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今回の記事は、「資本主義」という言葉について、根本的な解説を分かりやすくかつ詳しく行います。
資本主義とは「頭金を出したやつが偉い主義」である
「資本主義」とはなんでしょうか。それを一言でいえば、文字通り、「頭金を出したやつが偉い主義」です。
ポイントは「文字通り」というところにあります。資本を英語でいえばcapitalですが、頭に被るものがcapで、頭領がcaptainで、首都がcapitalで、首切り・絞首刑などの処刑がcapital punishmentであることからも分かるように、capitalとは「頭」であって、経済の文脈でいえば、いわば「頭金(最初の元金・元手)」1なのです。
だから、資本主義とは、文字通り、頭金主義であり、もっといえば「頭金を出したやつが偉いという主義」なのです。
マルクスによる「資本=頭金」の定義を復習する
さて、これはどういう意味なのでしょうか。まず「資本=頭金」については、資本主義批判で有名なマルクスの定義を参照するべきでしょう。マルクスは、まず「お金(貨幣)」を考え、そのある特殊な捉え方として「資本」を導入します。
まず、お金について考えましょう。私たちは何かモノを生産しており、それとは別のモノを欲しているとします。たとえば、私は砂糖を生産していて、砂糖の他に塩が欲しいと思っています。塩を持っている人が砂糖を欲していれば、何の問題もありません。私の砂糖をその人の塩と交換すればよいからです。だが、いつもそう上手くはいかないでしょう。塩を持っている人が砂糖を欲していないことがありえます。
そこで必要なのが、誰もが欲しがるモノ、もっと正確にいうと、そういうモノだと思われているがゆえに実際に誰もが欲しがるモノ、つまり、「お金」です。
お金が存在するなら、私は塩を手に入れられるか心配する必要はありません。まずは砂糖を売ってお金を得て、然るのち、そのお金で塩を買えばいいからです。お金は誰もが欲しがるモノであって、塩を持つ人もお金となら必ず交換してくれるでしょう。
もちろん、この「モノ(商品)としての貨幣(お金)」といういわゆる「商品貨幣論」には大いに異論はあるものの、そこには目を瞑りましょう。ここでのポイントは、素朴な経済においての順序は「砂糖→貨幣→塩」、つまり、「自分が生産したモノ→貨幣→自分が欲しいモノ」だということです
さて、「資本」は、「モノ→貨幣→モノ」という、この素朴な順序の見方を「貨幣→モノ→もっと多い貨幣」へと変えることによって生成します。もはや問題は、欲しいモノを手にいれるために、自分の作ったモノを貨幣に変えることではないのです。いや、最初はそのつもりでもいいのですが、ポイントは、貨幣を手にしたところで立ち止まることです。そこでいま欲しい特定のモノではなく、今後現れるであろう欲しいモノ一般へのアクセス権としての貨幣をもっと手に入れたいと考えるようになることです。
そう考えるとき、貨幣はすでに「資本」になっています。
もっと多くの貨幣を得るためにどうするかといえば、私は貨幣をモノに交換します、それは、そのモノをより最初よりも多くの貨幣に交換するためです。「モノ→貨幣→モノ」ではなく、「貨幣→モノ→もっと多い貨幣」、これが「資本」の根源的な定義です。それはもっと大きなお金をつくるための「もとになるお金」、つまり、「頭金(最初の元金・元手)」なのです。
商業資本・金融資本・産業資本
さて、マルクスはこの資本を三つに分類しています。それが商業資本・金融資本・産業資本です。
商業資本は要するに商人(転売屋)であって、先の「資本」の根源的な定義にもっとも忠実な資本です。転売屋はお金をモノに変え、そのモノをもっと高く売って利益を得ます。そうして資本を大きくしていくのです。
金融資本はもはやモノを通らない資本です。金融資本はお金を貸し出し、それを利子とともに回収することで資本を大きくしていきます。
産業資本は自らモノの生産を組織するようになった資本です。商業資本のように単にモノを転売するのではありません。工場を構え、原材料を買い、労働者を雇い、モノを作って、それを販売します。この過程で最初に投入した頭金よりも大きなお金を獲得します。そうして資本を増やすのです。
近代資本主義社会とその結果としての豊かな社会
さて、近代の資本主義社会とは、この産業資本が社会の生産過程の中枢を握った社会として定義できます。
それまでは基本的に家族経営の農業・手工業や少人数の職人集団が社会の生産を支えていました。それに代わって資本家が運営する工場が登場し、大多数の人々はそこに労働者として働きに出るようになります。社会的に有益とされる財のますます多くの部分がこの形態で生産される社会が資本主義社会です。
この工場システムが圧倒的な生産性を誇ったことによって、近代社会はモノが溢れる豊かな社会へと変貌しました。
それは第一には、アダム・スミスが明らかにしたような、多人数による分業が可能にする作業の徹底的な細分化と専門化の成果でした。また、それに引き続いて生じた産業革命、すなわち、作業工程への機械の導入の成果でした。この二つが一人の人間が生産できるモノの量、つまりは生産性を爆発的に高め、モノの豊かさを実現したのです。
それは第二には、最初は儲かる事業でもすぐに新規参入者が殺到して安売り競争になり利益が削られていくなか、十分な利益を獲得しようとすれば、常に革新を起こしたり改善を続けたりしなければならないという市場競争の容赦ない作用の成果でもあったのです。それはシュンペーターが論じた、資本主義社会において重要な意義を持つイノベーションの成果なのです。
