ヘーゲルの弁証法とは?それは「主体の二重性が生み出す運動の論理」だ

ヘーゲルの弁証法とは?それは「主体の二重性が生み出す運動の論理」だ

この記事は約17分で読めます。

私は私なりの意味においてヘーゲリアンであり、その意味は私なりに解釈したヘーゲル的な「弁証法」を自らの全哲学の基礎に据えているということです。

この記事では、この私なりに解釈したヘーゲル的な「弁証法」とは何なのかを解説します。

目次

主体の二重性が生み出す運動の論理としての弁証法—ヘーゲルのデカルト批判

さて、こちらのヘーゲルの『法の哲学』の入門記事で述べたとおり、私はヘーゲルの主体理論はある特殊なデカルト批判として理解するべきだと考えています。

それはこういうことです。デカルトは「疑いなく真といえるものを得るために、少しでも疑えるものはなんでも疑う」という方法的懐疑を遂行して、私たちが現にみている(私たち自身の身体を含む)外界の存在から数学的な法則まで、なんでも疑い得ないものはないと否定していき、最後に「こうして疑っている以上は、疑っている私の存在自体は疑い得ない」との結論を得ました。

これが有名な「我思う、故に我あり」です。ここでの「我」とは疑っている限りでの私であって、その前の段階で否定された身体などは含みません。この私は単なる思考であって、その意味でコギト(「私は思考する」)と呼ばれます。

デカルトはこのように方法的懐疑を遂行し、その終着点に見出されたコギト(思考である限りでの私)こそを、唯一絶対に疑い得ない基礎として、全てをそこから再スタートしますが、すると問題となったのは、このような思考としての私と身体としての私の関係でした。一旦完全に切り離され、全く違う種類のものとされた二つがどうやって連携するのでしょうか。それが伝統的に問題だとされてきたのです。

ただ、私が思うに問題はもっと根本的です。本当にデカルトのようにコギトを絶対的な出発点として考えるなら、そもそも思考としての私が身体にくっ付いている理由がないはずなのです。「なぜ思考としての私は身体にくっついているのか?」「たまたまです」ということになってしまうでしょう。これは流石に不合理です。

ヘーゲルはこの問題を回避する仕方で主体の理論を設定したのです。すなわち、「意識を持つ身体」がまずあって、その意識が「意識自身を意識する」ことによって、あるいは単に「認識」するのではなく「認識していることを認識する」という意味での「反省」をすることによって、方法的懐疑におけるようなコギトの抽出が可能になるというモデルで主体を考えたのだと思われるのです。

ここでヘーゲルのいう「反省」とは「反射」であって、意識の視線が鏡に当たって跳ね返るようにして対象ではなく意識自身に向かうことです。

単に「意識する」のではなく、「意識していることを意識する」ことによって、私は「これは私が見ているだけなのではないか」と、意識の対象を突き放して見ることができるようになります。それをある意味では否定できるようになるのです。デカルトの方法的懐疑とは、結局、これを全てに対して全面的に実行しただけのことであり、そうすることで「意識の意識(自己意識)」だけが絶対確実だという結論に至ったわけです。コギトとは、「私が考えている」ということであり、そこにあるのは純粋な自己参照です。

さて、このような事情から、ヘーゲルは主体の本質を「否定性」として定義します。意識が反省して「意識自身を意識する」「自己意識」になることで、意識はそれまでの対象を「私が見ているだけかもしれない」と否定し相対化するからです。今風にいえばメタなポジションを取るということであり、この行き着く先が「我思う、故に我あり」、すなわちコギトだけが確実だというデカルトの方法的懐疑です。

さて、しかし、デカルトとヘーゲルが違うのは、デカルトのコギトが絶対的な出発点になるのに対して、ヘーゲルのコギトは否定の結果であり、だからこそ、それは自らが否定した現実に対して依存的な存在なのであって、コギト的な純粋否定自身が、より高次な段階に至るために否定されなければならないと考えるところにあります。

このためヘーゲルの主体は二重なのです。すなわち、ヘーゲル的な主体とは、現実世界の中に位置を持つ身体であると同時に、現実一切を否定することで純粋な否定的存在者となったコギトであるという、緊張関係を孕んだ二重性から構成されるのです。

もちろん、デカルトの主体も思考と身体の二重性なのですが、デカルトにあってはその二つは二つの別々の実体であり、そこには内在的な緊張関係がありません。他方のヘーゲルにあっては、この二重性は、コギトは身体を否定することで析出する、あるいはまたコギトは否定であることで自らを否定せざるをえないという緊張関係と運動性を孕んでいるのです。

