責任ある積極財政とは?その意味を「家計・企業・国家」の視点で整理

責任ある積極財政とは?その意味を家計・企業・国家の視点で徹底整理

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この記事では、高市政権のキャッチフレーズ「責任ある積極財政」とは何なのかを、ゴリゴリの積極財政派の立場から批判的に整理します。

さて、現代の日本には大雑把に三つの立場があると言えるでしょう。

緊縮財政派、「責任ある」積極財政派、無印積極財政派です。

この無印積極財政派は、「責任ある」積極財政派からみたら「無責任な」積極財政派なのでしょうが、この立場に立つ私としてはこれを「ゴリゴリの」積極財政派と呼んでおきたいと思います。

これらの違いを整理しましょう。

この三つをうまく捉える方法は、国家財政を家計のようにみるか、企業のようにみるか、国家固有の次元としてみるかという違いから整理することです。

以下、それぞれの立場を見ていきます。

目次

緊縮財政派の家計アナロジーとPB黒字化という財政規律

緊縮財政派は国家財政を家計と同じようなものと捉えています。家計が収入の範囲内で支出すべきであり、収入以上の支出によって借金を抱え込みすぎるべきでないのと同様に、国家も収入の範囲内で支出すべきであり、収入以上の支出によって借金を抱え込みすぎるべきでないのです。

なので彼らにとって税収の範囲内に(国債費以外の)支出を抑えるプライマリーバランスの黒字化が財政規律としてしっくりくるのでしょう。彼らは「国の借金1000兆円」を強調し、国家財政が大変だからとにかくまずはプライマリーバランスの黒字化だと主張するのです。

責任ある積極財政派の企業アナロジーと債務残高GDP比引き下げの財政規律

「責任ある」積極財政派は、私の見るところ、国家財政をかなりの程度まで企業と同じようなものと捉えているように思われます。家計にとって借金は基本的に忌避すべきものであるのと違い、企業に借金はつきものです。自己資本や利益剰余金で投資しているのでは競争に勝てないのです。将来の利益を見込んで、まずは借金で投資して事業体制を整える。それが企業経営の基本であって、この企業とのアナロジーで国家経営を捉えるのです。

だから、彼らは「借金=悪」という家計的な捉え方はしません。借金は悪くない。それでもって成長を達成し、企業が売り上げを増やすように、国家も税収を増やしていけばいい。借金の額だけを見るのはナンセンスで、資産の方も見なければならない。売り上げや利益対比で借金がどんどん増え続けているということさえなければいい。

「責任ある」積極財政派の人々は、私の知る限り、財政規律として、プライマリーバランスの黒字化は主張せず、むしろ債務残高対GDP比の安定的な引き下げを主張しているようです。現状は名目成長率がインフレ率が3%ほどあることで4%弱、利払いは既発債の金利が低いため1%程度と、成長率と金利との差が3%もあります。すると、債務残高比で3%までの新規国債発行であれば、債務残高対GDP比は下がります。「国の借金」が1100兆円だとして、借換債でない新規の国債発行が33兆円までであれば、債務残高対GDP比は下がるというわけです。

「責任ある」積極財政派の人々は、企業アナロジーとも重なる形で、将来の売り上げ(税収)を上げるための投資という言い方を好み、供給能力を強化するような投資的な財政支出を好む傾向があるようです。消費的な財政支出である国民への直接給付や減税よりも、企業向けの支出や減税を好むのです。経済成長の制約を供給制約の方に見ることを好む点に、主流派経済学的な思考法が伺えます。

代表的な人物として、政治家では、高市早苗首相に加え、玉木雄一郎が挙げられるでしょう。アベノミクスのころにリフレ派と呼ばれた人々はだいたいこのカテゴリーに入る印象で、高橋洋一や本田悦朗が挙げられるでしょう。高市政権で政府の会議に入った企業系エコノミストの永濱利廣や会田卓司もこちらでしょうが、会田氏はこの中で最も「ゴリゴリ」寄りという特徴があるように思います。

ゴリゴリの積極財政派は国家固有の次元をみて財政規律を設定する

「ゴリゴリの」積極財政派は、私自身はこの立場だから贔屓目になってしまうかもしれませんが、MMTの影響を受けて、国家財政を家計や企業とのアナロジーで理解するようなことはせず、国家財政固有の次元を見据えます。