「頭金を出したやつが偉い主義」としての資本主義への批判と反論
さて、この資本主義社会とは「頭金を出したやつが偉い」とされる社会です。というのも、頭金を出した資本家は、会社が出した利益を独占するだけではなく、会社自体の所有者でもあるからです。
この後者の「会社の所有者」であることの意味がもっとも顕著に現れるのが、会社の売却という場面です。それなりの会社が売却されるとき、その所有者である「(創業者=)資本家」は数億~数百億、あるいはそれ以上という莫大なお金を得ます。それに対して、その会社で働く労働者は、何も起きなかったかのようにそれまでと同様に働き続けるだけです。
さて、マルクスはこのような資本家による「利益の独占」「会社の所有」を批判的に論じました。工場の稼働において、資本家は働かず、働くのはもっぱら労働者です。とすれば、利益の源泉は労働者なのではないでしょうか。
いや、最初に「頭金」を出したのは俺だ!と資本家は主張するかもしれません。確かにそれは認めるとしても、その「頭金」はそれほど大きくなかったはずです。資本家は、小さく出発して利益を出し、その利益を再投資して工場や会社を大きくしていったのでしょう。その利益の源泉は労働者です。だとしたら、会社の利益も、会社の価値も、大部分は労働者に属するべきではないか…。
こうしてマルクスは、会社を「頭金を出したやつ」が独占的に所有する「資本(=頭金)主義」ではなく、それを「労働者=ほぼみんな=社会」で所有する「社会主義」、そしてその発展形と位置付けられる「共産主義」を主張したわけです。
この「共産主義」とはなんなのでしょうか。資本主義や、それを引き継ぐとされる社会主義によって生産性が十分に高まることにより、モノに関する「希少性」が失われた世界だと考えればよいでしょう。マルクスによれば「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」が共産主義の原則です。生産性が十分に高い世界では、必要な労働は少なく、供給されるモノは多い。だから人は能力に応じて自発的に働けば足り、必要なだけ受け取ればよいというわけです。モノは希少ではないのだから、分配についてうるさく議論する必要はないのです。
さて、話をマルクスの資本主義批判に戻しましょう。このマルクスの批判をどう見るべきでしょうか?児童労働・長時間労働・3Kが当たり前で労働者が悲惨な状況にあったマルクスの時代ならいざ知らず、それに比べればだいぶマシな現代に生きる私には、この批判は一面的であるという議論にも説得力があるでしょう。
第一に、資本家を創業者としてみれば、資本家は資本家で働いています。事業のアイディアを考え、頭金を用意し、創業までに数多くの準備をこなします。指示通りに動けばよい労働者とは違い、資本家はときには厳しい市場競争にさらされつつ、生き残るための方策を必死で考案し、実行体制を整えます。
第二に、これと関連して、資本家は労働者と違う大きくリスクを取っています。労働者は会社に行って指示に従えば所定の賃金を受け取れます。他方の資本家は所得を保証されず、失敗すれば頭金を失うのみならず、場合によっては借金だけが残るのです。
第三に、以上の二つの点によって、資本家がイノベーションを生み出す中心にいるという点を評価することも忘れてはならないでしょう。やはり資本家が独自のアイディアをもってする創業や、競争のなかで資本家が中心になって生みだす創意工夫によって、社会に次々と革新がもたらされるということも否定できないでしょう。
要するに、このようにリスクをとって革新を生み出すべく働く資本家に高い報酬を与えることで、さまざまな革新に大きなインセンティブを与えることは一概に悪いとは思われないのです。アダム・スミスが「神の見えざる手」という言葉で言わんとしたことですが、市場経済は各人の利己心を他者への貢献へと導く仕組みです。お金を稼ぎたいなら、他人にお金を払ってもらえるような、他人にとって役に立つことをしなさいというわけです。
とはいうものの、資本主義が現実の歴史経過において、マルクスが想定したように、ごく一部の裕福な資本家と大多数の困窮する労働者に分化していったのであれば、さすがに資本主義という「頭金を出したやつが全てを持っていく」システムは不公正であり、以上のような擁護論は意味をなさないでしょう。
だとすれば、資本主義を擁護しうるのは、資本主義がマトモになり、実際には大多数の困窮する労働者を生み出すのではなく、逆に一般の労働者に豊かな生活を可能にしたからなのです。
このことを踏まえ、次回以降の記事では、なぜ20世紀中盤ごろに資本主義がいっときいくらかマトモになり、ここ数十年でなぜふたたびデタラメに戻りつつあるのか、そのあらましを述べた上で、資本主義と資本主義批判の今後を展望します。
- 日本で「頭金」というと、何かをローンで買う際に最初に部分的に支払うまとまったお金のことを意味しますが、ここでは、「それを出発点として、そこから事業が大きくなっていく元手となるお金」という意味で「頭金」を使っています。この一種の転用がそこまで的外れでないのは、普通創業の際には、自己資金をそれこそ頭金的に資本金としたあと、ローンと同じく借入をすることで事業資金を確保するのが普通だからでもあります。 ↩︎


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