そしてヘーゲルの弁証法とは、最も根本的には、この緊張関係を孕む二重性からなる主体の運動の論理に他なりません。絶対の否定としてのコギトが身体から自立し、しかし、それが否定であるがゆえに否定したものに限定されていて、だからこそコギトは自らを否定して先に進んでいかなければなりません。コギトは再び身体を引き受け、身体的肯定とコギト的否定の緊張関係が持続します。

この運動の論理が弁証法であって、だから弁証法はこの緊張関係がどのように展開して、どこに向かうのか、それを語ってくれるはずのものなのです。

「純粋経験」から出発すべきだ—カント哲学のどこが間違いなのか

カント批判の記事で展開したことですが、このような意味での「弁証法」を展開させる上でのもう一つのポイントは、西田幾多郎的な「純粋経験」から出発すべきだということです。その意味はカントのように下手に「超越論的な問い」を立てるべきではないということです。

「超越論的な問い」とは、私の理解するところ、経験の可能性の条件を問うということですが、こんなことは不可能に思われるのです。私たちには常にすでに「経験」のうちにいるしかなく、だから、その可能性の条件を問うこと、つまり、なんらかの意味で経験の背後に回ること、あるいは経験の以前に遡ることは不可能なのではないでしょうか。

カントは私たちの現にある経験の可能性の条件を問い、それをある意味ではバラバラに解体して、そのバラバラから経験が生成する物語を語りました。

いわく、まず外界に経験に現れない物自体があって、それが私たちの感性を触発する。この私たちの感性には、そのような入力を整序する枠組みとして時間と空間が属していて、それに応じて感性に入力された多様が整理されていく。

そこに私たちの能力の一つである構想力(想像力)が働いて、感性の多様は対象としてまとめ上げられていく。最後に言語的能力としての悟性が働いて、対象は概念的に把握されるようになるとともに、個々の対象のみならず経験全体が統一されることになる。

こうして私たちが知っているような統一的な経験ができるというわけです。この経験は、物自体ではなく、その私たちへの現れであるという意味で「現象」であるとされます。

さて、この議論の問題点は、カントによる客観側(物自体側)と主観側(認識能力側)への経験の要素の割り振りが正当化され得ないように思われることです。いや、カントによるもののみならず、いかなる同様の試みも正当化され得ないように思われるのです。

たとえば、なぜカントは空間や時間が主観の側にあると言えるのでしょうか。物自体を見て、そこに空間や時間がないことを確認しなければ、そんなことは言い得ないはずですが、この物自体を見ることは不可能です。カント自身がそう言っていますし、実際、物自体を見たと思ったとしても、主観が見ている以上は、そこに主観の側の付け加えがないことなど決して確証できず、それが物自体だとは言い切れないのです。

この最後の理屈は、何かを物自体の側に属するとする主張への批判としても機能します。カントは感性の多様を物自体に属するというか、物自体の側から来たものとしているように思われますが、これも上で述べたことからそんなことは言い切れないわけです。それを主観の側の付け加えではない確証はないのです。

こういうわけで、この種の「経験の可能性の条件の問い」ないし「超越論的な問い」は、このように個々の部分で恣意性を免れず、したがって、そのような恣意的判断の集積として構成される経験の構成の物語も有効ではないのです。

経験の内側にあって経験から出発せざるを得ず、だから経験を超えたところだけではなく、経験以前もまさに経験し得ない私たちにとっては、この「経験の可能性」の問いは、答え得ないもの、「語り得ないもの」なのです。

だから、私は経験以前に言及せざるを得ない「経験の可能性の条件の問い」ないし「超越論的な問い」は放棄して、徹底的に経験から出発すべきだと考えます。

では、なぜ「純粋経験」なのでしょうか?

