立憲民主党はなぜ緊縮財政なのか?答え:「立憲」だから

立憲民主党はなぜ緊縮財政なのか?答え:「立憲」だから

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3分要約版の記事はこちら。

以前の記事で明らかにした通り、少なくとも衆議院で見るとき、いまもっとも緊縮財政的な政党は立憲民主党です。

ここで緊縮財政とは「税収の範囲に支出を抑える均衡財政」を基本理念とし、そのために「政府支出の削減」や「増税」を志向することを意味します。

立憲は社会保障を充実させる「大きな政府」を目指しており、そのため「社会保障(年金・医療・介護)以外の政府支出の削減」と「増税」を志向する傾向があります。

なぜ立憲は緊縮財政的なのでしょうか?

この記事では、この問いに「立憲」だからだと同語反復で答えてみたいと思います。

どういうことでしょうか。

その意味をまずは簡潔に説明します。

「立憲」の意味を3重の仕方で考えてみればよいのです。

  • 1、「立憲」とは、解釈改憲で集団的自衛権を認めた第二次安倍政権へのアンチ、反安倍です。
  • 2、「立憲」とは、憲法を守ること、とりわけ、憲法9条の平和主義をしっかり守ることです。
  • 3、「立憲」とは、根本的には憲法を制定して国家権力を制限することを重視する政治思想です。

この三つが、ある仕方でどれも「均衡財政・緊縮財政」につながっていくのです。

以下ではそのことを詳しく説明していきます。

目次

反安倍・反アベノミクスとしての「立憲」

立憲民主党の設立の経緯を振り返りましょう。

立憲民主党は、2017年、民主党の後継政党だった民進党が小池百合子の希望の党に合流するときに、平和安全法制を認めないという理由で小池に「排除」されて合流できなかった人々が立ち上げた政党です。

つまり、立憲の名前には、平和安全法制を認めない、より詳しく言えば、その成立にあたり安倍政権がこれまでの憲法解釈を変更する「解釈改憲」を行なって集団的自衛権を合憲としたことを認めないという意味が込められているのです。

これは要するに立憲とは反安倍政権を意味するということです。そして、安倍政権の代名詞的な政策がアベノミクスです。

そして、アベノミクスといえば、「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」の3本の矢です。

立憲は反安倍政権として、反アベノミクスであって、その「機動的な財政政策」を「放漫財政」と批判する傾向があります。

実際には、プライマリーバランス黒字化目標を堅持し、消費税を二度増税し、実際に新規国債発行額を圧縮してきた安倍政権は緊縮財政気味なのですが、立憲はというと、この「安倍政権=アベノミクス=放漫財政」を批判するという構えから、緊縮財政へと導かれていくのです。

憲法九条護憲としての「立憲」

また、以上の経緯から分かる通り、立憲民主党が憲法を遵守する政治として「立憲」を掲げるときに真っ先に念頭に置いているものが、戦争放棄と軍事力の放棄を謳った憲法九条に他なりません。

こちらの記事で詳しく述べたことですが、この平和主義が特異な仕方で緊縮財政へとつながっていったのが戦後の日本です。

戦後の均衡財政・緊縮財政の基本となっているのが財政法4条です。財政法4条は、国債発行を原則として禁止し、政府の支出は税金で賄うべきことを規定しています。この財政法4条の制定の背景に戦争への反省があったのです。

その理屈はこうです。日本があれほどの戦争をできたのは、国債を大量に発行して日銀に直接引き受けさせて戦費を調達したからだ。逆に、国債発行を禁止しておけば戦争はできないはずだ。国債発行を禁じる財政法4条によって憲法9条を実効的なものにするのだ。

この論理によって、戦後の日本のいわゆる左派・リベラルは、その護憲への情熱によって緊縮財政の方へと導かれていく傾向があります。それは国債発行を軍拡・戦争に結びつけ、後者を嫌うがゆえに国債発行そのものを嫌って、均衡財政・緊縮財政の論理へと傾いていくのです。

ほとんど九条護憲を名前に冠しているような「立憲」も、この例に漏れないのです。

憲法による国家権力の制限としての「立憲」

最も根本的なのが、この三点目です。そもそも「立憲」とは、憲法を制定して、それにのっとった政治を行うことで、国家権力を制限しようという政治思想です。近代的な意味での憲法は、この権力の制限にこそ眼目があり、国民が守るべき他の多くの法律と異なり、憲法は政府が守るべきものなのです。

