剰供給能力となり失業や低賃金労働に追いやられて、有り余るモノやサービスを目の前にしながらひもじい思いをさせられる。そして、貧困層への転落を恐れる中間層は、富裕層に追随して「貯蓄=投機」に走り、そうして需要を減らすことで知らず知らずのうちに自らの墓穴を掘っている…。

現代社会への処方箋—「お金=偏差値」論と無痛増税の論理

さて、この倒錯を終わらせるにはどうしたらいいのでしょうか?

以上見てきた通りに問題が「需要過小=供給過剰」であるとすれば、解決は実は簡単です。政府がお金を作って配ればよいだけだからです。

もし問題が「需要過剰=供給不足」であるなら、それは本当の問題です。モノやサービスの供給には多くの原材料や設備、技術や知識、計画と実行が必要だからです。

そうではなくて、問題が「需要過小=供給過剰」であるならば、解決策はお金を配ることであり、お金が政府による作り物にすぎない以上、それはボタン一つで可能です。そうすることで需要を増やすとともに、労働の供給を減らすことで需要と供給の均衡を図ればよいのです。もちろん、急激な変化は望ましくないし、逆方向に均衡を崩さないような慎重な調整が必要ですが、原理的にはお金の供給はモノやサービスの供給より全然簡単なのです。

さて、こうしてお金の蛇口を開いて、社会にお金を注ぎ込むべきなのですが、主にどこに注ぐかといえば、もちろん、中間層以下となります。富裕層においては消費は飽和しており、お金を注いでも「貯蓄=投機」に回るだけだからです。ただ、政治的な分断を生むのも良くありませんから、私としては全員に配るUBI(ユニバーサル・ベーシックインカム)の方がよいと思っています。次から述べていくように、高所得者からは別途お金を税で回収すればいいだけです。

さて、そういうわけで話題は税に移ります。お金を配って終わりというわけにはいきません。必要以上(モノやサービスの供給量以上)のお金が社会に滞留することは、それこそ「貯蓄=投機」による資産バブルなどを通じて経済を不安定化します。現在の経済構造を前提とすると、配られたお金は巡り巡って富裕層の手元に集まっていくことが想定されますから、この懸念はなおさら強まります。

そこでお金の排水口としては、オランダのボックス31などを参考にしながら、主に富裕層をターゲットにした資産中心の課税を考えるのが望ましいでしょう。

実際の需要につながる消費や、その需要に対応するための事業や労働による利益や所得への課税は望ましくありません。消費・事業・労働に課税すると実際にモノやサービスがやり取りされて実体的な便益が増えるという経済過程が阻害されてしまうからです。

他方、「貯蓄=投機」によってどんどん膨らんでいく金融資産に関していえば、そこにはそのようなモノやサービスに関わる実物的な便益はありません。そこにあるのは証券口座の数字が増えることによる満足感であり、それが一種の点数のように機能して、それを人々は自分の価値の証明として受け取るのです。

こう考えると、定員が限られた受験においては点数の絶対値ではなく順位(あるいは偏差値)が重要であるのと同様に、ここで重要なのはお金の量の絶対値ではなく相対値であるとも言えるでしょう。

とすると、この金融資産を課税で目減りさせても、ちょっと考えると実は便益の減少はないはずなのです。確かにお金は減りますが、公平な課税を行うなら富裕層の間の相対順位は変わらないからです。

富裕層の資産課税で実は便益が減らないのは、結局、富裕層はそのお金を使って何かモノやサービスを買うわけではなく、それをただ自分の価値の証明書としたいだけだからで、その価値は順位が変わらない以上、いかなる意味でも劣化していないからです。

このような方向性での変革により、私たちは「貯蓄=投機」社会という倒錯を終わらせ、21世紀の技術水準、その供給力水準に見合った豊かな社会への移行を推し進めることができるのではないでしょうか。

  1. 「ボックス3 では,資本性所得に対して4%の利回りがあるとみなして,30%の比例税率に課税するみなし課税が採用された」( https://www.jstage.jst.go.jp/article/pfsjipf/9/0/9_191/_pdf/-char/ja↩︎

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