国家は、家計や企業のような通貨の利用者ではなく通貨の発行者であって、だから収入の範囲で支出する必要もなければ、そもそも借金なるものをする必要もなく、税収を「稼ぐ」必要もなければ、借金に見合う資産を積み上げる必要もありません。というのも、(政府と中央銀行を統合してとらえれば)国家は通貨をいつでも発行できるし、実際に発行しているからです。

そういうわけでゴリゴリの積極財政派は財政自体の指標に財政規律を求めません。通貨を発行でき借金をする必要のない政府には、支出と収入の関係や借金の残高など意味のない数字だからです。そうではなく、財政を評価するにあたっては、それが経済をよい状態に保っているかという、経済に対する機能だけが重要です。「経済あっての財政」ではなく「経済・経済・経済」、それがゴリゴリの積極財政派の機能的財政論です。

では、経済の良い状態とはなんでしょうか?それは働きたい人が全員働けているという完全雇用を達成しつつ、経済を混乱させる過度なインフレが引き起こされていない状態です。雇用の最大化と物価の安定を謳うFRBの目標と同じような内容で、本家MMTの政策規範も「インフレを引き起こさず完全雇用を達成すること」です。

本家MMTは、このためには政府が最低賃金で働きたい人を全員雇うJGP(雇用保証プログラム)が、完全雇用を達成しつつ、最低賃金ですからインフレも起こさないし、好景気になるとJGPの労働者たちが民間に移動することで賃金インフレの防止圧力となるため最善の政策だと主張します。

それに対して、日本のゴリゴリの積極財政派ではこのJGPまで引き受けている人は少ない印象です。本家MMTは、政治家の判断による裁量的な財政支出(ファインチューニング)については、決定の遅れや特定の産業での局所的なインフレ(ボトルネック)を引き起こしかねないと批判的です。そのため、景気安定化策としては裁量支出ではなく、自動安定化装置であるJGP(就労保証プログラム)を推奨しており、「景気対策として公共事業を積み増す」という意味での、いわゆる旧来型の積極財政派とは一線を画しています(ただし、産業構造転換のためのグリーンニューディールのような巨額支出には積極的ですが)。

ゴリゴリの積極財政派にとっては、MMTの影響を受けて、財源は余剰の供給能力であり、財政規律はインフレ率が基本です。供給能力が余っているなら政府が財政でその供給能力を動員することで新規の財やサービスを作りだしてもらい、国民がそれを享受することが可能です。この供給能力の余剰がなくなってきていることは、少ない供給に過剰な需要が押し寄せた結果として起こるインフレによって感知されます。そういうわけで財政規律はインフレ率となるわけです。

より詳しくいうと、財政規律として、インフレ率に加えて需給ギャップ、ネットの資金需要などが提唱されています。ゴリゴリの積極財政派は基本的に需要超過でインフレになると想定しているところ、2022年以降はコスト・プッシュインフレという供給側要因のインフレが始まっており、ゴリゴリの積極財政派としてはインフレ率を財政規律として使いにくいのです。これも確かにインフレではありますが、国内の供給能力がフル活用された結果ではなく、海外からくるエネルギーや食料が円安の影響もあって値上がりした結果でしかないのです。

この供給能力がフル活用されているかどうかを教えてくれるとされているのが需給ギャップです。需給ギャップがゼロならフル活用かと思ってしまいますが、こちらも推計方法に議論があり、現行の推計方法ではバブル期などはプラスの4%まで行っていました。なのでゴリゴリの積極財政派としてはプラス4%ぐらいまでなら問題ないと考える人が多いようです。バブル期も資産価格は一気に上がりましたが、インフレ自体は穏やかでした。

ネットの資金需要は、「責任ある」積極財政派のなかで一番「ゴリゴリの」積極財政派寄りといった立場にいると思われる会田卓司氏が主張しているもので、政府と企業が合わせてGDPの何%分の赤字を出しているか、あるいは黒字を出しているかを示すものです。会田氏は政府と企業が合わせてGDPの5%分程度の赤字を出すことが適度な経済成長には不可欠であると主張しており、これが一種の財政支出の目安として機能します。

財政政策の内容については、ゴリゴリの積極財政派も、JGPは取らないため、責任ある積極財政派と同じような財政政策メニューを採用するのですが、違いは経済成長の制約として需要方面を重視する傾向が強く、そのために個人向けの給付や減税(消費税など、消費税が個人向けの税かどうかについては議論があるものの)も重視します。またゴリゴリの積極財政派は責任ある積極財政派よりは適切な財政規模を十兆円〜数十兆円は大きく見積もる傾向があります。