それにしても、憲法でもって縛られるべき国家権力とはなんでしょうか。重要なことは、その縛られるべき権力の最たるものの一つが歴史的に「通貨発行権」だったことです。

近代的な憲法は中世ヨーロッパで生まれ、立憲主義は近代に向けてヨーロッパで練り上げられてきた思想です。現代でも、通貨発行益はシニョリッジと呼ばれていますが、これは中世ヨーロッパの封建領主を意味するシニョールの派生語です。

そして、まさに立憲主義が制約しなければならなかったのが、シニョールの権力としての通貨発行権です。というのも、領主たちは通貨に含まれる貴金属の量を減らす貨幣改鋳によって、自らは莫大な収入を得るとともに、そのようにしてお金の量が増える結果として生じるインフレ(物価上昇)によって人々の資産を目減りさせたからです。

ここで重要なのは、インフレがゆっくりと生じるという条件です。

領主たちが貨幣に含まれる貴金属の量を半分にして、貨幣の量を二倍にしたとしましょう。領主たちはそれで二倍のお金持ちになりますが、それが可能なのは即座に貨幣の価値が半分にならない限りにおいてのことです。

そして、実際に貨幣改鋳の影響は即座には貨幣価値(=物価)に反映されず、市中に流通する貨幣の量が増えるのに従って徐々に物価が上昇していくため、領主たちは通貨発行益を享受することができたのです。

とすれば、もし貨幣改鋳の影響を即座に貨幣価値に反映させることができれば、領主たちの通貨発行権は封じられるでしょう。実は、それを可能にしたのが、いま風に言えば、国際金融資本であり、彼らが作り出す為替相場だったのです。

とすれば、国家権力を縛ろうとする立憲主義にとって、国際金融資本と為替相場は強力な味方ということになるでしょう。実際、国家権力を分割し相互監視させる「三権分立」を提唱し、立憲主義の父と呼びうるモンテスキューは、このような文脈で為替相場を論じているのです。モンテスキューが『法の精神』で言うところによれば…

為替相場は世界のすべての貨幣を比較して、それを適正に評価することを銀行家に教えた(…)為替相場が確立されたため、君公が貨幣を突然、大きく操作すること、少なくともそうした強権の発動を成功させることはできなくなった。(『21世紀の貨幣論』p.169)

この引用を紹介する『21世紀の貨幣論』(要約記事はこちら)のフェリックス・マーティンはこれを以下のように意味づけます。

銀行家の仕事は実体がなくて気味悪がられていた。そんな疑いの目を向けられていた銀行業が突如として、立憲政治を求める聖戦のステルス兵器に姿を変えたのだ。(『21世紀の貨幣論』p.169)

このことは現代においても観察できるでしょう。高市政権のいわゆる「責任ある積極財政」に対して、金融(マーケット)関係者と立憲民主党という、他のことでは滅多に意見の合わなそうな人々が「円安ガー」と為替相場を持ち出しているのです。

ところで歴史的にみれば、この国際金融資本と国家が和解した結果生まれたのが中央銀行です。とすれば、モンテスキューの「三権分立」は、国家の通貨発行権を封じる国際金融資本を含めて実は「四権分立」であって、その名残が「中央銀行の独立」と呼ばれているものであるとも言いうるでしょう。これは興味深い論点を形成します。

さて、しかし話が広がりすぎたようです。ポイントは、立憲主義は国家権力を制限する思想であるところ、その国家権力において決定的に重要なものの一つが通貨発行権であるということです。通貨発行権を制限し、財政規律を確立すること。まさに財政規律とは国家権力に対する制約において決定的なものなのです。

だから「立憲」は財政規律の思想へと導かれ、緊縮財政へと傾いていくのです。

結論:「立憲」は緊縮の宿命を超えられるか

以上が、立憲民主党が、「立憲」の名を冠することによって、「緊縮財政」をいわば「宿命」のように背負ってしまっている理由です。

要するに、「立憲」とは国家権力を制限することを眼目としており、その中核に財政規律というものがあるのです。それさえしっかりしておけば、戦争もできないし(憲法九条護憲)、第二次安倍政権のように(立憲からみれば)強権的に暴走することもないのです。