超越論的な問いは、経験以前を問い、現にある経験がまさにこうなる以前を問います。経験はバラバラにされ、まさに現にある経験とは似ても似つかないものが主役となります。物自体、感性の多様、時間、空間、純粋カテゴリー…。

これに対して「純粋経験」は現にある経験から、その内容をある意味では一切変えないようなものを差し引くだけでよいのです。その差し引かれるものが何かといえば、それがまさにヘーゲル的な意味での反省であり自己意識であり「意識の意識」ないし「認識の認識」です。

この「認識の認識」、つまり、現に「認識しているんだ!」ということ自体の認識がなければ、まさにヘーゲル的な意味で「否定」が存在せず、意識は対象に密着没頭します。そもそも、「意識の意識」がないのですから、そこでは意識ということは何の意味も持っておらず、ただ対象(とのちに呼ばれることになるもの)が現前しているだけなのです。そこには主もなく客もなく、まさに主客未分の「純粋経験」なのです。

「純粋経験」から始まる「弁証法」運動の基本骨格

以上の二つの節から導き出される結論は、「意識の意識」なき主客未分の「純粋経験」から出発して、そこに「意識の意識」から生じる「弁証法」運動を起動させ展開させるべきだというものになります。この運動の基本骨格を考えましょう。

「意識の意識」がない「純粋経験」では、主観も客観もなければ、主観的な認識と客観的な認識の区別もありません。そこにありうるのはどこまでいってもせいぜい「パソコンだ」ということであり、「パソコンが見える」ではないし、ましてや「私がパソコンを見ている」ではありません。「見える」という「意識」については「意識」されていないからです。

逆に、ヘーゲル的な意味での「反省」(意識の視線が鏡で「反射」されるようにして意識自身に向かうこと)が生じて、この意識しているということ自体の意識さえ生じれば、以上のすべてが生み出されてきます。

そもそも「私」とは、この意識の意識が生じるときに、意識の帰属先として設定されるもの以外の何者でもありえないでしょう。意識の意識において、意識の担い手として「私」が設定されると、意識の意識は「私を意識すること」として、正しく「自己意識」と呼ばれうるものとなります。経験の中で、この私が「主観」の中心であり、それ以外のものが客観ということになるでしょう。

さて、この「私」は続いて身体と同一化されることになるでしょう。というのは、意識が身体に属していることは経験から明らかだからです。鏡を見ながら目をゆっくり閉じていくと、私たちは鏡において目がゆっくり閉じていくことを確認しつつ、視野がゆっくり狭まっていくことを感じます。

意識の中心を構成する視覚が身体の動きと厳密に連動します。これだけで意識が身体に属していることを確認するには十分でしょう。

この「私」の身体への関係付けは、必然的に他の身体を「私」の同格者である「他者」として認めることへと通じるでしょう。この同格者との関係が「客観性」ないし「客観的認識」の基礎となります。

そもそも主客未分の純粋経験には、主観も客観もなく、したがって、主観的な認識と客観的な認識の区別もありません。そこにあるのはただ単純な真理のみなのです。

これに対して「意識の意識」の生成は、先にヘーゲル的な「意識の意識」「反省」「自己意識」、つまり主体そのものの根本性質が「否定性」であることを確認したことからわかるように、このような単純な真理全般の相対化を意味します。純粋経験においては単純な真理であったものが、「意識の意識」における意識への全般的な関係付けのなかで、「私に見えているだけなのではないか」というデカルト的な懐疑を被ることになるのです。

このデカルト的な懐疑の部分的な適用と「他者」という存在が「客観的な認識」を可能にします。すなわち、この二つの要件があることで、意識に関係づけられることで「単純な真理」という無条件の妥当性を失った経験内容のうちで、私にしか経験されていないという意味で主観的な認識と他者にも共有可能であるという意味で客観的な認識への区別が可能になるからです。

すべてに対していったんは「私に見えているだけなのではないか?」という疑問が突きつけられるなかで、他者がいれば、他者と共有でき他者にも見えているものと、本当に私にしか見えていないものの区別が可能になるのです。

たとえば、机の上にリンゴがあることは他者とも共有できる客観的認識です。それに対して足の怪我の痛みは自分にしか感じられない主観的認識です。しかるに足に怪我があること自体は他者とも共有できる客観的認識ですし、そのような怪我があるときには痛いということも他者と共有できますから、ここから「身体に生じる感覚は主観的である」という客観的な認識も可能になるでしょう。

もちろん、ここでいう客観的とは間主観的ということに過ぎませんが、私の主張は、認識の客観性はこのような間主観性としてしか、あるいはその可能な限りの延長としてしかあり得ないということです。

さて、「意識の意識」は経験の内容については何も付け加えないように思います。強いていえば、それが付け加えるのは意識自身のみであるということになるでしょう。

さて、ここで興味深いのは、このように考えてくると「客観性」と「懐疑論」、そして「他者性」と「独我論」が同根であることが明らかになることです。すなわち、純粋経験では「主観=客観」であって、そのなかに「私」が位置付けを持たないがために、その同格者としての「他者」も存在しません。これは外からみれば主観が世界に完全に癒着した決定的な閉塞状態です。