代表的な人物としては、私が「21世紀の京都学派」四天王と呼んでいる、藤井聡・中野剛志・西田昌司・安藤裕が挙げられるでしょう。

「責任ある」積極財政をどう見るか?「ゴリゴリの」積極財政派の視点から

「責任ある」積極財政をどう見るべきでしょうか。「ゴリゴリの」積極財政派の私からすれば、評価は両義的なものとなります。

一方では、緊縮財政派よりは遥かにマシです。緊縮財政派が幅を利かせている現状において、「責任ある」積極財政というポジションは、緊縮派と対話可能な妥協点として、政治的なリアリズムの観点からは最適解だという点も理解はできます。

しかし他方で、そのポジションが「緊縮派と戦い、マーケットを宥めすかしていくための第一歩としての方便」なのか、それとも「実質的に緊縮派(あるいは新自由主義)に取り込まれてしまう入り口」なのかについては注視しなければなりません。これを言い換えると、彼らの言う「責任」とは誰に対する責任なのかという問題です。

「国家は企業ではない」:企業アナロジーの冷酷な罠

そもそも、なぜ私が「責任ある」ではなく「ゴリゴリの」積極財政派なのかといえば、「ゴリゴリ」の方が国家固有の次元を見据えている点で、理論的により正しく、国家としての倫理にも適っていると考えるからです。

「責任ある」積極財政派の最大の問題は、前述の通り国家を部分的に「企業」のアナロジーで捉えているように思われる点にあります。しかし、国家と企業は決定的に違います。企業は「利益」を追求する組織であり、採算の取れない事業や赤字の部門を「リストラ(切り捨て)」することが「責任ある経営」とされます。しかし、国家の目的はいわば「経世済民(世を経め民を済う)」です。赤字だからといって地方を切り捨てたり、生産性が低いからといって困窮する国民を見捨てたりすることは望ましくないでしょう。

彼らが好む「ワイズ・スペンディング(賢い支出)」や「供給能力の強化」、そしてGDPや税収を企業の利益や売上のように扱う姿勢は、裏を返せば「儲かる見込みのある強い分野(企業)には投資するが、そうでない弱者への支出は無駄だ」という選別につながりかねません。国家を企業と同一視し、国民を「社員」のように扱って採算性を求める態度は、一見合理的ですが、その本質は「弱者の切り捨て」という冷酷さを孕みかねないのです。あえて企業アナロジーを使うなら、国民は社員ではなく、株主なのです。

砂漠にレストランを建てるな:需要こそが先決

また、彼らが「供給制約」を強調し、企業向けの投資や減税を優先する点も、経済学的な順序を間違えているように思います。大枠で言えば、現代の生産力が豊かな経済において、成長の制約要因は(近年の人手不足感を踏まえても)基調としては「需要不足」にあると思われます。

どんなに立派な工場を建て、技術開発をして「供給能力」を強化しても、それを買う国民の懐(需要)が寒ければ、モノは売れず、経済は回りません。彼らのやっていることは、客のいない砂漠に最新鋭のレストランを建てようとしているようなものになりかねないのです。まず必要なのは、国民への給付や減税によって購買力を行き渡らせ、客を呼ぶこと(需要創出)です。需要があって初めて、企業は自発的に投資を行い、供給能力は強化されるのです。

真の「責任」とは何か

彼らは「債務残高対GDP比を安定的に引き下げること」を「責任」と呼んでいるようです。しかし、それは特に理論的な根拠のない数字の帳尻合わせにすぎないようにも思われます。

通貨発行権を持つ国家にとって、真の「責任」とは、このような財政指標に即した財政規律を守ることではなく、「国民を困窮から救い、経済を再生させること」そのものです。理論的根拠の不明な中途半端な規律(債務残高対GDP比の引き下げ)を気にして、救える国民を救わず、デフレからの完全脱却を遅らせることこそ、国家として最も「無責任な態度」ではないでしょうか。

以上が現段階での私の見方です。2026年度の予算編成1や骨太の方針において、彼らが「財政指標の数字に対する責任(規律)」を優先するのか、それとも「国民に対する責任(経世済民)」を優先するのか。その行末を注視していきたいと思います。

  1. こちらは去年の骨太に影響されるのでその点は割り引いてみる必要があります。 ↩︎

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