さて、立憲はこの緊縮の宿命を超えることができるのでしょうか。

いや、そもそも超える必要はない。どうみても以上の考えは真っ当ではないかという意見も出てくるでしょう。

もちろん、私にしたところで、国家権力は制約されるべきだし、戦争はするべきではないし、財政規律が絶対に必要である、このことに議論の余地はないと考えます。

なぜ「均衡財政」を乗り越えなければならないか

しかし、「政府支出を税収の範囲内に収めるべき」だという均衡財政の財政規律だけは乗り越えなければなりません。

なぜでしょうか。私が私の「21世紀の政治経済学」で主張していることが正しいとすれば、豊かな成熟経済においては財政均衡ではなく財政赤字こそが原則であって、したがって緊縮財政ではなく積極財政こそが原則となるべきだからです。

というのも、豊かな社会では市場に任せると供給能力に見合う需要が生み出されず、供給能力の余剰、すなわち、人余りによる失業や低賃金労働が生じてしまうからです。これは供給能力が有り余るほどあるという「豊かさゆえに生じる貧困」であり、極めて不条理なものです。

このような時代にあっては、政府が需要が供給能力に見合うものとなるよう、需要を補ってやらなければならず(あるいは供給を減らしてやらねばならず)、したがって、政府が民間から奪う以上の購買力を民間に投入すること、すなわち、財政赤字こそが原則となるのです。

重要なのは、このようないわゆる「長期停滞論」にも通じるマクロ経済認識と、財政赤字を正当化できるMMTのような貨幣論・財政論とを持つことです。

余剰の供給能力こそが財源だと主張するMMTの登場は決定的なパラダイム・シフトであって、いまやMMT派の貨幣論・財政論を理解していない政治家や各種の識者は政治や経済について、基本的な点で有効な思考を展開できず、徐々にその存在意義を失っていくだろうと私には思われます。

「立憲」と「民主」との新たな総合を目指して

また、問題は立憲主義そのものの刷新の必要性にも関わってくるでしょう。

立憲主義はもともと絶対王政を前提にして生まれたといってよいでしょう。憲法によって国王の絶対的な権力を抑制して、国王の恣意的な統治を制約すること、そこに立憲主義のそもそもの意義があったのです。

しかし、いまや君主主権の時代ではなく、国民主権の時代となり、少なくとも建前上は国民こそが最大の権力者となっています。とすれば、単に古典的な立憲主義のように単に権力の制限を強調するのみならず、むしろ民主的なコントロール下に置かれた権力を有効活用するという視点も重要になってくるはずです。

通貨発行権は、このことの最高の事例であって、いまや国家の通貨発行権を制約することではなく、それを民主的なコントロールのもとで有効活用することこそが、先に「21世紀の政治経済学」を引きつつ述べた理由により、死活的に重要なのです。

結局のところ、私たち有権者一人一人が、それが可能になる程度にまで成熟しなければならないということなのです。民主主義がそのレベルにまで成熟できなければ、遠からず、いわゆる自由民主主義国家は緊縮政策が引き起こす中間層解体によって不安定化して自壊するか、あるいは逆によほど無計画な財政拡大によって慢性的な高インフレに悩まされることになるかもしれません。

このような私たちの成熟が可能である限りで、立憲主義もこれまでのような権力制限一辺倒を脱して、民主的にコントロールされた権力に対するより肯定的なビジョンを持つことができるようことが期待されるのです。

立憲主義とは権力を制限することで自由を確保する自由主義の原理であり、国民が国家権力をコントロールするべきだという民主主義との関係は案外に複雑です。

立憲主義の刷新とは、その原理の自由主義的な側面を、民主主義と新たな形で調和させることを意味します。立憲民主党は、かくして、自らが名に関しているもう一つの要素、すなわち、「民主」の原理をより重視することが求められているといえるでしょう。

この刷新が不可能なのであれば、立憲民主党は遠からず大衆的な支持を失い、野党第一党だからという理由で集っていた人々の離反が相次いで、早晩、消滅することになるのではないでしょうか。以上の点が立憲存続の試金石であるとすら言える所以なのです。

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