それに対して、「意識の意識」は意識の担い手としての「私」の発見と、その身体との同一化を通じて、他の身体を私の同格者たる「他者」とすることへと通じます。そして、「意識の意識」によって単純な真理という無条件的な妥当性を否定され相対化された経験内容が、私のみに経験されていることと他者とも共有できることへと、つまり主観的な認識と客観的な認識へと区別されていくのです。

しかるに、第一節で明らかにした通り、この「意識の意識」が可能にする懐疑の全面的な適用こそ、デカルトの方法的懐疑であり、その帰結たる「我思う、故に我あり」は、デカルトがやったようにおそらくは最終的に正当化され得ない仕方で「神」を召喚しない限りで、思考である限りの私の存在以外は全て疑わしいという「懐疑論」であって、この思考である限りの私以外は存在しないという「独我論」に他ならないでしょう。

すなわち、「意識の意識」は「客観性」と「他者性」を可能にするものでありながら、その全面的な適用は、これらの反対物、すなわち「懐疑論」と「独我論」へと導くのです。もし純粋経験の閉塞性をもまた別の意味で「独我論」と呼び得るとすれば、「客観性」と「他者性」が統べる次元、おそらくは「理性」の次元と呼び得るものは、二つの独我論の極の間、その微妙なバランスの上でのみ可能であると言い得るのかもしれません。

懐疑論や独我論が否定し得ないのは、それが理性を可能にするもの、あるいは根本的には理性そのものだからでしょう。ただ、その理性を純粋に追求すると、それは懐疑論的・独我論的な一種の狂気に直結しているのです。

さて、純粋経験とコギトという二つの独我論的な極、これこそ主体の二重性を構成するものであり、この二重性が織り成す緊張関係を孕んだ主体の運動の論理こそ、私の解釈では、ヘーゲルが「弁証法」と呼んだものに他なりません。

この運動の論理をどのように理解するべきでしょうか。まず、この私の二重性は特殊性の極と普遍性の極であることを確認しましょう。一方には特定の対象やあり方との完全な癒着があり、他方には一切が捨象され無内容になったがゆえに達成される完全な普遍性があるのです。いつもながらヘーゲルの『法の哲学』を引用しましょう。普遍性(コギト)・特殊性(純粋経験)の順番で紹介します。

§5 意志はα)純粋な無規定性という要素、あるいはそのうちでは全ての制限が、自然や必要や欲望や欲求を通じて直接的に存在している全ての内容、どこからであれ与えられ規定された全ての内容が解消されているような自己の自己自身への純粋な反省という要素を含む。これは絶対的抽象ないし普遍性の制限なき無限性であり、自己自身の純粋な思惟である。 (中公クラシックス、p.72)

§6 β)自我はまた、区別なき無規定性から区別立てへの移行であり、規定することへの、そして、ある規定されたあり方を内容と対象として定立することへの移行である。(…)自我はこのように自己自身をある規定されたものとして定立することによって、現存在一般のなかへ踏み入る。——これが自我の有限性ないし特殊化という絶対的契機である。(中公クラシックス、p.76)

さて、この二つはどのように関係し、発展的な運動過程を展開していくのでしょうか。私は要するにこういうことだと考えます。

特殊性は、特殊性であるために現実の中で他の特殊性と必然的に衝突し、「否定」されます。もし主体ないし「私」が特殊性の一極だけで成っているのであれば、私はこの「否定」でもって完全に「否定」され、いわばゲームオーバーです。

しかし、私はもう一方の極において、そもそもが絶対的な否定であり、ある特定の特殊性と決して同一化されえないものなのです。だから、私はこの外からやってくる特殊性の否定、いわば外的否定を生き延びることができます。

そして、この特殊性の側面の否定を、自らが絶対的な否定であることによって乗り越えること、その意味での「否定の否定」によって、主体は特殊性の側面を、以前のような否定を乗り越えうるものに変化させることができます。すなわち、先に否定的に作用した別の特殊性と衝突しないという意味で、それをより普遍的なものへと高めることができるのです。

この過程は、ある特殊性(正)が別の特殊性(反)とぶつかって否定された結果、より高次のもの(合)へと展開するという弁証法のよくある定式化によって語ることもできるのですが、私のポイントは、この正反合の構造を可能にするのは、主体が否定を生き延びることを可能にする、主体の二元的構造なのであって、この主体の二元的構造の運動論理として「弁証法」を定義する方がより根本的だということです。

また私の主張は、これはヘーゲルと同じだと思うのですが、抽象的普遍よりも具体的普遍が重要であるということです。

抽象的な普遍とは主体のコギト的な極であり、それは特殊性すべてを否定します。他方の具体的な普遍とは何かといえば、自らの引き受けていた特殊性の否定を「抽象的な普遍の絶対否定の力であること」によって生き延びた主体が、この否定を生み出した対立構造を乗り越えるために次の段階で形成する、かつての自らの特殊性とそれを否定した他の特殊性とを包含するような新たな立場のことです。これも抽象的普遍から見れば究極的には特殊性ではあるのですが、かつての特殊性よりも普遍的であり、またかつての具体的な特殊性とその反対物を調停し包含するものとして具体的な普遍と呼ばれうるのです。

ここで抽象的普遍よりも具体的普遍が重要であるのは、抽象的普遍への固執が先に述べたように「懐疑論」であり「独我論」でしかないからです。確かにこの抽象的否定があればこそ、私たちは特殊性の否定から先へと歩みを進めることができるのですが、この抽象的普遍自体への固執は一種の狂気に他ならず、理性は特殊性と抽象的な普遍性との間で生み出される具体的な普遍性においてのみ、いわば理性的な理性として存在し得るのです。

抽象的普遍ないし狂気としての理性は否定の作用として通過点に過ぎず、そこは安住できる場所でも安住すべき場所でもないのです。

この抽象的普遍の批判はヘーゲルのカント批判でもあります。カント的な主体(超越論的統覚)もどちらかといえばヘーゲルよりもデカルトに近く、ヘーゲルにおいてのように、否定のプロセスによって生じ、純粋な否定でしかないもの、だから内容を持たず、過渡的ないし出来事的なものであり、いわば再び否定されるべきものと捉えられるよりは、むしろ何か肯定的なものとして出発点に置かれます。

そして、そうであることでカント的な普遍は確かに特殊性を否定しはしないものの、抽象的で静的なもの、初めから決まりきったものにとどまります。空間・時間・純粋カテゴリーといったプリセットされた形式なのです。しかるにヘーゲル的な普遍の中心をなす具体的普遍は、一方でこの抽象的普遍としての主体によって可能になるものではあるものの、やはり特殊性のぶつかり合いないし相互否定のなかで生成してくる動的な具体的普遍なのです。

結論:弁証法と具体的普遍

そろそろ結論としましょう。

弁証法とはなんなのでしょうか。それは主体の二重性が生み出す運動の論理として、根本的には主体の理論であり、またそうであることによって認識論であり、存在論であり、倫理学でもあります。

それが認識論であるというのは、弁証法が純粋経験から出発して、そこにある経験内容が弁証法的二重性を通じて否定・相対化され、その後に他者との共有可能性の度合いによって主観的認識と客観的認識がグラデーション的に分化していくと考える点においてです。

それが存在論であるというのは、純粋経験からの出発は認識と存在を区別しないがために、この認識上の分化が主観的存在と客観的存在との分化そのものだからです。それは存在を直接に語ります。

最後に、それが倫理学であるというのは、主体の本質に即して、弁証法的な過程を経ながら、具体的普遍の意味でより普遍的な立場を目指すことこそが自由の実現であることを示すことによってです。

現実の中で特殊性は別の特殊性と衝突して否定されます。しかし、私はそもそもが絶対の否定、抽象的否定であるがゆえに、この特殊の否定を生き延び、この衝突を乗り越えうるような、より普遍的な特殊の立場を取ることができます。重要なのはこの具体的普遍であり、それを徐々に真に普遍的なものへと高めていく過程です。

このようにいわば物的な特殊性から精神的な普遍性へと高まっていくことが、ヘーゲルのいわゆる精神の自己展開の過程であり、自由の発展と実現の歴史であり、理性の進歩に他ならないわけです。

この具体的普遍の立場は、哲学的にいえば、二つの独我論的狂気の間の危ういバランスとして存在する理性の立場をとることであり、また政治的にいえば、まさに中道の立場をとることでもあります。というのは、純粋経験の極とコギトの極は、いわゆる右翼の極と左翼の極の立場に単なる思いつき以上の程度で対応しているように思われるからです。

もちろん、以上の叙述は最初のスケッチに過ぎません。弁証法の哲学のより体系的な展開は今後の課題として残されています。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!
「ほんとうの経済の話」を広めることが日本と世界をよくする第一歩です。ぜひ拡散にご協力ください。
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次